3・午前三時の追憶
3・午前三時の追憶
――「ミツキさん! 遅いっすよ!」
すでにいつものハンコ屋前に座り込んでいるのは、グループの中でも最若手の藤村タイジだった。香川出身のタイジは元々スポーツインストラクターの仕事で広島に来ていたが、いつしか阿保ヒロユキを慕い、このグループへ入ったという。グループというのは『堀之内フォーカーズ』で、この辺一帯を堀之内と呼ぶらしい。大きく見れば流川と呼ばれるこの歓楽街でほんの二ブロックにしかならないが、片道一車線ずつの交差点はよく賑わい、考えればこの界隈随一の人出だ。向かいには広島名物のお好み焼き屋があり、少し歩けばコンビニもある。立地としては最高だった。
――「ゴメン、タイジ。弦の張り替えに手間取ってて」
ミツキはまだ真新しいギターケースをビルの横へ立てかけてタイジへ詫びた。
――「また替えたんすか? ミツキさん、替え過ぎっすよ。弦なんて切れてから替えればいいんですって」
――「そ、そうなのか。じゃあ、次からそうするよ」
ミツキから見れば歳下のタイジだったが、このグループでは古株だ。聞けば二年前から阿保とここで唄っているらしい。まだ二十歳。学年でミツキの二つ下だ。
そうこうしているうちに、阿保と奥安が連れだってこちらへ歩いてくる。背の高い二人が黒いギターケースを下げて歩いてくる様は、なかなかの見応えがあった。
――「おう、ミツキも来とったか」
言うなり、阿保は手のひらを目の前へ差し出す。円陣を組めというのだ。
――「ほいじゃあ、今日も気合入れていくで!」
――「おう!」
それぞれがギターを用意すると、まずはタイジのギターケースに小銭を撒き、表へ向ける。オッくんこと奥安と皮切りのじゃんけんをしているのは、ミツキだ。
じゃんけんはオッくんが勝ち、一曲目を唄う権利を得た。だからといってミツキに余裕が出来た訳でもない。次は自分が唄う番であり、そしてその順番は延々と回ってくる。それは深夜一時までの時もあれば朝方五時のこともあり、その決定を下すのはリーダーの阿保だった。
オッくんの一曲目は長渕剛の古い曲らしく、静かな曲だったこともあり通行人もあまり反応をみせない。あっという間に出番の回ってきたミツキは、選んでいた曲を譜面の中から探し、緊張の面持ちで唄い始める。すると、
――「出たよ、ミツキさんの十八番が」
タイジが嬉しそうに笑ってみせる。
ミツキにとっては十八番でもなんでもなく、ただただレパートリーの少なさが理由だった。ただ、それでも品を変えることは出来たはずだったのだが、
(俺は必ずこの曲から始めよう。いつ、どんな時でも)
それは初心を忘れないためのミツキの決意だった。またその歌か、と言われようと、いつもこの歌で始めようと決めていた。
初めてここで唄ったあの日は身体中の震えが止まらなかった。それは今も続いている。自分の番が近くなると、手が、脚が、小刻みに震えた。しかし、いざ演奏となるとそれは止み、逆に演奏の緊張感が震えを押さえてくれた。路上演奏の緊張はどこか心地よく、張り上げる大声は空へ舞い上がり、居酒屋のオーダーさえ通せなかった彼はそこで生まれ変わった気がしていた。
*
黄昏ビルの無人フロアで目を覚ますと、午前三時だった。
ミツキは固い床の上で寝返りも打たず、非常灯の緑に照らされ、定期的に見る広島時代の夢をしばし反芻していた。
(今日はハードモードじゃなかったな……)
固まった背中を鳴らして起き上がると、真新しいペットボトルの水を口に含み、ポケットから煙草を出した。
小さく雨音が聞こえる。
暗い廊下の闇に、夢の残骸が転がって、あるいは手招きして見えた。
溜息と共に吐き出した煙で過去を遠ざけると、ミツキはもう一眠り、と身体を横たえた。不法滞在の身の上、何の安全の保障もされていないその状況が、それでも彼には心地よかったのだ。この身を縛るものなど何もないという実感だけで、また眠りに落ちた。それから夢をぶり返すことはなかったが、代わりに人の声で起こされた。
「あらご苦労さん」
誰かの声に目覚めると、いつしか夜は明けていた。声の主はモップかけをしている掃除婦だった。こういった界隈では専門業者が、ビルを何件か掛け持ちして掃除をしている。
「おはようございます」
ミツキは不法侵入を悪びれることもなくのんびり胡坐をかくと、当然のように掃除婦へ挨拶を返す。そして、
「この階はお店入ってないでしょ。掃除するんですか」
すると顔に深い皺を刻んだ掃除婦は破顔一笑、
「おらすもおらさんも、全部掃除すったい。それが仕事ちゅうもんよ」
なるほど、とミツキは得心する。確かに誰も通らぬ路上でも自分は唄っている、と。
「ご苦労さまです」
慣れた手つきで荷物をまとめると、彼は堂々と掃除婦に別れを告げた。
外へ出ると、空気は霧雨に満たされていた。時刻はまだ朝の七時半。市役所が開くまでは一時間ある。
それまでをどこかのメシ屋で潰すのもよかったが、古ぼけたギターケースがそれを嫌がっているように思えて、歩いて十五分のサウナへと向かった。彼は決してギターを大事にする方でもなかったが、とりあえず次のギターが買えるまではその役割を果たして欲しかった。
三号線方面へ足を向け、名前の由来も分からないシャワー通りという名の道へ入り込むと、時代がかった二十四時間のサウナが二軒ある。その一方、ローヤル、と切れかけたネオンの示す店は、ミツキがこの街に来て最初の晩を過ごした場所だ。その日も酷い雨にやられ、早々に退散していた。
湿った身体で店へ入るとカウンターには従業員の姿がなく、呼び鈴を押すと二分後に背の低い男が現れた。他の客から小耳に挟んだ話ではその昔ボクシングの日本ランカーだったというが、今やその面影は一片もない。
男は遅れた分を笑顔に変えたような顔つきで素早く手を握っては開いた。そしてひと言、
「二千五百円ね」
記憶通りの金額だった。午前五時を回って入ればその料金で翌日の朝十時までいられる、暇ばかり持て余したミツキのような男には優良設定の店だ。ただし、造りは恐ろしく古い。
「こいつだけ預かってもらえますか」
ミツキはギターケースをカウンター横へ置き、ロッカーの鍵を受け取ると、
「先にコンビニ行ってきます」
そう言い置いて外へ出た。金さえ払えば後は出入りもご自由にというスタンスが、彼にはたまらなく好都合な店だ。
コンビニでカップヌードルと缶ビールを二本買って表へ出ると、雨はつい今しがたよりも激しく降っていた。
食事より何より先に一週間ぶりの風呂を浴びた。その間、数少ない衣類は根こそぎコインランドリーの中だ。
一週間の汚れを落とした彼は、細い身体でサウナ室の扉を開ける。午前八時過ぎのサウナ室に客は他にいない。
痩せ過ぎだとばかり思っていた自分の身体だったが、以前に比べると腹が出始めている気がする。かといって運動不足の解消は移動の徒歩と路上での発声以外したくはない。いつの頃からかミュージシャンに健康など不要だと思う気持ちが強くなり、煙草も酒も以前より増えているようだ。
(健康……か)
らしくない、と一人ごちてサウナの空気をタオルでかき混ぜると、霧吹きで熱湯をかけたような熱さが、どこかボンヤリとした頭に心地よかった。
二階のロッカー室へ戻り、買っていたカップラーメンと五百ミリの缶ビールを手に取り、ミツキは更に三階の娯楽室へゆく。娯楽室とは名ばかりで、配線の切れた大昔のテレビゲームが五台並んだだけの殺風景な場所だ。スリッパがなければ歩きたくもない青いカーペットはあちこち毛羽立ち、年中開いている排煙窓からは時に鳩が舞い込んでいたりする。客も自由なら店舗も自由な、世間とは別次元のビルだった。
今頃出勤に忙しいそんな世間を嘲笑うようにビールを開け、ミツキは思い切り喉を鳴らした。世の中が勝ちと負けに分かれるのなら、今の自分は勝ちグループだと。それがたとえ僅か数時間の仮初めでも構わなかった。一日に一度、そうやって何かを確かめないことには続けられない生活だったのだ。勝ったと思ったとたんに足元を掬われる、一歩先も見えない生活だった。そこに夢ややりがいはなかった。力ずくで恐怖心を抑え込むだけの、明日が続くだけだ。




