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西高東低‐南高北低  作者: 水銀塔
第二部・Early Times Ballad
29/33

西高東低・4

今回はちょっと量多目です。

          西高東低・4



 深夜一時過ぎ。


 ハヤトと別れたミツキは、その足でキョウジの所を目指す。直線距離で二百メートル。その合間にも通りの両側には明るいネオンが所狭しと並び、中四国最大の売り名が本物なのだと実感出来る。これで客足さえ多ければ日本一を名乗っていいところだ。


 今日の差し入れもストロー焼酎でいいだろうと、ミツキは途中のコンビニで酒を買う。自分のためには珍しくブラックニッカのポケット瓶を買った。ハヤト相手だと自然と酒が減り、少々飲み足りないのだ。


 酔っ払い連中へギターをぶつけないように更に百メートルを歩くと、薄ぼんやりとした街灯の下で何やら項垂れている影が見えた。また悪い癖が出たのかと思っていると、


「おう、ミツキかや。飲もうや」


 目の前へ立ったミツキへキョウジが情けない笑みを見せる。


「それは昨日やったろ。まだ小銭も入っとらんやん。路上唄いは唄わにゃ」


 大方、妙にでかい稼ぎが続いて気が乗らないのだろうと、ミツキは五円玉一枚きりのギターケースを眺めて言う。しかし、


「そういう気になれんのじゃ、仕方なかろう」


 ギターをビルの壁へ立てかけると、キョウジは珍しい憂い顔を見せる。彼にしては奥歯にものの挟まった言い方をすると思い、


「なんかあったん」


 僅かばかりの心配を込めて訊ねると、しかしキョウジの答えはつまらないものだった。


「ユミさんが、今日は来てくれんのよ」


 途端にミツキも、


「そういう問題じゃのうて、唄わにゃ俺たち飯食えんじゃろ。それともお前、あの人になんでもかんでも養ってもらおうと思うとるん」


「そがあな話やない! ワシは、あの人に金以上のもんをもろうとるんじゃ!」


 そしてキョウジは片手につかんだ鏡月の瓶を口元へ運ぶ。


 不覚にもミツキはその姿が不憫に思えてしまい、ギターを置いて隣へ座るとブラックニッカの口を開けた。そして二口喉へ流すと、


「あんまり、路上の女は信用せん方がええで。前も色々あったろ」


 それは絵描きのシンちゃんの所で知り合った女たちの話で、皆、どこかぶっ壊れていた。どれもこれも貞操など捨ててしまった様相の三十路近い女で、街中で目につく男たちへ片っ端からなびいていた。


 それはミツキに至っても他人事ではなく、なるべくまともなのを選んだと思ったら最大級の地雷だった。最後には刃物を振り回す修羅場と化し、ミツキは女の部屋から血まみれで逃げ出した。血はすべて女のものだった。


 キョウジは金に任せてか、ガラムのきつい煙を漂わせながら焼酎を煽った。


「ミツキの歌にあったがぁ、『明日も君も殺したい――』いう歌が。そがいな気分なんよ」


 また古い歌を引っ張り出してきたと思えば、そんなことを言い出す。何がなんでもセンチメンタルに浸りたいらしい。


 が、ミツキがそんなことを許す訳もなく、


「お前、あの人と寝たいだけじゃろ」


「違う! そういうんやないんよ! あの人は今日も旦那に暴力振るわれて、痛い思いしとんよ。ワシに会うてから夜に出歩くことも多かったけえねえ……悪いことしたと思うわ」


「暴力って、DVか」


「それよ! それが酷うて離婚したいんじゃが旦那が許さんのよ。ユミさん、あがぁにしとるけど、服脱いだら身体中。傷だらけなんで」


「何でお前が服脱いだとこ見たん」


「……」


 分かりやすい奴だったが、そうなると答えは簡単で、


「お前、もう充分に夢見せてもろうた訳じゃろ? あっちは夫婦の話やん。俺らには他人の生活に口出す資格はないんで。まあ、お前がDVの件で警察でも行きたい言うならもう知らんけど。ただ、ああいうのは本人が行かにゃ始まらんから」


 そこまで真顔で言うと、ミツキはエコーを取り出して火を点けた。そこへまた、


「そうなん?」


 と、何を訊きたいのやら分からないキョウジの『そうなん?』が飛び出した。昔からキョウジは何かにつけ知った風な口を利くが、自分がまったく知らないことを聞くと、『そうなん?』と目を丸くする。ミツキは大体の見当を付けて、


「DVの話やろ?」


「おう」


「ありゃ本人の申告やないといけんで。子供の虐待ならまだ隣人の通報も出来るが」


「そうなん……。そがあなん、あの人にゃ出来んわいね。全部、旦那に監視されとるんじゃけえ」


「ほいじゃけ、そこから先はお前が考える話じゃないんよ。そのユミさんが来るも来んも、お前はここで唄いながら待っとけばええやん。それが健全な歌唄いじゃろ」


「なら不健全でええ」


 いい加減に呆れたミツキはブラックニッカを逆さにすると一息に飲み干した。頭をスイカで殴られたような鈍い酔いが回る。


「どっちにしろ――」


 ミツキは立ち上がってギターを背負うと、


「お前の歌じゃないが、『月に恋をした』と思うてあきらめんさい」


「知ったこっちゃないわ……」


 それ以上は何も返って来なかったので、ミツキは左手を上げると背を向けて歩き出した。


「ミツキ! サウナ行こうや! 奢るで!」


 不意に響いた声は純粋な寂しさを纏っていたが、ミツキは足を止めなかった。一月の風は否応なしに体温を奪い、急激な酔い醒めが連れてくる白けた思いに、もう一度ウイスキーのボトルを買った。


 明日は金曜日。ハヤトと健全な路上を唄いたいと思いながら、彼が持ってきてくれるはずの情報に思いを馳せている。不健全なのは、ミツキもまた同じことだったのだ。


          *


「よっ! チーズバーガー!」


 時間通りに元安橋に座っていたシンちゃんが、寒さに赤らめた顔でにこやかに叫んだ。


「あ、悪い。忘れたわ」


 ミツキが発泡酒を手渡しながら言うと、


「ウソ! ウソやん! そがあに言うてミッちゃんいつも買っとるやん」


 シンちゃんはミツキの両手を確かめる。


「いや、今回は本気で買うとらん」


 その言葉にショックを受けながら、シンちゃんがこぼす。


「朝飯、食わんで来とんのに……」


 その姿があまりに可哀そうになったミツキは、背負っていたリュックを下ろすとマックの包みを取り出す。


「ソーセージエッグマフィンで我慢してくれえや。これ高いけえ、一個ね」


「うひょー!」


 穏やかな晴れ空の下、橋の欄干へもたれてマフィンを食う二人は、合わせて還暦を越えている。


「何これ、異次元体験」


 マフィンは初めて食うというシンちゃんは、思わず咳き込むと発泡酒で流し込んでいた。


 平和公園は青空に白い雲の姿を見せず、その青さだけで平和を祈っているようだった。冬の晴れ間はいつも、余計な何かをこの胸に連れてくる。


「ミッちゃん、今日も唄うん」


 朝飯を食べ終えたシンちゃんは、満足そうな顔で発泡酒を口へ運ぶ。寒さに赤らんでいた顔が、更に赤くなる。決して酒に弱い方ではないはずだが、顔に出るのだ。


 ミツキは相生橋を通る路面電車に視線を委ねたまま、


「今日ねえ……どうするかなあ……」


 昨日、一昨日の上りは少なかったが、大阪からこちらへ向かう前に積み立てていた金が五千円ある。今夜の金曜日を期待すれば、さほど困ったことにはなっていない。なってはいないものの、


「唄えるときに唄っとこうかねえ」


 思い切り背をそらすと、青空へ言い放った。


「じゃ、後ほど」


 新しいイラストを描いているシンちゃんへ言い置き、ミツキは今日も橋の真ん中へ座る。低い陽射しは太田川の向こう、ビルの上から惜しみなく降り注いでいる。今日は日中の気温がかなり上がるらしく、その予兆は午前十一時の河沿いでも感じられた。


 好天のせいか、昨日よりも観光客の出足は多く、手始めに三曲を唄ったミツキのギターケースへは、百円玉一枚と一ドル紙幣と、七十五セントが入っていた。決して嫌がらせではないのだろうが、そういった紙幣を、ミツキはもう十枚以上持っていた。


(枯れ木も山よ――)


 そう自嘲気味に笑い、リュックに昨日のウイスキーボトルが入っていたのを思い出し、昼間に似合わない酒とは分かっていても口にした。口にすると気分は夜の空気に変わり、選曲もダウナー系の歌が増えた。


 そんな暗い選曲から、『墓標』という曲を唄っていた時、彼女は現れた。


「こんにちは」


 ミツキは吹いていたハーモニカから口を離し、嫌なタイミングで現れた女性に一礼した。曲が終わる前に平気で声をかけてくる人間は信用出来ない。


 それから惰性のようにギターを鳴らし、尻すぼみで曲は終わる。


「こんにちは。預かりもの、ちゃんとキョウジに渡したんで」


 すると女性はトレンチコートの襟を風に震わせながら、


「どんな歌を唄うの?」


 そう、脈絡もなく訊ねてきた。


 ミツキはややこしくなるのを避けるため、


「オリジナル主体です」


 と答えた。これで下手なリクエストはもらわなくて済むはずだった。が、


「じゃあ、いちばんお得意な歌をお願いします」


 そう言われ、渋々とギターを取った。


「でしたら、のんびりした歌になりますが」


「ええ、お願いします」


 表情に薄いヴェールのかかったような静かな笑みで彼女が言う。


 ミツキは付け替えたハーモニカを一吹きして、ギターを鳴らす。チューニングはそのままで、ギターの調べにハーモニカを乗せた。曲は『夕凪』という曲で、広島の原爆記念日の慰霊コンサート用に作ったものだった。


 その、三分半ほどの短い曲が終わる。


 と、女性は脇目も振らずバッグを開けると財布を取り出し、そのままギターケースへ金を置いた。その仕草はまるで義務を果たすように冷たく映り、ミツキは口ごもってしまう。


「あの……」


 ミツキは言葉の出ない自分をもどかしく思いながら、そのまま、


「どう、でしたか」


 なんとも気弱なひと言を選んでしまった。


「どう?」


「いや、感想というか、そういうのが聞ければ嬉しいんですけど」


 すると女性は、ああ、と小声で呟き、


「よかったです。じゃあ、頑張ってください」


 そう言うと本通りアーケードの方へ消えた。ギターケースの中には居心地悪そうに一万円札が風に吹かれていた。


(まあ、金に罪はない)


 いつだったかハヤトが言っていた言葉を思い出し、ミツキもそう思うことにした。そうでなければ突き返したい金ではあった。貧乏人にもそれなりのプライドがあり、あの女性の態度は、シンガーとしてのプライドも、人としてのプライドも傷付けるものだったからだ。


「シンちゃん、隣でやってもええ?」


 ミツキは荷物をまとめると、絵を並べたシンちゃんの前へ場所を移った。


「どしたん。あの姉さんまた来とったじゃろ。何かあったんやない、この、この」


「そがあなんは何もないけえ。ただ、シンちゃんとこで唄いとうなって」


「気持ち悪っ! どしたんホンマ」


 ミツキにもその理由は分からなかった。あの女性が自分のことをキョウジと同じように憐れんだ、という事実に軽い衝撃を受けたのは確かだ。その気分を晴らすには、シンちゃんの悪意のない笑い顔がちょうどよかったのかも知れない。


 ミツキは再びギターを取り出し、何を唄うでもなくシンちゃんの隣りでギターを鳴らした。通りゆく観光客はその様子を不思議そうに眺め、時にシンちゃんのつたない色鉛筆画に目を落としている。


 そんな時、ふと浮かぶのは小さなノイズだった。生活音に無断で入り込んでくる一方的な夜のノイズと共に、髭にまみれたキョウジの猫背が浮かんでくる。


 キョウジはいったい何をしているだろう。あいつほど何かをごまかすために酒を飲んでいる奴も珍しいと、ミツキは自分のことを棚に上げてそう思う。食うものといえばコンビニのおにぎりばかりで、朝一回の食事が終わるともう酒を飲んでいる。それもミツキのようにアルコール度数の低い発泡酒ではなく、飲むのは焼酎やウイスキーだ。落ち窪んだ目はそれこそ老犬のようで、彼が広島にいる限り、純然たるホームレスに近くなってゆくのは目に見えている。それともすでに、引き返せない場所にいるのだろうか。


「あれ? キョウちゃん?」


 不意に呟いたのはシンちゃんで、その目が指す方に頭を向けると、黒いごみ袋が満載されたキャリーを引きずりつつ、ギターのソフトケースを背負っているキョウジの姿が見えた。その歩みは老婆のようで、見ているだけで痛々しかった。


「どしたんミツキ。昼間からやっちょうがか」


 昨夜よりは少しましな調子のキョウジが、荷物を下ろすと同時に鏡月の瓶を出した。夜のうちにでも買い足したのか、焼酎の中身は昨日より増えている。


 ミツキはたった今までの思案を更にして、キョウジへ問いかける。


「お前、俺と一緒に広島出てみんか? いつまでも新天地の連中みたいなんと付き合うとったら、そのうち破滅するで」


 けっ、と舌打ちしたキョウジがどっかりと路面に腰を下ろして言う。


「お前の言う旅いうんがどがいなもんか分からんが、お前とワシで何がどう違うん。お互い、ギターで稼いでホームレスやっとるだけじゃろう。お前はまだ広島に実家があるけえそがあな旅も出来ようが、ワシは地元で悪さし過ぎてもう米子に帰れんので。せっかく広島で知り合いも出来たいうのにそれを捨てろ言うお前の真意が分からん。お前はワシを、もう一回行き場のないホームレスに戻すつもりなんか」


 言われてみればその通りだった。ミツキもキョウジも同じホームレスだった。ミツキの方が少しだけ全国に知り合いが多いだけに過ぎない。言い返されたミツキは不満ついでに例の女性の話を持ち出した。


「今日、あのユミさんて人が来たで」


 ミツキが言うと、案の定でキョウジの目付きが変わる。


「いつ来たん! あの人はそうそう外に出られる身分じゃないんで! 家にも監視カメラ付けられとるんじゃけえ!」


 予想以上の釣れ具合にミツキは口の端を上げると、


「で、一万円恵んでもろうたわ。残念じゃったのお、気にかけてもろうとんはお前だけじゃないんよ」


「知らん! ワシはそがあな話、知らん!」


「知らん言うて、俺も知らんよ」


「お前、ユミさんに何言うたん!」


 その焦った顔を見て満足したミツキはさっさとギターを片付け始めた。


「どしたんミッちゃん、帰るん」


 派手に立てたモヒカンの先を弄りながらシンちゃんがとぼけた口調で訊ねる。


「ああ。じゃけえ、後はキョウジのことよろしく」


「おう。明日もマフィンよろしく」


「稼げたらね」


「一万もろうて、どれだけ稼ぐつもりなん!」


 すっかりしょげ返ったキョウジを無視して、ミツキはギターを担いだ。少しぐらい現実を知った方がいいと、キョウジへの言葉を翻すつもりもなかった。


 二人に背を向けて歩き出すと、太田川の遊覧船が長閑なテーマソングを流していた。汗ばみそうな陽気に冷たい風は心地よく、やがて来る二月を前にして、ミツキは空の青さが少しばかり鬱陶しくもあった。


          *


 ネットカフェをいつもより早めに出ると、しかし三越裏のシャッター前にはすでにハヤトが陣取っていた。まだ譜面を取り出しているところなので座って間もないのだろう。


「お疲れ」


「あ、ミツキさんお疲れ様です! いいニュースと悪いニュースのどっちから聞きますか」


 ほとんどの物ごとに変化球を投げない素直なハヤトだったが、時にこうやって言葉遊びで楽しむ癖がある。


 ミツキは荷物を置くと路面に座り、


「俺は嫌いなものは先に食う方やから」


「なるほど、分かりました」


「とりあえず酒買ってくるから、ハヤトは昨日のノンアルでいい?」


「あざあす。でも今日は水でお願いします。昨日気付いたんですけど、ノンアルでも酔えるもんなんですよ」


 ハヤトは修行僧のようなアルカイックスマイルでそう答えた。


 コンビニから戻ると、ハヤトはさっきの笑みとは違う、何やら悪巧みをしている子供のような顔になっていた。キャップを後ろ前に被ると、人は誰しもそういう顔に見えるものなのだろうか。


 ミツキの発泡酒とペットボトルで乾杯したハヤトは、


「じゃあ、発表していいですか」


「おう。盛大に頼むよ」


「はい。最初に悪いニュースからです。僕、仕事クビになりました」


「それは……残念だな。宅配の仕事だっけ」


 悪いニュースというより重い発表だった。その後にいい方のニュースを聞くのも気が引けたが、


「じゃあ、次です。お待ちかねのいい方のニュースです」


「おう」


「分かりました。例の女性ですけど、ここに来たのは二年前でした。時期は同じくらいで一月の二十七日、すごい雪の日だったみたいです」


「そうか……そんな中、お前もよくぞ唄っててくれたと思うよ。ありがとう」


「いえ、感謝されるほどのことはないんですが。実はこれ調べるの結構簡単だったんですよ」


 ミツキは発泡酒を口へ運んだ後、


「どうして?」


 素直な疑問を投げた。するとハヤトは、はい、とリュックを探り、一枚のポストカードを取り出してみせる。それは間違いなく緋堂の絵だった。これで彼女が二年前に広島へ来ていた可能性が増した。本人か近しい人間のどちらかだ。


「これ、もらったまま日記のページに挟んでおいたんです。だからすぐに見つけられました。残念ながらお名前の方って伺ってなかったんですけど」


「いや、充分だ。最高の報告だったよ、ありがとう」


「力になれてよかったです。今になって思い出せば、すごく大きな荷物を転がしてたのが印象的でした」


 広島には珍しい大雪の中、緋堂が白いマフラーを巻いてここへ立った姿が偲ばれる。どうして二年前などという年にここを訪れていたのかは分からないが、それは、自分との接触を試みたからに違いなかった。


 しばし路上のタクシーを見ながら呆けていた俺に気を遣ったか、ハヤトが、


「僕、先に唄いますね」


 そう言うとギターを鳴らし始めた。曲は『夢見るクローバー』という歌で、いつだったか春の花見の席に呼ばれて出かけた際、帰りがけの川原で夢中になって四つ葉を探したのがきっかけだった。ハヤトは『摘むのも可哀そうですね、写真だけにしておきます』と言い、今でもSNSのプロフィール写真に使っている。


 ハヤトはどこまで本気なのかそういった小さな命に敏感で、夏の盛りに腕へ止まった蚊を吹く息で追い払おうとしたり、どこかから現れたゴキブリを譜面に乗せて生きたまま車道へ逃したりする。


 ――「それって結局、車道で車に轢かれて死んだら一緒じゃないか」


 ミツキが素直な疑問をぶつけると、


 ――「そこから先はもう、神様が考える領域ですよ」


 と、満足そうな顔で笑った。神の裁きが下るまでは人が手を出すな、という意味なのだろう。


 それを思えば、ミツキは手を出せない領域にばかり平気で首を突っ込んでいる気がした。キョウジの一目惚れの相手のことだったが、それも放っておけばよいことだった。だったが、このままあの女に入れ込んでいる限り、キョウジは必ず痛い目を見る。『こっちが見ていられない』という自分勝手な理由で引き止めたいのだが、それでまたキョウジとの間柄がおかしな方に捻じれたとして、それは仕方ない。またしばらく自分が広島を離れればいいだけの話だ。それより何よりもキョウジの数少ない友人として、身の丈に合わない恋にもならない恋は引き止めておきたかった。


 キョウジはミツキにも増してでたらめな生活ぶりだったが、性格の部分では子供のようにナイーブなところがある。それは彼が一人っ子だということも関係はしているのだろう。自分の思うままにいかないことがあると、クリスマスにプレゼントを貰えなかった子供のように泣きっ面を見せる。ミツキはそれが見たくないのだ。三十近い人妻に恋い焦がれて悶々としているなんていうみっともなさを、早く自分で気付いて欲しかった。確かにミツキも路上ミュージシャンなどやっているせいで普段なら知り合えないきれいな女たちとも知り合いになってきた。しかしそれは夜の街が見せる幻想だろう。それを現実と履き違えているうちは、キョウジは実際の意味で子供だった。


 そこまで考えて、ミツキは自分の胸の疼きを考えてみる。それもまた、身の丈に合わない高望みなのかも知れない。


「今日、ちょっと暖かいですよね」


 ミツキがいまだ手に取らぬギターへ催促の意味も込めたか、ハヤトはミツキへ声をかける。


「ああ、そうだな」


 こういった不意の暖かさは十中八九雨を連れてくる。譜面のめくれるページが左右違ったり、煙草の煙の流れる先が違ったり、ギターが妙な耳鳴りのような甲高い音を出す時も要注意だ。ミツキはこの路上での観天望気を外したことがない。


 ミツキはギターを構え、しばし考える。そして、


「ちょっとさ、人の歌を唄ってみたいんやけど」


「はい、OKです」


 ミツキは胸の中で形作られていく不格好な思いに名前を付けるように、キョウジからもらった歌を唄い始める。


 ――あんたが抱きしめてる その可憐な夢

 ――誰かの胸に包まれて眠る頃


 どこにでも転がってそうな不器用な男のラブソングだったが、キョウジがこの歌をどんな思いで作ったのかを知っているミツキは、複雑な心境だった。


 ――沼地で暮らすドロガメのくせに 夜空に浮かぶ月に恋をした


 キョウジは当時、車で大きな事故を起こしてしまったらしい。そしてこともあろうにその事故の相手に病室で一目惚れしてしまったらしいのだ。相手の女性は身体に重い障害が残ると言われ、それでも病室のベッドの上で薄らと浮かべていた笑みに負けたのだという。


 どこまでも勝手な一目惚れだった。誰が何を言おうとも、ミツキはそのキョウジの気持ちを許せない。許せないまま、その曲を唄い終えた。


「ミツキさんには珍しい感じの歌ですね。何ていうんですか」


「『月に恋をした』いうて、向こうの髭の歌よ」


「へえ……意外とロマンチストなんですね」


「ナルシシストなんよ」


 そう、訳のない寂しさに答えた時、ポツリ、とやはり雨が降り出した


「雨ですよ」


「ああ。分かっとったけど」


 ミツキが当然の顔で答えると、


「えー、ミツキさん教えてくださいよ。流川予報士なんですから」


 雨が降るのは分かっていたが、それがいつ降るかは分かっていなかった。それに、


「雲は薄かったからそんな降らんよ。唄うとるうちに上がるわ」


「そうですか、じゃあ僕、新曲いきます」


 ハヤトの新曲は恐ろしく長い曲で、その間に二本煙草が吸えた。それが終わると、


「どうでした?」


「悪うないけど、間奏をちょっとコンパクトにしたらええんやないかな。今のまんまじゃワンコーラス丸々が間奏になっとるし」


「前奏とか間奏って苦手なんですよね」


 ハヤトは笑顔で言い放つ。


「とにかくプロの編曲を聴いて勉強した方がええよ。コード進行だけでもどうなっとるか、何小節分か、それがどこのメロディーから派生しとるか、とかさ」


 ハヤトはペットボトルを口にした後、


「プロですね。ミツキさんと話してると勉強になります」


 これもまた天真爛漫に言い放つ。ハヤトにはその笑顔がいちばんの武器だろうし、その笑顔が消える時はとてつもない成長をするのではないかとミツキは思う。


 零時になった。


 今日はチップも冴えず、二時間で千三百円だった。


「もうすぐ二月ですよねえ」


 収入のことも気にかけず、風流を嗜む茶人のように酔客の波を見回しているハヤト。


「寒さもついに本番じゃろう」


「はい、季節ってホントに律儀ですよねえ。僕は草花ほど季節に律儀なものはないと思います」


 そんな話を交わしていると、


「こんばんは」


 と、聞き覚えのある声が聞こえた。


 ミツキは日に二回も会うと思っていなかったので不意打ちに驚いたが、女性は白いトレンチコートの襟を立てて薄らと笑う。


「あの、ここにいるって誰かに聞きました?」


「いえ、たまたまです」


「はあ……」


 どう答えいていいか悩んだミツキは、こういう時にいつもするように、


「ご覧のとおり、今は演奏中なんで、何かリクエストがあればお聞きしますけど」


 ハヤトはここぞとばかりに、「僕、トイレ行ってきます」とコンビニへ向かった。


「リクエストですか。いちばん唄いたい歌でお願いします」


 昼間に聞いたような台詞で、女性はミツキが唄い出すのを待った。雨はまだポツポツと降っていたが、三越の庇は広く、濡れる心配はない。


 ミツキはこの苦手な女性に一撃でもカウンターパンチを浴びせたくて、選曲を終えた。


「じゃあ『月に恋をした』という歌を」


 女性の表情は微塵も揺るがず、そのままの姿勢で身じろぎせず立っている。


 ――沼地で暮らす泥ガメのくせに 夜空に浮かぶ月に恋をした


 ラストのリフレインをわざと多くして、最後にハープを入れて曲は終わった。


 そして、


「どうもありがとうございます。いい歌でした」


 彼女は昼間と同じようにバッグから財布を取り出し、当たり前のようにギターケースへ紙幣を入れた。


「あの、この曲に聞き覚えってないですか?」


 ミツキが訊ねると、また姿勢を正した女性は、躊躇なく首を横に振った。


「いえ、初めて聴きました」


「あっちで唄ってるキョウジの歌なんですけど」


「そう。じゃあ今度唄ってもらおうかしら」


 そう言いつつ、彼女の両目はもう、ここにないものを探し始めている。


「キョウジの所、寄ってやってください」


「ええ、時間があれば。じゃあまた来ます」


 そう言うと、完全にこちらへの関心を失くしたかのように、女性は立ち去った。その方角へまっすぐ歩けばキョウジの唄う路上だった。


 タイミングを見払っていたのか、ハヤトはコンビニ袋を手に提げて道路を渡ってくる。そして、


「あーっ! 万札じゃないですか! 今の人です?」


 ああ、と俺は返し、ハヤトが手渡してくれた発泡酒をすかさず開ける。心から酒を飲みたいと思うのは、こんな時だ。ならば四六時中飲んでいるキョウジの心境というのはどういったものなのだろう。それが理解出来た時にはミツキも廃人に近いのかも知れない。


 その後はまったくテンションが上がらず、ハヤトに七割方任せた演奏だった。ただでさえ昼間の一万円が効いており、無理やり唄う必要もなくなった。あぶく銭は、とことん身を滅ぼす。


「じゃあこれ、両替してきますね」


 午前一時。例の一万円札を持ってハヤトがコンビニへ向かい、ミツキはギターを片付け始めた。雨はまだ完全に上がった訳ではないが、ほとんど小降りになっている。明日には持ち越さないだろう。


 コンビニで崩した札を二人で分けると、


「ああ、こっちもあったんだ」


 ケースにあった千数百円を指してハヤトが言う。


「いいよ。そっちはハヤトにやるわ」


「え、でも一万円稼いだのってミツキさんですよ」


「いや、これ以上あぶく銭は欲しくなくて。ハヤトもバイトなくなったんなら色々と大変じゃろう」


「そうすか、じゃあ、頂きます」


 ハヤトの店仕舞いに一服しながらパラパラと行き交う人を見ていた。


(今日は寄りたくないな……)


 キョウジのことは気になったが、行ったところでやる気のない姿を見せつけられるのなら会わない方がマシだった。キョウジは昔から腰は重いが、会いたくなったら今日のように元安橋へ現れるのだ。所詮、年がら年中人肌恋しいのだ。


 と、そこまで心配している自分がどこか腑に落ちず、今夜のネットカフェはその理由探しにあり余る時間を費やすのだろうと思った。


 ギターケースを抱えてハヤトに別れを告げると、


「また明日です!」と、彼は相変わらずの素早さで自転車に跨り、胡通りアーケードへ向かった。別れ際の爽快さでハヤトの右に出る者はいない。

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