終章・EARLY Times Ballad
最終章です。
Early Times Ballad
「ミツキさん! ここまで来といて何なんですけど、僕、今からライブハウスなんですよ! 終わったらまた来てみます!」
疾風のように現れて疾風のように去ってゆくハヤトはきっと正義の味方か何かなのだろう。
(今日は一人、か……)
あつらえたようなシチュエーションに、軽く指先が震えた。緊張が張り詰めると、唄い始めた頃のように今でも手が小刻みに震えてしまう。
土曜の夜。行き交う人はどこか忙しげだ。けれど、それは路上唄いにはどうでもいい現実だ。路上唄いは唄えばいい。
ギターを出す。
耳頼りのチューニングを終える。
譜面を立てる。
いつもたったこれだけで準備は出来ていた。今日に限って違うことはあり得ない。
ミツキはもう一度ギターを握り、張り詰めた雑踏にその音で入り込む。それは隙間を縫うのではなく、割れたガラスの破片を微塵も気にかけることなく手を伸ばすような力技だった。どんな夜もそうして夜を叩き割り、歌を大気へと解き放ってきた。そんな歌と夜を幾度となく越えてきたはずなのだ。それが今日に限って出来ない。
どうしてあの日のうちに電話をかけなかったのだろう。
今さらながら、ミツキは自分自身を呪った。
日に日に増えていた緋堂の電話から、どこかで別れる覚悟は出来ていた。なのに彼女はそれを伝えもせず彼の前を消えた。その理由はたった一つ、彼女がミツキを信頼していなかったということだ。少なくとも、ミツキはそう思っている。
しかしそれも今夜で片が付く、とミツキはギターを握り直し、街中へ向かって唄い始めた。心を隠し、感情を消し、これまでと同じように、同じであるように、ただ覚えた限りの歌を声に乗せた。そしてすべての歌はビルの雑踏に虚しくこだました。
なのに、そのどれもが消し去りようのない光景を連れてくる。二人で見た雨垂れ、夜のネオンに輝く銀杏の葉、南の国の反り返ったヤシの木、そして二人で過ごした部屋の数々。
ミツキは歌に酔えない自分をもどかしく思いつつも、手近にあったバーボンのポケットボトルを何度も口へ運ぶ。
そんなことを繰り返しているうちに、雨がポツリ、と落ちた気がした。
流川の天気を外したことのないミツキは、その異変に気付くと顔を上げる。するとそこにはお決まりの荷物もなく、緋堂が立っていた。革製のハーフコートに黒いマフラーの、見たことのない彼女の姿がそこにあった。
タクシーのヘッドライトに晒されて、彼女は少しだけ目を細める。
「ゴメン……邪魔だと思ったんだけど。少し、いいかな」
緋堂は微かに微笑んでいる。
しかし、ミツキはギターを置いて訊ね返す。
「どうして……」
言いたいことは、それだけだった。答えなど何でもよく、その問いかけすら出来ればよかった。それが、あの日の続きだというのならば。
が、彼女は黙り込んだままのミツキへ静かに語り始める。聞きたくもない言葉を並べ始める。彼の知らない声で。彼の知らない喋り方で。
「名前、変わったから。踏ん切りがついたっていうか……」
沈黙は少しだけ、目に映る風景を変える。
「結婚……したのか」
その言葉だけが、やけに素直に口を突いて出た。が、
「ううん、逆……。私、本当は結婚してたんだ。ミツキに会った時から」
彼女も、黙る。そしてその沈黙は雄弁ではなく、黙り込んだ分の言葉で補わなければならなかった。
彼女は俯きがちになる顔をわざと上げて見せるようにして、先の続きを語り始める。
「四年前には結婚してたんだ。でもね、旦那さんとは最初から上手くいかずに悩んだ時期があって、ノイローゼみたいになったんだ。それからお互い距離を置こうって話になって、旅に出て、ミツキに会って」
ミツキは何も答えない。何が彼の耳を突いたのかすら、彼自身が理解出来なかったのだ。
「ずっと、本当のこと言おうって思ってて、それで――」
「いいよ、そういうことは」
ミツキは緋堂から顔を背け、譜面台を片付けに入った。急激に冷めてゆく気持ちに恐怖しながら、リュックへと譜面を詰めた。
「ミツキ?」
それでも彼女は立ちすくんだまま動けない。そんなミツキのひと言だった。
「わざわざ、ありがとう。でも俺、行くとこあるから」
ミツキはそう言うとギターをまとめ、寒風吹きすさぶ中、彼女も同じ風の中にあることを承知した上で背を向けた。
果たしてこれが彼女への子供染みた腹いせなのかどうか、それは彼自身、分からなかった。分からない気持ちを安易に言葉へ変えるにはどうしても、ミュージシャンという、自分で張ったそのレッテルが邪魔をしていた。
彼女が結婚していようといまいと、ミツキにはどうでもいいことだ。彼が許せなかったのは、そんなことではない。結局最後に残る言葉は、時は戻せない、ということだけだ。彼にとって彼女があの日の緋堂ミツキでない限り、もう意味はなかった。あの日のままの気持ちを抱えた自分自身とは向かい合う気持ちがすれ違っている。ミツキが恋をしていたのは、今の自分と同じように思い詰めていた緋堂だったのだ。踏ん切り、というのが彼女に必要な事柄だったとして、自分の三年間は無駄に費やした日々だということになる。
「ミツキ、待って――」
しかし、ミツキの耳には何も聞こえなかった。彼の中の緋堂ミツキは今、幻として消えた。よく出来た幻だったと、彼は流川を奥へ奥へと歩く。
「おう、来たかや。早いのぉ」
三歩歩くと三時間前のことは忘れてくれる癖が幸いして、キョウジはいつもの通りだらしない笑い顔で迎えてくれた。こういう時にこそ本当にありがたい奴だとミツキは思う。
「差し入れなんやけど、二人で飲もうや」
ミツキがコンビニの袋からウイスキーのボトルを出すと、
「アーリータイムズやん。珍しいのお」
また眉尻の下がったキョウジが嬉しそうな顔を見せる。こいつの笑顔は犬のシッポより分かりやすい。
「何なん、氷とコップもあるん。ホンマどしたん」
無言で袋の中身を並べてゆくミツキに、キョウジが軽く驚いている。
「じゃけえ言うたろ。飲みたいんよ」
寒空の下、キョウジがバーボンを齧るように飲む。本当に飲んでさえいれば機嫌のいい男だ。弾き語りに人が止まろうが通り過ぎようが、知ったことではないという顔で次々に酒を煽る。
「カツオがおったらのぉ」
背中のビルを見やりながら突然キョウジは言う。そして続ける。
「あがぁなとこから落ちて骨も折らんかった奴が死ぬとはなあ」
五年前、キョウジが同じように唄っていたこのビル前で、カツオは突然言ったらしい。
――「あれくらい、屁でもないわいね」
カツオはそうして駆け上がった非常階段から三階のエントランスに出て、一階の屋根目がけて飛び降りたのだという。一階は閉店後の花屋だったが、脆弱な屋根のお蔭で逆に助かった。命は助かったものの大きな物音にあちこちの店から人が飛び出し、その凄まじい状況に救急車を呼ぶ羽目になったそうだ。あちこちに打撲と裂傷はあったが悪運の強さが勝り、大した怪我もなく終わった。
それを聞いたミツキは、「あのバカが……」と呟いたものの、お調子者のカツオの性格を考えれば驚きもしなかった。それが酒に酔えばどうなるのかも含めて。
いつの間にかそういったことでは驚かなくなっていたのも事実だ。例えば目の前で女が連れ去られそうになっていても、黒塗りの車から出てきた男たちがゴルフクラブを背中に差してビルへと入っていくのを見かけても、心では驚いていても身体が反応しなくなっていた。そんな中でミツキは淡々と唄い続けていた。他の誰が異論を唱えても、ミツキには夜の酒場は無法地帯なのだ。何が起きてもおかしくはない。
ミツキはコップの中で揺れる琥珀の酒を見つめて、遠い目をした。何ということもなく過ぎた八年間――ミツキが路上演奏を始めてからの年月は、いつのどのシーンも鮮やかに色付いている。琥珀色の思い出がたった一つあるとすれば、それは彼女の影だけだ。そしてその影も、つい今しがた消え去った。これでようやく何かを終えることが出来ると、始めることが出来ると、力なくそう信じた。
キョウジは酒を飲み始めると意外に口数が減る。
それに付き合っている訳でもないのだが、ミツキもまたしばらく口を閉ざす。同じように流川通りの北風に身を寄せ合っている二人も、目に映る風景はきっと違った。お互いに一つの道を重ね合う伴侶を持たず、そのつもりもなく、そんな二人の沈黙はそれぞれのものだった。訳のない笑顔や意味のない哀しさが、そのまま一人分としてそこにある。そういった真冬の酒宴だった。
煙草を買いに行く飲み屋の女が、寒そうに駆け足で通り過ぎる。吐く息も白く、コートの襟を押さえてサラリーマンたちが行く。タクシーを止め損ねた男が一人、仕方なく次の車を待っている、人々には帰る家があり、ミツキとキョウジにはない。ただ、そこにあるのはそれだけの違いだろうか。家を持たないというのは、たったそれだけのことだろうか。
浮かんでは消える夢想に、今は答えを求めないことにした。
やがて寒さに気付いたようなミツキが両腕を組み直し、
「なあ、リクエスト代は払うけえ、あの歌やってや」
そう呟いた。ミツキはキョウジと同じだけの酒を胃に落とし、すでにキョウジより酔っていた。
「ああ? リクエストかや。珍しいのお。ええで、何唄やいいん?」
ミツキは、
「『月に恋をした』で頼む」
「かあっ、それはキツイで。今、その歌、封印しとんよ」
封印の意味は分からなかったが、ミツキはポケットの千円札をケースへ投げる。
「今頃んなってさ。お前の気持ちが分かる気がする。その歌作った理由が」
するとキョウジは何やらぶつくさ呟き、
「そうかや……まあ、やれ言われたらやらんこともないが」
そう言うと、ビルへ飾るように立てかけていたギターを手に取る。そして。
ポロン、ポロン、と気の抜けたアルペジオが途切れると、キョウジ一流のダミ声が流川に響く。急激に酔いの回る頭の中に、そして歌が落ちてゆく。
――きれい過ぎるアンタなんかと 何で出会った あんな形で
ミツキはコップのバーボンを噛みしめる。胸に湧いて出る思いの理由を正せば、あまりに無防備だった自分が腹立たしくなる。俺は彼女と対等な恋をしていたつもりだった、と。
――沼地で暮らす泥ガメのくせに 夜空に浮かぶ月に恋をした
キョウジは唄う。世間の誰に理解されなくとも構わないといった顔で。
――沼地で暮らす泥ガメのくせに 夜空に浮かぶ月に恋をした
ミツキはボトルの酒をコップへ移し、キョウジと一緒にサビを唄う。
「お前、ホンマになんかあったんやない」
歌が終わると、自分の酒を注ぎ足し、キョウジが訊ねてきた。
ミツキは口に広がるスモーク樽の香りを思い切り吸い込んで、
「あった……いうか……。歌がな、出来そうで」
「新曲かや」
「お前にこの歌もろうた時にな、いつか作ろう思うとったんよ」
「はえー、気の長い話じゃの」
キョウジはガラムに火を点け、甘くスパイシーなその煙を街中へ撒き散らす。
ビルの陰にある寄り道通りからは、時折人影が現れていた。ミツキはその名の響きが好きで、いつか寄り道通りの曲を作ったこともある。
「ちょっと場所借りるわ」
ミツキがケースを取ると、
「おう、ええで」
キョウジがどうでもよさそうに答える。
ミツキはギターを出し、風雨に耐え続けた相棒を慈しむように抱いた。ジャラン、と弦を弾き下ろした時に、この歌はいい曲になると確信があった。
「ほんじゃまあ、聴かせてくれえや」
キョウジがコップの氷をかき混ぜると、ミツキは小さく頷いた。キーはD。ハーモニカは張り過ぎず、ため息のように。
――午前三時のポケットに 収まりきれず飛び出した
――小銭の数と同じだけ 星が揺れている
――空缶みたいなこの街の夜が もうじき片付けられてしまう前に
――明日はもうそこにあるのに 今日の歌を唄うよ
――朝はすぐそこにあるけど 夜を唄わせておくれよ
思えば、記憶はすべて夜の中だった。記憶も予感も夜が連れてくるものなのだった。春も、秋も、雨も、雪も、それを他人事のように見送りながら過ごしてきたのだ。いつからか夏の陽射しの中を歩く夢に心奪われ、夜を台無しにしてきたのが俺だ。そうミツキは悔やんだ。この歌は、そんな街の夜へ向けたラブバラッドだ。
――こぼしたグチの数よりも 酒を煽ったそんな日にゃ
――夜をこのまま買い占めて 星を眺めたい
――落書きみたいなこの俺の歌じゃ 誰かに踏み潰されてしまいそうさ
――涙はもうここにあるのに 笑顔つくってしまうよ
――君は遠く離れたのに 恋を唄ってしまうよ
流川を通りゆく人々は、この奇妙な宴会を物珍しそうに眺めてゆく。あるいはミツキの投げた紙幣を、あるいはキョウジの派手にペイントしたギターを。そこに喜びや哀しみや、やる方ない憤りがあるとも知らず、刺せば血も涙も流す人間の姿があるとも知らずに。
――午前三時のアスファルト 寝ぼけまなこで転がった
――空のボトルが呟くさ 夢が終わったと
――空き箱並べたこの街を明日 誰かがほら飛び出してまた振り向く
――明日はすぐそこにあるのに 今日を忘れられないよ
――朝はすぐそこにあるけど 夜に抱かれていたいよ
ミツキは心を放ち、感情を曝け出し、その歌を唄い終えた。出来立てのその曲は湯気さえ立てなかったものの、路上の悪友の涙は誘ったようだった。
「ええ歌やん。それ、譜面書いてくれえや。なんて曲なん」
「まだ決めとらんのよ。キョウジ、お前決めてくれ」
「マジかや。ほおじゃのお」
キョウジは言いつつ酒を減らし、唐突に、
「アーリータイムズ・バラッドでどうじゃ」
「アーリータイムズ・バラッドか。ええの、決まりじゃ」
「ほいじゃ命名記念で」
「乾杯」
二人で飲むバーボンは底が抜けたように残りを減らし、
「ワシ、次の酒買うてくるけえ! 上ったらサウナ行こうや!」
コンビニへ走ったキョウジを眺めながら残りのバーボンの最後をかき回していると、寄り道通りから女性が一人顔を出した。
「もう終わりですか」
ミツキは咥えたばかりの煙草に火を点けると、
「酒がないなったら終わりよ」
そう言いつつギターを構えると、
「何でもええならやるけど」
「はい」
ミツキはキョウジの『月に恋をした』を懲りもせず唄い始めた。弦の鳴りはよく、冬場の乾いた風にも負けずいい音を鳴らしてくれる。
「今日も一人じゃないんですね」
歌の合間に表情も変えず、彼女は辺りを見回して言った。
「ああ……たまにはね」
と言っている先からタクシーの列を横切ってキョウジが戻る。
「うひょ、ユミさん来とるが!」
だらしなく眉を下げるキョウジに、ミツキは一つきりの希望を乗せて声をかける。
「キョウジ、熱燗一個追加でな」
「マジかや。いっぺんに言うてくれ」
ぶつくさ言いながらコンビニへ引き返すキョウジをミツキは笑い、彼女はそれを不思議そうに見つめていた。
そこへ、
「おうミツキ! 今日はこっちか!」
タクシードライバーの武藤が大声をかけてゆく。
と思えば深夜の冷たい風を切り、ハヤトが自転車で駆け付ける。
「ここだと思いました! これ、差し入れのビールです」
ハヤトとしばし視線を重ねると、ミツキは観念したように言った。
「今夜は長うなりそうやな」
蓮池ユミがコートの裾をはためかせている。キョウジの買ってきたウイスキーのボトルが足元に転がっている。ハヤトは路肩に自転車を止めて、もはや根拠の分からない笑顔を向ける。
どこから手を付けたものかと、ミツキはホームグラウンドの地でしばし座り込む。
流川の夜は放射冷却で更に冷え込み始めた。だからといって演奏が終わる訳ではない。まだまだ酔客は右に左に通り過がり、そして新しい酒が並ぶ。
俺が見たのは緋堂の幻なのだと、ミツキは演奏途中のギターをかき鳴らしつつ、冬の夜空を見上げる。あれが緋堂ミツキならば、あんなに明るい顔を見せるはずがなかった。表情は思い詰め、言葉は張り詰めているはずだった。
彼女が本物なら、この酒宴を嗅ぎつけてどこからでもやって来るだろう。もしそんな時があるならば、ミツキは今度こそ彼女の笑顔を心から見たいと思うのだった。
たとえ朝がすぐそこにあろうとも、今はまだ夜に抱かれていたい。ここから先は深まった夜の続きが待っているだけだ。朝日に背を向けて、夜を語る人々の時間の始まりなのだ。彼女が夜の闇を手探りで一緒に旅した彼女のままであれば、ここへ辿り着くのは容易いことだ。そしてすべての感傷と古傷を酒と共に飲み干した時、朝は優しくこの身を照らすだろう。誰をも照らすだろう。
――了――
長らくお付き合いありがとうございました。
次回作の予定はありませんが、「歌唄いシリーズ」はどこかでまた書いてみたいと思います。




