南高北低・4
南高北低・4
昨夜は緋堂のパネル製作に付き合い、結局午前三時まで起きていた。
――「明日は部屋の清掃頼むから、朝九時起きだよ」
と言っていた彼女だが、その言葉通り九時には目を覚まして荷物整理をしていた。俺はカーテン越しの明かりに目を細め、身体にムチ打って目を覚ます。
「ミツキ、起きた?」
「ああ……」
寝ぼけ眼でバスルームへ立つと、歯を磨きながら目を覚ました。今夜はハーヴェスト・ツインズで本番営業だ。まあ、本番とはいえやることは昨日と変わらず、客数が増えるだけだ。いくつかのハプニングは考えられたが、そこは長年の勘でどうにか乗り切っていこう。
「考え込んでるとこ失礼するんだけど、私も使いたいのよね」
気が付くと背中に緋堂が立っており、
「悪い。妄想とか空想は得意分野で」
「いいから早くして」
「了解。その代りお前もちょっと外してくれよ。レディの前じゃ出来ないこともあるんだから」
「だったらドア閉めといてよ!」
最近、妙に怒りっぽいというか気性の荒い緋堂に肩をすくめ、便座へ腰を下ろす。
(その割にやたら甘ったるい顔する時があるんだよな)
自分も他人の表情の変化を汲むようになったかと思えば、この旅での成長が実を結んだことになる。他人への興味などないにも等しかった熊本時代を思うと、この変化は大きかった。やがてそれが何か大きな分岐点へと導く予感と共に、今はこの旅を楽しんでいたかった。
時計が九時四十分を示す小さな部屋で、俺は窓を開けて一服していた。
「後でいいけどさ」
と言い置いて、緋堂は鏡に向かいながら微かにピンク色に染めた唇を上下する。
「あの骨董屋さんに寄りたいの。なんか菓子折りでも持っていきたいからミツキもそれへ付き合ってくれない?」
なんとも殊勝な話だが、もらってばかりで返すことのなかった俺には考え付かない発想だった。図太いだけではなくそういった細かい神経の持ち合わせがあるだけで、人はその魅力を数倍に高める。
「そいうのは緋堂に任せるよ。で、とりあえず昼までどこかで時間を潰したいんだけど」
すると彼女は、
「一番街にある喫茶店なんだけど、ちょっと行きたいかなって。モーニングも午前中いっぱいみたいだし」
「異議なし」
「ぶー。こういうの、たまにはミツキも考えてよね」
「男はそういうの得意じゃないんだよ。デートじゃないんだから勘弁してくれよな」
「はあっ? 今、デートじゃないって言った? これは純然たるデートなのよ? 男と女がお出かけするのはデートなの」
子供のような膨れ顔は彼女をより一層幼く見せる。実際は二十五歳の妙齢なのだが、怒るとその顔は幼稚園児に見えるのだった。
「とにかく化粧終わったなら出るぞ」
「出来ました。じゃあ行こうか、喫茶店」
緋堂待望の喫茶店はシックな造りで今どきのカフェとは趣向が違った。何よりガラステーブルというのがポイントだった。
二つ頼んだモーニングはトーストにサラダとゆで卵で別段変わったところはなかった。ただし、細かくキャベツを刻んだコールスローは絶品と呼んで差し支えなく、そして自家製ブレンドコーヒーも美味かった。それで税込ワンコインだった。
次は菓子折りの出番だと、俺は緋堂の案内で若草通りを背にしたデパートへ向かい、様々な銘菓を見て歩いた。その度に『試食』と称して彼女は次々に単品買いした菓子を口へ運んでいた。結局落ち着いたのはチーズ饅頭という宮崎銘菓で、
「地元の人にこういうのもなんだな」
と言う俺へ、
「地元の人ほど買わないものなんだよ」
そう言って、緋堂は五個入りの折を一つ買った。
それから若草通りに戻って骨董屋を覗くと、緋堂だけが奥へ歩を進め、店主と談笑していた。そして、
「お待たせ」
と戻ってきた手には大きなフレームと新品のパネルを抱えていた。
「そういうのも売ってるのか」
驚いた俺が訊ねると、
「絵画関係のルートも持ってるみたいで、一昨日頼んでたの。あと、新しい絵具も」
「けど、その荷物じゃ後はどこも行けないだろ。一回戻ってホテルに預かってもらうか?」
「うん、大丈夫だよ。それに次は君の行きたがっていたお店だよ」
「俺の?」
とまた若草通りを引き返すと、一番街アーケードの洋食屋へ向かった。
「チキン南蛮、食べたがってたでしょ?」
「あ、ああ」
確かに宮崎初日に見かけた店はあった。それを緋堂は覚えておいてくれたのだ。
「満腹だよ。もうしばらくチキン南蛮は食べなくていい」
「君の場合、昨日のラーメンとチャーハンが残ってたんだよ。細いくせに大食いなんだから」
「とはいえ、あれは普通のボリュームじゃなかったぞ。俺は今日、もうカロリーは摂らないからな」
「でもビール飲むでしょ」
ホテルへ向かいながら、それでも緋堂は大きなパネルに満足げな笑みを浮かべていた。
腹をさすりながら戻ったホテルでは、頼んでいた通りの時間に掃除が終わっていた。薄暗いフロントの隅には宿泊客の荷物の列が出来ており、緋堂もそこへパネルを預けるのは気が退けたろう。放り投げでもされたら大事だ。
「月曜なのにね。お客さん多いんだ」
そういえば、ここに来て三日間、他の客と顔を合わせたことがない。
「とにかく部屋に行こう」
あちこち動き回るのは得意ではない。昼間ともなれば尚のことだ。自分は唄う引きこもりだというのが俺の信条だ。
部屋へ戻るとまず、緋堂は荷物を丁寧に解き、パネルの角をチェックしていた。それからやにわに絵具のチューブを手に取り、キャップを緩めると鼻先に近付けた。
「それ、なんか意味あるのか?」
その様子を見ていた俺が訊ねると、
「ううん。自己満足。新しい絵具の匂いだっていう確認。これでまたインスピレーションが湧いたりするんだ」
そんなもんか、と思いながらタバコが吸い難くなった俺は夜のための譜面整理に入る。
(客層だけが問題だな)
昨日は一組だけで年齢層も狭かった。しかし、今日はそう上手くいかないだろう。ステージ回数も分からず、曲をどう振り分ければよいか分からなかった。
と思っていたのだが――。
結局、ハプニングもなく、二日目のステージは呆気ないほど簡単に終わった。違ったところといえば、客が三組だったことと特にリクエストがなかったことで、店長の橘さんも、
「お見事です。他のミュージシャンにも見せてあげたかったです」
そう笑顔で言ってくれた。無難なステージ、という意味も込められていたかも知れない。
午後十時前に三ステージ終わった所で俺の役目は終わり、持て余していた緊張感が身体の中で疼くのを感じ始める。
「じゃあ、今から外で少し歌って帰ります」
そう伝え、ハーヴェスト・ツインズの演奏二日目は終わった。
路上へ出ると月曜なりの人出で、俺は気持ちが昂るままにギターを鳴らした。何せ、今夜の稼ぎは充分に手にしているのだ。気持ちの余裕はそのまま歌にも表れ、人の好い宮崎人たちが代わる代わる小銭を投げていった。
そのまま深夜十二時を迎えた俺は、二千円分ほどの小銭をポケットにギターを仕舞った。これが路上の稼ぎのみならば宮崎という街を苦手にしていたのだろうが、現金なことに金の心配がなくなると気持ちは変わるものだ。
まだ出ているかと思い、一番街の骨董屋を目指すと、例のランプは煌々と輝き、その下で筆を握っている緋堂の姿が見えた。目の前には男が一人立っているようだ。
「ミツキ!」
俺の影を捉えたか、緋堂が長い筆を振り回している。俺は歩みを早め、その場へ急ぐ。
「どうだった?」
そう訊ねたのは緋堂で、俺は、
「バッチリだ」
それだけ答えた。そこへ、
「二人は知り合いなの?」
緋堂の前に立っていた三十代そこそこの男が、俺ではなく緋堂へ訊ねる。
「知り合いっていうか同志です。彼はギター弾きなんです」
すると男は、ふん、と軽く笑った。
「見ればまあ分かるけどね。『そういうの』だってことは」
俺同様、『そういうの』の意味が分からなかったのか、緋堂は小首を傾げる。
「だからさ、ストリートとかで唄うんでしょ? そういう社会に依存してる人間特有の何かが見えてさ」
こいつは肌に合わないと判断した俺は、後を緋堂に任せてだんまりを決め込んだ。
「依存とかじゃないですよ。彼は今日も大きなクラブで唄ってきたばっかりです。それに路上だって心を込めて唄ってます。もう少し言葉を選んでください」
緋堂は感じた怒りを持ち越さない方だ。それが裏目に出て、男を責めるような言葉になってしまった。
「唄う唄う、いうて、人の歌やろ? 自分の歌が売れんから他人の歌唄っとるんやん。違うか?」
男は緋堂に反論されると思っていなかったらしく、俺を貶める方向へ言葉が飛んだ。
緋堂も緋堂で静かな怒りは収まらず、
「プロのオーケストラだって他人の曲を演奏します! オリジナルだっていっぱいあります! そうやって勝手に自分が思い込んでいることだけで人を判断しないでください!」
声を荒げる緋堂に気圧されたのか、男は最後の手段でも出すように、乞食風情が、と言い放った。
「どのみちあんたもこん男も、社会におんぶに抱っこやろ? 住民税は払うとるか? 所得税は? どうせ払わんとやろ? よかよか。社会のお荷物同志、傷でも舐め合って頑張り」
言いたいことを言い終えたのか、男は靴音を大きく鳴らしながら闇へと消えた。
「ひどい……ひどいよ……」
残された彼女は悔しさに握り拳を震わせている。その筆先は尚更だ。
「どこにでもいるんだよ。ああいう奴は。大方、俺が来たから妬いたんだろ」
「妬いた?」
「ああ。一人もんの寂しい女がいるから声でもかけてみたら、男がやってきてガッカリしたんだよ」
「そんな、私そんな話――」
「ああいう輩は勝手に妄想するんだよ。俺が来なかったらどこか飲みに行こうだの泊まれるところ案内するよとか、上手いこと言って誘うつもりだったんだろう」
「私……そういうの初めてだ……」
地元の札幌でも路上で描いていたという緋堂は、一年以上こういう活動をしていたはずだ。ナンパ染みた何かが一つもなかったというのは驚きだ。男の俺でもたまにあるというのに。
「ギター弾きでもさ、女の子はそういう男が集まりやすいんだ。いい歳のオヤジが見栄を張って十万円入れてくことだってある」
「……そっちのがよかったよ」
「ともあれ今夜の結果報告だ。三ステージ一万五千円、無事に終えてきたよ」
「そっか……ミツキはよかったんだ……よかった」
緋堂は放心状態のまま筆を洗い始める。新しいパネルには絵具は乗っておらず、このまま店仕舞いするようだ。ならば。
「それでさ、緋堂。クラブの後に路上で二千円稼いだんだ」
「うん……よかったね」
「で、あのラーメン屋まだやってたぞ」
「……いいの?」
「おう。この世界は稼いだ奴払いだ。思いっきり依存して傷を舐め合おうぜ」
俺がそう笑うとさっきの男の言葉を思い出したようで、急に涙ぐむ。そこで、
「俺もお前も敵はいるけどさ、まだまだ味方に囲まれてる方なんだぜ。信じるならそっちの言葉を信じよう」
「うん……そうだね」
「それから俺のこと庇ってくれてありがとな」
やっと笑顔の見えた緋堂は手早く画材を仕舞うと、
「今日はラーメンだ!」
少しばかり無理やりな元気を引きずり出して高らかに叫んだ。
*
宮崎四日目は生憎の雨で目が覚めた。更に生憎なことに、俺は雨の日にまったく動きたくない。
「緋堂。今日は部屋の掃除いいだろ」
「いいけど……二日酔い?」
彼女はランドリーへ持っていく服をまとめながら背中越しに言う。
「二日酔いより性質が悪いんだ。レイニーブルー症候群でな」
「何それ。どっかの歌謡曲みたい。じゃあ、溜まってる洗濯、一緒に洗うから出して。そのジーンズ、一か月履いてるでしょ」
「ああ、ジーンズはいい」
「どうして男の人ってジーンズ洗わないんだろ。いいから出して」
「いいよ別にやるから。お前だって自分のパンツと俺のパンツ一緒に洗いたくないだろ」
「何で? 洗うのはいいよ。履けって言われたら嫌だけど」
「……」
結局、俺は緋堂の押しに負けて、洗濯を頼んだ。昨夜のコインが余っているので、それを全部渡した。
俺は緋堂の出払った部屋で、軽い放心状態だった。クラブ演奏のリハと本番を無事に終え、宮崎の滞在に関して新たに挑む要素がなくなっていたからだ。
やけにスースーと風通しのよいホテルの浴衣で俺は部屋を歩き回る。浴衣はなんというか着ている時はいいのだが、寝起きの布団の中では裾がカオスになっている。それだけが難点だった。と思ったが最大の難点は男女問わず不意にはだけることだろう。今のところ緋堂も気にしてくれてはいるが、彼女の場合はベッド上の基本姿勢が胡坐なので余計にヤバい。
「回してきた。ミツキ、コンビニ行くけどなんかいる物ない?」
「エコー二つとカップコーヒーと……ああ、そういえばお前コーヒー買ってなかったか? 残ってるならくれよ」
すると緋堂は不思議な拒否を示した。
「ああ、あれはダメ。絵に使うから」
「絵に? お前、コーヒーで絵を描くのか?」
「絵具にね、混ぜるの。マチエール……っていうか表面に凹凸が出来て絵の雰囲気が変わるんだ。で、コーヒー?」
「いや……サンドイッチと発泡酒でいい」
「また朝から飲むの? マタニティブルーが悪化するよ?」
「レイニーブルーだって」
そうやって、午前中はベッドの中でゴロゴロと過ごした。緋堂曰く、
「君ってばホントにずるいよね。それで結果出してなかったら絶対追い出すのに」
ということらしい。まったく成果を出していない時も多々あるのだが、それは贔屓目に見てくれているのだろう。
そんなふうに、日々は穏やかに過ぎていった。雨の火曜日が過ぎ、風の強い水曜日を越え、クラブ・ハーベスト・ツインズの演奏も順調にこなし、ついに宮崎滞在は残り二日となった。明日の日曜日は休むことにしているので、実質今夜の土曜日が最終日だ。
緋堂はあれから大作の注文もなく、細々と小さな絵を売り続けているらしい。
「じゃあ、頑張ってきてね」
ポストカード制作の手を止めた緋堂が、ギターケースを担いだ俺に言う。
「ああ、お前もな」
俺はドアを開けて外へ出る。最終日がこれほど清々しい街も初めてだ。
今日から十一月に入り、風の冷たさが身を引き締める。もうすっかり慣れたホテルからの道、一番街の喧騒を眺め、週末らしい人出に小さく微笑み、この街もまたいつか再び訪れたいと願っていた。そしてそのいつかがどれだけ難しいことなのか、全国三十都道府県を渡り歩いた俺は理解出来ているつもりだ。時に人が口にする、『一期一会』そのものを地でゆく旅に、すり減らした靴底の分だけ不義理も重ねてきた。会わなければいけない人々を置き去りにして、それこそが一人旅の意味なのだと、自分に対して口裏を合わすような生活を重ねてきた。
そういう思いから、今日だけは解放されている。
「お疲れ様です」
ハーヴェスト・ツインズへ入ると、いつものように店長が出迎えてくれた。
「ミツキ様、この度は当店の都合に無理やり合わせて頂いて、本当にありがとうございました」
丁寧なお辞儀と共に発せられた言葉は、ミツキの歌唄い人生の中でも聞いたことのないほどの勿体ない言葉だった。
「いえ、そんな。こちらこそです。それにそういうのは、今日をしっかり終えてからにしましょう」
「そうですね。今日は今週いちばんの客入りの予定です。どうぞ、ミツキ様らしい素晴らしい演奏をお聞かせください」
とりあえず一曲分だけのリハーサルで音を合わせると、後は時間が余った。すると何も言わずにバーボンのロックがカウンターへ運ばれる。
「ああ、ありがとうございます」
俺がグラスを手にすると、
「それにしましても、そういう強いお酒を飲んで、声の方は大丈夫なんですね」
少しからかうような口調で店長が笑った。
「はい、一回酒で喉を潰すと、そこで定着してしまうみたいなんですよ。医学的根拠はありませんが」
「では、魔法のクスリ、とでも呼んでおきましょう」
また笑い、店長は午後七時前の開店に備え始めた。ミツキに対しては柔らかいが、スタッフには厳しい口調で指図を出す。ドレスの色が悪いと思った女性には迷わず、着替えてくるように告げている。
とりあえず三ステージ分の譜面をカウンターへ置いた俺は、最後にもう一度入念にチェックを入れておいた。もしもリクエストが入ったとして、流れを切らずに済むような曲を譜面の後ろにストックしておくのだ。それを三冊分やると、曲数で三十数曲になった。
後はハーモニカをC、D、Aと揃え、ホルダーのゆるみをチェックする。それで準備は万端だった。
ステージ上の老いたギターはミラーボールに照らされて、落ち着かない顔を見せている。まるで飼い主とはぐれた老犬のようだ。
七時を回り、早くも二組の客が来店した。女性スタッフの数も今日は最高で、二十人以上いるように見える。そしてその動きは優雅でいて繊細だった。その辺のキャバ嬢では到底無理な所作だ。
その二組がようやく落ち着くと、
「ミツキ様、よろしいでしょうか」
と声がかかった。
「はい。行ってきます」
ハーヴェスト・ツインズのステージは広い。ちょっとしたピアノなら一台置けそうなほどだ。それだけならミツキを委縮させてしまうのだが、都合よくライトが正面から当たる。すると客の顔など見えなくなって、緊張も和らぐのだった。
ミツキはギターを抱えると、談笑中の客たちには目もくれず、一曲目の『Yesterday』を唄い始めた。ビートルズのスタンダード中のスタンダードナンバーだったが、ちょうどキーの合うDのハープを入れ、オリジナルの展開にした。
それがよかったか単に選曲がよかったか、六十近そうな客たちの反応はまずまずだ。
次の曲はサイモン&ガーファンクルの『THE BOXER』で、曲調は少しアップテンポになる。これも同じくDのハーモニカで凌いだ。
要するに一回目のセットリストはすべて洋楽だ。変に邦楽を入れるとバランスが崩れるので、三曲目、四曲目とまたビートルズナンバーを挟み、初日のステージでも好評だった『My way』を最後にワンステージを終えた。
ライトの熱で汗をかきかき戻ると、カウンターではお絞りと生ビールが用意してある。
「全編洋楽は珍しいですね」
橘店長が程々に驚いた顔でお絞りを手渡してくれる。
「はい、自分でも初めてでした。ツーステージ目はすっかり変わりますよ」
「楽しみです」
そう言いつつ、今度は八時台の客が流れ込んでくる。
「ミツキ様、すぐにツーステージ目ですので」
店長はそう言い残してエレベーター前へ駆けて行った。
俺はソワソワする気持ちを落ち着けるために、グラスのビールを煽った。襲ってくるのは緊張感ではなく、珍しいことに昂揚感だった。プロのステージをプロの照明が演出してくれ、そこで唄うと自分が一端のプロミュージシャンであるかのような臨場感に包まれるのだ。これ以前から自分は一ミュージシャンであるという自負はあったものの、それは路上の枠を出るものではなかった。
三組目の客が入る。六十手前を筆頭に、四十代、果てはこの店に馴染まない二十代に見える客だ。接待染みた光景ではある。
そんなことを考えているうちに、出番はすぐにやって来る。
「ミツキ様、よろしいでしょうか?」
俺は高鳴る胸をビールで落ち着け、二回目のステージへ向かった。
こういったステージでは色々と場違いなMCを挟む素人も多いが、こういう場では厳禁だった。誰が名も知らぬ演者の話など聞くだろう。
なので俺はすぐにギターを弾き下ろす。それがステージの始まりを告げるチャイムであるかのように。
そしてチャイムに気付いた何人か会話を中断した隙にハーモニカの音色を紡ぎ始める。
ツーステージ一曲目は尾崎豊の『I LOVE YOU』だ。説明不要の有名曲であるため普段の路上でさえも唄わないのだが、そういうナンバーこそ、こういった場には必要だった。
軽い拍手の中、一曲目が終わる。設定していた二曲目をやるかやらないか悩んだが、今日は攻めの姿勢で唄おうと、準備したままの曲を演じた。盲目のミュージシャン長谷川キヨシの歌で、『黒の舟歌』だ。実に四十年以上前のヒット曲だ。普通は尾崎豊に並べては唄わない。
が、思いがけず気に入ってくれた客がいたようで、彼はステージの上まで上がってきては、ギターのヘッドへ紙幣を挟んだ。『そういうお客様もいらっしゃいますから』と店長に聞いてはいたが、ここまで熱烈だとは思っていなかったので驚いた。僕は照れ笑いで頭を下げる。
その後は唄い慣れた吉田拓郎を唄い、河島英五でしめた。喝采の後ステージを降りると、あちこちから握手を求められ、そのすべてに紙幣が握られていた。
「すっかり色が違いましたねえ」
二杯目のビールを持ってきてくれた店長へ苦笑いを返すと、
「この緩急が持ち味です」
俺はグラスを煽って今度こそ素直に笑う。
「それで、先ほどチップをくださったお客様からリクエストを頂いたんですが」
「リクエスト? なんでしょう」
「ええ……と」
店長は小さな紙片を開きながら、
「『風に吹かれて』という曲です。大丈夫ですか?」
俺は一瞬間を開けて、
「運がよかったです。こんなこともあろうかと先日歌詞に書き起こしていました」
それを聞くと、
「よかったです。一曲目にお願いします」
そう笑って店内を回り始めた。
泣いても笑っても次がラストステージで、俺はもう一度三冊目のセットリストを組み直した。一曲目が洋楽になると、最終ステージは和洋折衷でいくしかない。しかも有名どころだ。
ボブ・ディランを頼むくらいの人は吉田拓郎も聴くだろう。が、その拓郎はさっき二曲歌った。そうなるとあまりギターに自信はないが、クラプトンの『Tears in heaven』くらいが妥当だ。
すると次は歌謡曲でもよく、アリスの『遠くで汽笛を聞きながら』にすればいい。
と、そこまで決まった所で店長に声をかけられた。
「行けますか?」
気が付くと店内はいつの間に入ったのかどのテーブルも大入りで、俺はカウンターに座っていながら見過ごしていた。
そうでなくとも、行けますか、と訊かれれば「行けます」というしかなく、俺は最終ステージへ向かった。
今回はざわつく客よりも拍手で迎えてくれる客が多くなり、ここは甘えておこうと俺は少しばかりのMCを挟んだ。
「皆様にお会い出来て、今宵は最高です。流れ者のミュージシャンではありますが、最後のステージ、お楽しみください」
そして構えたハープを一吹きすると、カポで二つキーを上げたギターのGを弾き鳴らす。リクエストをもらったボブ・ディランの『風に吹かれて』だ。この曲は何といっても単調なギターとクセの強いボーカルが売りだ。その合間あいまにハーモニカを入れれば再現度はグンと増す。
そして曲が終わると、今日いちばんの拍手が起こった。
次が問題だな、と思っていたギターの神様エリック・クラプトンの曲だが、俺は神様でも何でもないので勝手にギターを崩してオリジナルで唄った。それでも静かに聞いてくれる客が多く、何を唄うかというのは本当に大事なのだと思った。
三曲目は邦楽に戻って、アリスを選んだ。この曲も我流のアレンジで弾けば難しいことはなく、歌詞にさえ注目していればよかった。
が、間奏のところでやけに弦がビビると思っているうちに、三番の歌詞へ入るところでなんと弦が切れてしまった。切れたのは一弦の次に細い二弦で、こうなるとそのまま唄い通すしかなくそのまま唄った。切れた弦があちこちの弦に触れて気持ち悪いことこの上ないのだが、唄い出しならまだしもここまで来て止める訳にもいかない。そこへ、
――「頑張って」
一瞬何が起きたか分からなかったが、スタッフの誰かが応援してくれたのか、励ましの声がした。そうなると弦を切っただけで終われるはずもなく、グダグダなエンディングと共に切れた弦を巻き取り、俺はチューニングを直しながらマイクへ向かう。
「お見苦しいところをお見せしまして申し訳ありません。私の持ち歌で唯一、二弦を使わない曲をお届けします。最後の曲です。『夕凪』」
さっきとは違う種類の静寂がステージを包んだが、どのみちこの一曲で終わりなのだ。いい所ばかり出そうとせずにダメなところも見せてやれ。そう思いながら唄い上げた。こんな時に限ってハーモニカの伸びは素晴らしく、ギターの音圧が負けそうになる。それでも唄いきった。さっきまでとは比べものにならない程の汗が額を伝い、ギターを握る左手にまでも脇から汗が垂れてきた。
なんとか乗り切った、というのが素直な心境だった。どこか白けそうになったムードを盛り返せはしなかったが、拍手を背に受けながら、ギターと共に俺はステージを降りた。
「申し訳ありませんでした。メンテナンス不足です」
開口一番で謝った俺に、しかし店長は寛大だった。
「大丈夫ですよ。よくあることです。それとですね、そちらに――」
と、店長が指したところを見ると、カウンター端に見慣れたバカ面が座っている。
「お前、何してんだよ」
「何って、『座っただけで三万円』って聞いたから三万円持ってきたの」
「……あのな、それはモノの例えで」
「え、まだいるの? どうしよ、コンビニに下ろしに行かなきゃ」
そんな間抜けな会話を聞いていたのか、
「ミツキ様のお友達でしたら構いませんよ。お二人で何か飲んでいってください。これは私からの気持ちです」
「はあ、すみません……」
緋堂は何が起こったのか理解していないようだったが、
「よかった。歌が聴けて。すごかったよ、プロみたい……ていうかプロなんだけどさ。すごく遠い人みたいに思えた。昨日のあの男の人にも見せてあげたかったよ」
それは隠しもしない彼女の本音なのだろう。つまり、俺のステージを見たかっただけなのだ。
その後は運ばれたバーボンとジントニック――さすがの緋堂も雰囲気は読んだらしい――を乾杯して、次には早速女性たちに見惚れていた。俺ではなく、緋堂がだ。
「なんていうんだっけ。アラブのお金持ちの椅子の横で侍ってる人たちみたい」
「ハーレムな。それと、別に褒め言葉じゃないぞそれ」
「こんな世界もあるんだあ。世の中って不思議」
「それより、もう帰ろう。あんまり好意に甘えてちゃダメだから」
「私、三万円あるから大丈夫かも」
「そういう話じゃなくて」
そんなくだらない会話の中、店長の橘さんが一人の老紳士を連れてカウンター前へ来た。
「ミツキ様、うちの社長です。というかオヤジなんですけどね」
その言葉に思わず立ち上がって頭を下げると、
「いやあ、久々にレベルの高いプロの歌ば聴いたよ。また寄ったら頼むばい」
そこへ橘さんが俺へと耳打ちをする。
「あのリクエスト、社長だったんですよ」
そんな言葉も筒抜けだったのか、
「俺からのチップもはずんどるけん。気張りね」
そう言うと、橘さんが「お疲れ様です」と封筒を手渡してきた。磊落な社長と若店長を前にして、それは何やらずっしりした手応えに思えてくる。




