4・午前三時のブルーズ
4・午前三時のブルーズ
――「いきましたよ! 今日も三万越えっすよ!」
チップの合計が三万円を超えたと狂喜しているのは最年少のタイジだ。ただしそれを順当に分け合えるのはリーダーの阿保、ミツキより半年前に入った奥安、そしてタイジの三人だ。ミツキはひと月を過ぎてまだ『練習生』扱いで、貰えるのは残りの小銭を全部だ。が、小銭といってもそこは広島随一の繁華街のこと。調子よく五百円玉でも続けば、三千円にはなる。
――「じゃあ、メシ行こうや」
時刻は午前二時。真っ先にギターを片付けた阿保が言うと、タイジもオッくんもそれに倣って片付けを始める。しかし、
――「どしたん。ミツキ君、行かんの?」
ミツキは緊張しつつも、数日前から考えていたことを口に出す。
――「あの、俺、まだまだ皆に迷惑かけてばっかりなんで、もう少しここで練習していこうと思って……」
すると、阿保の表情は緩んだ。
――「ほおか。ええことじゃ。ほいじゃ、頑張りんさい」
思いがけず許可をもらえたミツキは、阿保へと何度も頭を下げた。てっきり『勝手に場所を使われるのは困る』と言われて引き下がることばかり考えていたからだ。
そうして三人はメシを食いに行った。いつもの丼専門店だろう。
残された、いや、一人残ったミツキはすっかり変わり果てた光景にたじろぐ。いつも四本分のギターケースと荷物で塞がれた一角はガランと空虚に映り、それがギターを始めて間もない自分のような初心者に任されているのだ。一人で唄うというのはこういうことなのだと、武者震いを通り越し、いつもの気弱な震えが彼を襲った。
(いや、やるんだ。一人でも出来ることを証明するんだ)
それは純粋に、リーダーの阿保から認められたいという思いからの行動だった。そして、自分もいつかチップを山分けする仲間へ入りたかった。今日も実際はミツキが唄っている間に少なくとも三千円が入っていたはずだ。しかし、初心者である彼に山分けの権利はない。小銭ばかりを二千円ほど集め、ポケットの重みの分だけ胸を悔しさで満たしただけだ。
そんな中、タクシーが一台通り、二台通り、ミニスカートのキャバ嬢が歩いて行く。
(迷ってる場合じゃない)
ミツキは交代制で唄う時と同じようにハンコ屋のシャッター前に座り、ギターを構えた。唄う曲は決まっている。初めて覚えたその曲だ。一人でも出来る。唄える。そう自分に言い聞かせ、まだ人通りの切れない街へ向かって唄った。
そうして何もなく一時間が過ぎた。
自分の力量のなさを認めるには充分の時間だったろう。指先が赤くなるまで練習を重ね、豆が破れたら『セメダインを塗るといい』という情報を信じては破れた豆に接着剤を塗り込み、そして弾けるようになったギターなのだ。覚えたすべてを吐き出したつもりだった。
だが、闊歩する酔客は減る一方で、懸命にギターをかき鳴らす彼に目を向けるのは通り過ぎるタクシーの運転手だけだった。表へ向けて開いたケースがただ虚しく、曲を変える度に彼の歌声は弱々しくなるばかりだ。
そこへ、
――「おう、もう閉めたんか。もっとやれやれ、スリーコードじゃ」
注意を払っていなかった右手の角から、一人の男性が大声と共に現れた。一瞬身構えるも、自分が一人で路上演奏していることを今さらながら思い出す。
――「スリー……コードですか」
ここで唄い始めた一週間で酔っ払いの扱いには多少慣れていた彼も、知らない曲にはどう対応のしようもなかった。
――「ほおよ。スリーコードで、こう、ジャッジャッジャッとな」
――「すみません。まだギター始めたばっかりで難しいことはちょっと」
しかし男はそれを鼻で笑い、
――「何を言いよんな。ブルーズよ、ブルーズ。簡単じゃけえ弾いてみい。Aじゃ」
ミツキには何のことだかさっぱり分からなかったが、男に言われるままAのコードを押さえた。
――「ほおよ。それをジャンジャンジャン、四つ打ちで、簡単じゃろうが」
――「はあ……」
Dセブン、Eと、その後も男に言われるままコードを押さえた。コード自体は難しいものでなく初心者のミツキにも何の苦もなく押さえられた。そこへ、
――「ヘヘイヘイ、今夜もまた堀之内で飲んでました」
男が何やら唄い出した。要するに伴奏を求めているのだと、ようやくミツキにも理解がいった。
男は四十代後半で背が高く、とりあえずネクタイを締めているので会社帰りなのだろう。程々以上には飲んでいる様子で、こんな場所でなければ関わり合いにはなりたくなかった。
――「おいギター止めんな! よく見りゃ街の外れに、はぐれもののカラスが一羽、下手くそなギターで鳴いてます。ほいDセブン!」
――「あ、はい」
なんとなくコードの流れは分かったので、ミツキはそのままのリズムをキープしながら右手のストロークに強弱を付けてみた。するとどうやら二拍目と四拍目にアクセントを付けるといいことに気付いた。
――「おう、盛り上がってきたな! 西を向いたら背中は東、北を向いたらクシャミがあひとつ」
男が何の歌を唄っているのかも、その終わりがいつ訪れるのかも分からない。ただ一つ、男の歌に合わせて弾くギターが楽しく感じられた。何より、阿保やタイジやオッくんの場繋ぎのように唄っている時よりも解放感が感じられた。広島のど真ん中でたった一人ギターを弾いている自分が、ぎこちなくはあるものの、一端のミュージシャンになれた気がしていた。
長い長い、夜が明けるまで続くのかと思われた男の歌は、しかし不意に終わった。男はひと際高い声で、
――「これがオイラとお前の、ブルーズ」
そう唄い上げると、ミツキのギターに人差し指で合図を送った。ミツキは訳も分からずAのコードをジャカジャカと弾きまくる。
――「もうええ、もうええ。エンディングがグチャグチャじゃ」
ミツキはくたびれた腕もそのままに、
――「すみません、知らない曲なんで」
そう答えたが、男は、途端に呆気にとられた顔で言った。
――「あんた、ブルーズも知らんのか」
本気で目を丸くする男には悪いと思いつつ、ブルーズ、と言われても初心者のミツキにはそれ以上答えようがなかった。
――「ブルーズって、何なんですか」
この機を逃すと訊けないと思い、ミツキは素直に訊ねてみる。
――「ブルーズはよお、三つのコードさえ弾ければ誰でも出来る魔法の歌よ。もちろん難しいことはいくらでも出来るが、あんたみたぁなぺーぺーにはそれぐらいが簡単じゃったろ」
――「あの、もしかして今の歌ってアドリブなんですか?」
気になっていた質問をぶつけると、
――「ほおよ。ブルーズいうたら当然、即興じゃろ」
男は少しだけ誇らしげに答えた。
――「はあ……スゴイですね」
道理で長かったはずだ。
――「人のことばっかスゴイスゴイ言うとったらいけんで? あんたギター齧ってなんぼなん」
男はミツキのギター歴を訊ねてきた。
――「それが、まだ三週間くらいで。色々とは出来ないんです」
――「三週間か。ほいじゃあ無理言うたかも知れんが。あんた、ハープ練習してみんさい。ブルーズギターには、やっぱブルーズハープじゃけえの」
そういえばタイジや阿保はいつも首にハーモニカを下げている。その音色は楽曲に独特の深みや透明感を作り出し、いつか機会があれば自分も吹いてみたいとは思っていた。
――「ハーモニカって、難しいですか」
三度訊ねたミツキへ、男は笑いながら答える。
――「さあのお。ワシは才能がなかったが、三週間でそこまで弾けるんならハープも吹けるんやないんか。音楽は根性じゃけえ」
思いがけぬ答えに照れ笑いを返すと、男は急に背を伸ばした。
――「ほいじゃあワシ帰るけぇ」
――「はい、色々とありがとうございました」
あっという間にも思われたが、ガラス越しに見えるお好み焼き屋の時計を伺うと午前四時に近かった。
――「あんた、明日もおるんか」
――「はい。いると思います」
――「ほおか。ほじゃったら、明日も通るわ。これでハープ買うて練習しときんさい」
そう言うと、男はミツキの手に紙幣を握らせブンブン振ると、通りかかったタクシーに手を上げ、ニコリともせず、手も振らず帰って行った。
残されたミツキの手にはクシャクシャになった一万円札があった。ほんの一週間前から始めた路上演奏で、それでも生まれて初めてもらった一万円札だった。
*
長い夢を見た、と、彼は今でもその夢の続きにいることをおかしく感じながら、リクライニングシートの並ぶサウナの仮眠室を出た。
(最近、あの頃の夢ばっかり見るな……)
屋内の販売機に硬貨を入れ、多少割高の発泡酒を買う。
種を明かせばあの時のブルーズオヤジは、それ以来、一度も現れなかった。阿保たちがメシへ行った後に毎日待っていたが、結局二年の間に再会することは出来なかった。ただひとつ、もらった一万で買ったブルースハープは、その練習の成果と共にギターケースへ収められている。
「ブルーズ、か……」
と、彼は男の口ぶりを真似て、語尾を濁らせてみては発泡酒を口へ運ぶ。『ブルース』なのか『ブルーズ』なのかという論争をたまに耳にするが、彼にとってブルーズはブルーズだった。そしてまた、音楽は根性だった。
(その根性が、俺には足りないんだ)
テーブルが四つと、後は壁際に電子レンジと給湯器を設えた食堂で、彼はまた一本、発泡酒を空けていた。客は彼の他にいない。今日は仮眠室に三人見かけただけだ。このサウナもよくやっていけるものだと、彼はまた発泡酒を口へ運ぶ。
ヤニで汚れきった壁の時計を見ると、もう夕方の五時半になっていた。
外を走る車の、水を切るタイヤの音が聞こえる。
カビ臭い空気の中に、自分の吸う煙草の煙だけがゆらめきながら立ち昇る。
そういう時、ミツキはたまらなく路上に出るのが億劫になる。生活そのものを投げ出したくなる。自分で選んだ、誰のせいでもない生活を呪いたくなる。彼にとって毎日は終わりの見えない、それこそ即興のブルーズだった。同じコードを渡り歩き、同じストロークを繰り返し、生まれ出る言葉といえば酒まみれの恨み言ばかり。それだけは避けて通りたいと思っていた場所に、気が付くと立っていた。
煙草の先は鈍い色で火の粉をたくわえている。立ち昇る煙が偶然輪を作る。たったそれだけの魔法を、彼は、今夜も街へと向かう力に変える。




