5・木曜日
5・木曜日
雨の日と月曜日は気分が沈むというが、ミツキにとっては木曜日がそうだった。
夜になって雨は止んだが、晴れ間が出るほどではなかった。ダイエー裏でくすねる段ボールの束から濡れていないものを探すのが面倒だった。
まだ人通りで賑わう下通りアーケードを避け、銀杏通りの暗がりを歩き、クラブ通りへ着いたのは午後八時半だった。少し早く着き過ぎたかと思いつつも、灯かりの消えたペットショップの前に座る。ギターケースを開き、ハーモニカを使ったチューニングを終え、譜面台にネタ帳をセットする。彼にとって譜面は譜面でなく、歌詞とタイトルだけが散りばめられたネタ帳だった。深い音楽理論も理解していない彼にとって必要なのは歌詞のみであり、そこにコードネームや音符は一切不要だった。あっても見向きもしなかった。我流で覚えたギターコードを適当に当てはめ、手癖だけで弾く演奏スタイルは、路上のミュージシャンに少なくもない。
『満月に照らされて』という、ここ最近続いていた一曲目を変更し、ミツキは紙パックの酒をストローで啜ると、雨の匂いが感じられる曲から唄い始めた。いつも雨の日に出会う女を待ち侘びて男が天気予報ばかり気にしている、という罪のない歌は、ミツキが生まれた頃に流行った歌らしい。
(俺は何を待つだろう……)
サビを唄い上げながら、ミツキの頭はすっかりと別のことを考え始める。それは彼にとって多々あることで、だからといって何か答えのようなものが出る訳でもなく、それは延々、一曲を唄い終わるまで続いた。
そこへ、
「ミツキ君、おはよう」
と、三十代半ばの女性がこれでもかと言わんばかりの黒いミニスカートで歩いてくる。
「ああママ、おはようございます」
頬のチークがおてもやんのように赤い彼女は背後のゴールドビルの住人で、ミツキがここで唄い出した頃からの顔見知りだ。送迎のタイミングで客を紹介してくれたり、店に呼んでは演奏させてもらうこともある、熊本の恩人の一人だ。
「雨になってしもうたねえ」
「ええ。でももう止むでしょう」
希望的観測を含めて答えたが、
「明日は日中いっぱい降るっていうよ」
降り出しそうな曇り空を残念そうに指差す。
「そしたらまた、そっちで唄います」
ミツキが背面のエントランスを指差すと、彼女は頷きながら微笑んだ。
「それが良かよ。そうせんね」
笑顔で手を振りながらエレベーターへ向かう彼女に頭を下げ、ミツキの注意はまた別の疑問へと移る。
それはいつまでこの地に滞在するかという、見通しの利かない問題だった。が、それもすぐに、
「お兄さん、お疲れさま」
「ああ、いつもありがとうございます」
いつものうなぎ屋の女将が瓶ビールを持ってきてくれたために、自問は中断する。
「雨になってしもうてねえ」
「ええ。まあこれくらいだったら大丈夫です」
ミツキは受け取ったビールに泡を立てながら一口、二口、飲んでみせる。冷えたビールは真っ直ぐに胃の中へ落ちて、湿った気分も霧散しそうだった。
「今日はどうすると? また河原で寝とったら風邪ひくよ」
彼は気付かれていたことが無性に恥ずかしくなり、
「いえ、こういう日はサウナでも行きますよ」
また瓶ビールを煽って答えた。
「そうね。それが良かたいね。またお代わりのいるなら言うてきてくれんね」
はい、と答えるもののそこまで厚かましくもなれず、ミツキはいつも玄関先へ空き瓶を置いて帰る。
(それにしてもこの、人の温かさはなんだろう)
再び去来した疑問に、しかし彼は即答する。
(物珍しさだけだ。こんなものは)
路上演奏は実力よりも運だ。ミツキはそう思っている。その証拠に、すぐそばの下通りで演奏している連中は誰も客がついていない。ひと昔前ならいざ知らず、人はもうストリートミュージシャンに慣れ過ぎているのだ。広島で阿保がやっていたように――今のミツキのように、遊び慣れた人間の通る飲み屋の小路を狙うしか生き残る術はなかった。
もちろん、すべての路上ミュージシャンがそう、という訳ではない。いつの時もメジャーを目指して真剣に取り組んでいる若者はいる。
だが、そう言う連中が潰れてゆくのをもう何組も見ていた。路上に集まるだけのファンに満足し、投げかけられる言葉に気をよくし、たまに入るチップがそのうちメインの目的になり、そういった連中は自ら潰れていった。ギターを覚えれば当然のように路上へ向かい、ほんの一握りの顔見知りが集まれば演奏そっちのけで歓談に明け暮れる。そんなことが続くはずもなく、皆一年、二年で辞めてゆくのだった。
路上演奏はそれのみで完結しているものだ。
ミツキはそう思う。
わざわざ高みを目指さなくても、路上での触れ合いは楽しいものだ。しかし、楽しいだけのものは続かない。ぬるま湯よりも性質の悪い路上ならではの解放感は、ミュージシャンを楽しいものだけに向かわせる。楽しいことこそ正義で、やがて予定調和のそれがつまらなくなった時、さも意味ありげに、重々しく、解散、引退を宣言するのだ。そして更に性質の悪いことには、解散の舌の根も乾かないうちに場所を変えて演奏していたりする。要は暇なのだと、ミツキはそういった連中を蔑んでいた。普段は控え目で自分を卑下することの多い彼にしては珍しい敵愾心を持っていた。
そうこうしながらも演奏を続けているミツキの前には、ぱらぱらと人が集まり、またぱらぱらと消えてゆく。そのほとんどが軽い会釈を交えた会話だけだった。
そんな穏やかな光景も、十一時を前にすると少しだけ雰囲気を変える。あちこちの店では客の入れ替わりが始まり、あぶれた人間が通りに顔を出し始めるのだった。
そんな一人に、顔見知りの客がいた。
「おう、やっとったか。見つけたからにゃチップもあげんとなあ」
必ずひと言添えて財布を探るのは、石田というオヤジだった。板金工場の社長だというのは、最初にもらった名刺で知っている。それ以来、週の半分はクラブ通りに顔を出し、千円札を一枚入れてゆく。
その後はノンストップで演奏を続けたミツキだったが、週末を控えた木曜日の通りは一気に人が退けていった。それでもキャバクラの閉店する十二時を目指し、あぶれた連中を客にするため心を無にして唄った。何も考えずギターを弾いた。今出来ることはたったそれだけであり、それ以外は逆に必要なかった。黙っていると客は小さな視線を投げた挙句、よそ見をした自分を恥じるように早足で通り過ぎてしまう。大切なことは演奏を続けていること。演奏している姿を見てもらうことだけだった。少しでも間を空けてしまうと、悪い癖が出てしまう。それは路上演奏者にあってはならない最悪の欠点だった。彼は気が抜けると、初めて路上演奏したその夜のように、今でも手が震えるのだ。それは意識するほど大きくなり、弦を押さえる左指も、弦を弾き下ろす右手にも、理由の分からない震えが襲ってきた。酒は、それを押さえるための遅効薬だった。
考え始めると手の止まる自分に、彼は心で言い聞かせる。
(何も考えない。何も)
日本酒を啜り、そうやって演奏するミツキの歌には、もはや心などなかった。魂の抜けた演奏だった。
大体が、歌の一つ一つに心を乗せるなど無理な話なのだ。彼はそれを打ち消すのに懸命なのだから。
ガランとした通りに、タクシーが忙しく走ってゆく。
雨の匂いはすっかり消え、空は平穏を取り戻したようだ。
それでもミツキは翳り始めた心の熱を取り戻せない。
(帰ろうかな……)
帰る場所などない身の上だったが、ギターを仕舞うのに最適な言葉はそれしか浮かばなかった。稼ぎは小銭を含めて二千八百円。サウナ代でチャラになる金額だ。それで良しとするか否かは、いつでも自分が決めるしかない。
が、そこへ、
「何か聞かせてくれません?」
見上げると、一人の女の子が立っていた。セミロングに丸顔の、幼い顔立ちの少女だ。
不意打ちに驚いたミツキは、
「あ、今晩は」
そう言ったまま固まってしまった。見れば女の子は大きな荷物を載せたキャリーを手に、背中にも大きなデイパックを担いでいる。たった今まで気付かなかったのがおかしいほどだった。
「それとも、もう終わりました?」
彼女は肩先にかかる髪を手のひらで払い、感情の見えない笑顔で訊ねてくる。
「いえ。そんなことないです。唄わせてもらいます」
慌てて仕舞いかけたギターを取り出すと、彼はでたらめにページを開いた。昭和歌謡やフォークソングの多い彼にとって、若い女の子からのリクエストというのは相性が悪い。なので、そういう時の常で広島時代の友人の曲を唄うことにした。元々知らない歌なら期待もしないだろうと。
彼は今夜、結局一度も付けていなかったブルースハープのホルダーを首にかけ、Aのハープを取りつけた。
「じゃあ、一曲……」
曲は静かなアルペジオから入る。
『月に恋をした』というその曲は、高嶺の花に恋をした男の、寂しいラブソングだ。特に何の変哲もないが、よくまとまった内容は佳曲と呼んで差し支えなかった。ミツキはその曲を、ウイスキーのボトル一本で譲ってもらっていた。とにかく酒が好きな奴で、後は女が好きだった。
そんな歌を唄い終えると、
「すごいです! タイミングによっちゃ泣けます!」
どこか媚びたような賞賛は、それでもミツキの機嫌を上向きにする。
「友達の曲なんだけど。まあ、いい歌だと思うんで」
「そうなんですか? 持ち歌みたいでしたよ」
そんな会話の中、向かいのうなぎ屋の角から拍手が聞こえてくる。見たことはない顔だ。
ミツキと同じ世代と思われる男はおもむろにこちらへ歩み寄りながら、
「長渕とか唄えないの?」
よく聞く質問を口にした。熊本に入って以来そのリクエストは聞かないことがなかった。フォークギターにハーモニカを下げた風情のせいなのだろうが、それでも客をガッカリさせたくはなく、
「古い曲なら出来ますよ」
そう、愛想よく答えた。
「じゃあ、しゃぼん玉やって」
男はケースに千円札を置くと、にこやかにミツキへ申し出た。
その後、一時を前にしてなぜか客足が途絶えなかった。大荷物の彼女がいいサクラになってくれているのか、タクシー一台がギリギリ通る狭い小路にもかかわらず、多くの人が足を止めて歌に聴き入ってくれた。その度にケースにはチップが投げられ、気が付くと二時まで唄いっ放しだった。
「じゃあ、今夜は夜も更けましたので終わりにします。またよろしくお願いします」
お決まりの文句でしめると、最後に女の子だけがぽつりと残った。そして、
「すっごいねえ。一万円入ってるよ」
彼女が感心した様子でギターケースを見下ろす。
驚いたミツキがケースの向こうを見ると、いつの間に入ったのやら高額紙幣が入っていた。
「そうだ、私も入れなきゃね」
と財布を出そうとした彼女をミツキは遮る。
「いいよ。なんか君のお蔭で稼いだ感じもするし。本当はさっき終わろうと思ってたとこで」
「そう? でもなんか悪いなあ」
「いや、本当にいいから。その、君は明日も通るの?」
その荷物の多さに観光客だと踏んでいたミツキだったが、
「うん、いるよ」
屈託なく笑う彼女に、気を緩めた。
「そうか。そしたら明日ここに缶ビールでも差し入れてくれれば」
「缶ビールか……。そうだね、そうする」
そう言うと納得した様子を見せ、彼女はキャリーの取っ手を握って背中を向けかけた。バッグではなく取っ手と枠組みだけのキャリーには、大きな荷物と共に何に使うのか茶色の木材が突っ込まれている。
「その……君の名前は?」
すると女の子は肩から振り返り、
「ミツキ。緋色の緋に堂本ツヨシの堂で、緋堂ミツキっていうの。あなたの名前は?」
彼は言い淀んだが、
「一緒。君と一緒だ」
そう答えると紙パックの鬼ころしを啜った。彼女は不思議そうに目を見開いたが、
「じゃあ、また明日!」
今度こそ手を振って別れ、彼は賑やかなケースの中を見てほくそ笑んだ。こんな日もある。こんな日もなきゃやってられない、と。




