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西高東低‐南高北低  作者: 水銀塔
第二部・Early Times Ballad
28/33

南高北低・3

          南高北低・3


「じゃあ、準備いいんだね? 本当にいいね?」


「だから、さっきから大丈夫だって言ってるじゃん」

 ホテルを出る前になって、緋堂があれこれとお母さんのように世話を焼き始めた。理由はよく分からない。


「だって、そんな大きなお店で唄うのに緊張しないの? 絶対緊張するよ? 忘れ物とかしてたら目も当てられないんだから」


「あんまり言われると、そっちのが緊張するんだけど」


 確かにステージでの演奏には少し抵抗があるのだが、一杯引っかければなんとかなるだろうと思っていた。


「とにかく忘れ物はないから行くよ。それこそ遅刻するから」


「うん……分かった」


 緋堂の目には不安という名の不満の色が浮かんでいる。その理由が分からないでもない俺は何も言わずにドアを開けた。彼女の方は日曜なので休みにするつもりだろう。昨夜もちょこちょこと三百円のポストカードや千円の小さなパネルが売れたらしい。彼女の場合は売れたら売れただけ供給しなければならず、こういった日にじっくりと創作しなければならないのだった。


 暗いホテルのフロントを抜け、若草通りを抜けると、空には茜色の筋雲が見えた。この分ならまたしばらく天気の心配は必要なさそうだ。


 夕焼け空の下をくぐり、人通りの多い一番街のアーケードへ入る。道行く人は生活感に溢れ、それは旅人の身である自分に謂れのない照れ臭さを連れてくる。それでも、どこへ行っても旅人というのが俺の信条だ。


 約束の時間は六時だ。


 俺はビルのエレベーター前で時計を見て、十分前であることを確かめてから五階のボタンを押した。


「失礼します……」


 重厚な造りのドアを意味があるとも思えずノックした後、やはり返事がないので静かに開けた。


 すると店長の橘さんが、渋く決めたダークグレーのスーツで現れた。


「ミツキ様、お待ちしておりました」


 その顔は営業用なのか不必要に微笑んでいる。


「いえ、こちらこそお言葉に甘えてしまって。旅先なもので、こんな格好になってしまいましたが」


 と、俺はジーンズに黒い長袖Tシャツを差して笑うしかなった。


「いえ、構いません。ミュージシャンの方はそういった方が多いですから。で、早速ですが――」


 店長は俺をステージへ案内すると、二人のボーイに準備を促し始めた。


「ミツキ様はどういった演奏スタイルでいらっしゃいますか」


「まず座りですね。それとギターはアンプなしなんでマイクを二本。大丈夫ですか?」


「大丈夫です。ございます」


 用意してもらった丸椅子に座り、ギターの前へマイクロホンを置き、俺はその間にギターのチューニングを済ます。淡々と進んでゆく準備に緊張する余裕もなかった。


「ギターの音を頂けますか」


「はい」


 ジャラン、と弾き下ろしたギターを、俺はストロークでしばらく鳴らし続ける。


「では次、ボーカルお願いします」


 リハーサルステージのボーカルチェックは間抜けで、未だに俺は慣れない。マイクに口を近付けて『アー』とか『ヘイ』とか『チェックワンツー』とやるのだが、自分がそれをやると失敗したプロ崩れのミュージシャンが粋がっているように思えて滑稽なのだ。


 が、そうも言っておられず、俺は店長の指示に合わせて『アー』だの『ワンツー』だの声を出した。


 二、三分後、どうやらある程度、音は決まったようで、


「では何か演奏して頂けますか」


 そう頼まれた。


 こういう時は基本、何をやってもいいのだが、こういったクラブ営業しているところではリハーサルからオーディション染みていることが多々ある。本番前に呆れられてしまわないようにも、と、俺は普段あまり唄わない尾崎豊のバラードを一曲唄い上げた。


「外音、OKです。中はどうされます?」


 どうやら選曲に問題はなかったようだ。


「外がOKならそれで大丈夫です」


 都合二十分のリハーサルは終わり、俺はドア付近のカウンターへ案内された。いつの間に現れたのか、ロングドレスの女性たちが五、六人、エレベーター前に待機している。


 あらためて思うのは店の広さで。ちょっとしたライブバーの二倍はある。席数はすべて埋まれば五十は下らないだろう。


 そこで、『しまった。酒を買うのを忘れていた』と思い出したが、この場でいつもの鬼ころしを飲むというのも無茶というもので、仕方なくあきらめた。すると表に出ていなかった緊張感が、ここぞとばかりに湧いてくる。


 その時、


「何か飲まれますか」


 ぼんやりと店内を眺めていると店長にそう訊ねられたので、


「バーボンのロックを」


 と、怯まず頼んだ。


 やがてトレーに乗って運ばれたのはバカラのような細かいカットの入ったロックグラスで、俺は少しばかり恐縮してそのグラスを取った。


「もうじきご予約のお客様が見えられます。そうしましたら三十分後くらいの出番になりますので」


「はい、よろしくお願いします」


 やがてエレベーターが動くと、不意にスタッフの動きが機敏になり、客の来店に合わせ始めた。


「いらっしゃいませ」


 次々とエレベーターから降りてくる男たちの上着を預かり、席へ案内し、グラスがテーブルへと運ばれる。


 俺はそんな客の顔を一人ずつ確かめるように観察した。客は六人。年齢は五十半ば。日焼けした顔が多くみられるのはゴルフのせいだろう。それにしてもカウンター脇で場にそぐわない恰好の俺が座っているというのに、皆、目の端にも留めずに奥へと向かっている。


 席に着いた客を遠目にロックグラスを揺らしていると、


「あまりお客様の方をご覧になりませんように」


 店長からひと言もらってしまった。


「すみません。選曲のインスピレーションが沸かないかと思って」


「緊張なさらず、ストリートで唄われていた時の感じで構いませんから」


 路上と同じ、とはとても思えなかったが、見知らぬ人間の前で唄うという点では同じことだった。唄う前から言い訳をしても仕方ないのも分かっている。ただ、これまで自分がどれだけ恵まれた環境で唄わせてもらっていたのかを再認識した。ただの路上、というのは限りなく歌唄いに優しい。


 店内を優雅に一回りした店長がカウンター席へ戻ってきた。客席にはドレスの女性が三人付き、常連らしい客も楽しげに談笑している。


「では、そろそろよろしいでしょうか」


 いよいよだ。


「時間はどのくらいで?」


「普通は皆さん二十分くらいですけど」


 ならば普通の歌謡曲をスローに演奏して四曲だ。


「分かりました」


 俺はグラスのバーボンを飲み干してステージへ向かう。


 通常のライブハウスと違い、ステージへ上がる背中に拍手はなかった。椅子へ座り、ギターを鳴らし、マイクの位置を調整する。音響を見ているボーイの一人が、BGMを消すタイミングを見計らっている。


 俺はピックを握った手を上へ掲げ、合図を出す。


 音響が止まる。客の話し声がそこでようやく小さくなる。


 ステージに照明が灯り、そこから先はもう自分との戦いだった。そして、数々の土地で路上演奏をやり遂げてきた自分を信じるだけだった。客の顔を窺う必要も、店長やボーイや女の子たちのご機嫌を取る必要もない。


 そして、


「ありがとうございました」


 四曲のステージを終えると、六人の客からは笑みと共に喝采を浴びた。


 カウンターへ戻ると、


「お疲れ様でした」


 店長がにこやかに迎えてくれた。気が付けば上半身は汗まみれで、


「ビールもらっていいですか」


 と苦笑いで頼むと、


「承知しました」


 快く頷いてくれた。


「素人さんだとこういうステージでは長いMCを打ったりするんですが、さすがというかミツキ様はお見事でした」


 生ビールをカウンターへ置きながら店長は言う。


「そんな余裕がなかっただけです。馴染みのありそうな歌を選んではみましたが」


「もしよろしければ、もうワンステージ演奏されませんか?」


「ええ、もちろん。そちらがよろしければ」


 今夜の予定は丸々開けてある。店に問題がないなら早く慣れていた方がベストだ。それにこれは、下手をすれば数日はおろか一週間の契約になりそうな扱いなのだ。なるべく店側の意向は汲んでおきたい。


 二回目のステージが始まる。一回目のように、もう客側の委縮もなく、


「お兄ちゃん、次は吉田拓郎を唄うてよ」


 と、演奏中にもリクエストが入り、急遽セットリストを崩す。そうなるとリクエストは相次ぎ、二十分の尺では収まらなかった。が、『どうぞそのまま』といった笑顔でステージを指す店長の顔を窺えたので安心して先へ進む。


「それでは」


 と譜面を捲り、


「初めまして。旅の行きがかりで演奏させていただいております。リクエストもたくさん頂き大変名残り惜しいのですが、次が最後の曲となります。マイウェイ」


 そして往年の名曲、オジさんたちの心のバイブルであるフランク・シナトラの『My way』をアカペラで唄い始めた。正直なところ、覚えたはいいが披露する場所がなく使い道に困っていた曲だ。先日の鹿児島で譜面整理をしてある程度は処分したのだが、捨てずに置いていて正解だった。


 曲は静かに進む。そしてサビ前から小さなギターの音色を入れる。


 俺は何より歌に神経を尖らせていた。ギターの方は目を瞑っても弾けたからだ。言ってしまえば、この曲はアメリカの演歌であり、どれだけ一小節ごとにコブシを効かせるか、どれだけビブラートを多用するか、そういったのど自慢的な側面の強い曲なのだ。現にほとんどの客が小さく口ずさんでおり、こっちはその中で派手な節回しを繰り返し、最後に、『やっぱプロは上手いねえ』と言わせなければならなかった。


 そして、ステージは終わる。


 先程の倍近い音量の拍手をもらい、俺は自然に笑顔でステージを降りられた。大量の照明とスポットを浴びたせいか、Tシャツは汗まみれになっている。照明設備はざっと百万円近くかかっているだろうと、下世話なことまで考えてしまった。


「お疲れ様でした」


 店長の労いに、俺はギターを仕舞う手を休めて答える。


「こちらこそです」


「とてもよい演奏だったと思います。是非、宮崎でのお時間が許す限り、ステージの方をお願いしたいのですが」


 来た。これが今日いちばん待っていたひと言だった。


「そうですね。今週一週間でしたらどうにかなると思います」


「そうですか。それでしたら是非、今週の土曜日まで。あと、こちら少ないですが出演料の方になります」


「あ、ああ。ありがとうございます」


 そういえば、ギャラのことをすっかり忘れていた。


 店長に頭を下げて白封筒を手に取ると、やけに薄いことに気付いた。が、その場で開けるのも躊躇われ、そのままポケットへ入れた。恐らくワンステージ二千五百円で五千円が入っているはずだ。大概の店ではそれが相場だった。


「では、本日はありがとうございました。明日からもよろしくお願い致します」


 店長の橘さんは、わざわざエレベーターで一階まで下りてきてくれた。しかも手の空いている美女も三人いる。


「ふと思ったんですけど、僕って時間がある時はそこで唄っててもいいんですかね。なんかお店の格が下がるような気がして」


「いいえ。まったく問題ありません」


 そんな質問を最後に、俺は頭を下げてビルを後にした。ただ、その質問は決してバカげた話ではなく、


 ――「ウチで演奏するんでしたら、今後そういう品位のないことはご勘弁願えますか」


 そう、キッパリと口にした店主もいた。とある広島のボーイズバーだったが、「だったら先に自分とこのスタッフの品位を疑え」と言いたくなる店だった。しかもこっちの演奏を止めて自分のカラオケを唄うような、そんなスタッフばかりだっだ。それではこっちとしても何のために雇われたのか意味が分からない。まあ、メンズの店でスタッフ以上に目立つなということだろう。客の女性たちは決して嫌がっていなかったのだから。


 それはそうと、まだ明かりの灯っている一番街アーケードに入り、もらった封筒の中身を確かめると、一万円札が一枚入っているのを見て驚いた。そうなるとワンステージ五千円ということか。


 そういえば、


 ――「時折、お客様がチップを出されることもあります。その時はどうぞ遠慮なさらずにお受け取りください」


 そんなことも言われていた気がする。これにもしチップが重なれば宮崎の一週間は安泰だ。そのことを早く緋堂へ伝えたくて、気が付けば足早になっていた。なのにだ。


 ホテルへ戻ると部屋のドアは閉まっていた。念のためにノックしてみたが返事はない。


(寝てる……とも思えないな)


 時計を見ると午後九時前で、寝るにはまだ早い。出掛けているなら――。


「ええ。八時過ぎくらいに鍵は預けて出かけられましたよ」


「何か荷物って持ってましたか?」


「いいえ、多分なんも」


 他人事に興味津々そうなフロントのオバさんに訊ねると、そう答えがあった。


 ひとまず鍵を預かって部屋に入るも、やはり荷物は置き去りだ。美味いラーメン屋でも探しに出かけてるのかと思うも、そういう奴じゃないのは俺も分かっていた。緋堂はそういったことに、積極的に人を巻き込む方だ。


 帰ったら飯に行こうと思っていたが、彼女の動向がつかめないので困ったものの。


「何やってんだ俺は。ホテルなんだから電話くらいあるだろ」


 わざと口に出しながら、外線で緋堂のケータイを鳴らした。が、通話中のようで、仕方なく俺はギターの手入れでもしながら彼女の帰りを待つことにした。


 それから三十分。


 小さくノックされたドアの鍵を開けてみると、緋堂が立っていた。そして第一声、


「早かったんだ。どうだった?」


「あ、ああ……まずまずだったよ」


 緋堂は、と続けようとした俺に、


「そっか、よかったね。何日くらいやるの?」


「え……と、週末まで頼まれて」


 こちらに質問する隙を与えないような彼女の振る舞いが気になって、


「電話してたんだろ。北海道」


 俺はわざと正面から訊ねてみた。すると緋堂は、


「……まあね。形式上はまだ付き合ってるからさ、たまには」


 髪をゴムでまとめながら鏡を見る。背を向けているのでどんな表情かは分からなかったが、卵の黄身が二個だった程度の動揺しかしていなさそうだった。


 ただし無理に話したい訳でもなさそうで、


「晩飯なんだけど」


 俺は本題の方を切り出した。すると、


「ああ、ゴメン。ミツキ帰りが遅いと思ってたから、先に食べてきちゃった」


「そっか。で、お薦めは?」


 緋堂はこちらも見ずに机へ向かい、筆を揃えながら答える。


「目の前の赤い暖簾のラーメン屋さん。チャーハンが美味しかった」


 なんと予想を裏切り、お一人様でラーメン屋だった。


「じゃあ、そこ行ってくるよ」


 言い残して俺は部屋を出た。特に冷たいという訳ではなかったが、微妙な距離を置かれるとこうも寂しいのだと知った。


          *


 暖簾を仕舞うギリギリで飛び込んだ先でラーメンを食い終え、緋堂お薦めのチャーハンも堪能した。しかしそれだけでは時間が余ってしまい、三本買った発泡酒の一つをコンビニの前で開けた。彼女の創作中はあまり邪魔したくない。


 不意に吹き抜けた風は真っ直ぐな秋の風だった。木々に連なる葉を色付け、そして舞い落ちさせるための、寒い冬に備えた風だった。


 冬の越し方は、すでに頭の中にある。住み慣れた、そして唄い慣れた広島を拠点にすれば、俺も彼女もそうそう困ることはないはずだ。


(はず、だったんだが……)


 その計画も、彼女との旅が続いた上での話だ。今日のような気まずさがまた続くなら、冬が来る前に彼女と別れなければならないだろう。


 ふと思い立ち、再度コンビニへ入ると、ワンカップを二本買った。何時まで描くのか分からないが、別に腐るものでもなし、とホテルへ戻った。


「お帰り。チャーハンどうだった?」


 緋堂は机から肩ごと振り返り、こちらが口を開く前に訊ねてきた。


「ああ、予想の上をいったよ。ラーメンも美味かったし」


「ウソ! ラーメンも食べたの? ミツキってそんなに大食だっけ」


「今日は昼のサンドイッチだけだったろ。それに二日分のカロリーは取った」


 俺はビールを冷蔵庫へ入れ、


「ほら、ひと仕事終えたら飲めよ」


 そう言うと作業机の上へ酒を置いた。


「マジ? いいの? さすがミツキ様々! よっぽどクラブの営業、上手くいったんだね」


 彼女の方も創作は首尾よく進んでいるようで、さっきとは違い話し方も明るい。


「それが、予想外のギャラでさあ。二十分ワンステージが五千円だったんだよ」


「何それ! なんて詐欺?」


 ワンカップを開けた緋堂はエンジンがかかってきたようで、そんな軽口を叩く。


「ミュージシャンなんて皆、詐欺みたいなもんだよ」


 俺は冷蔵庫に入れたばかりの発泡酒を取り出してやり返す。


「いいなあ、私もそれ見てみたい」


「だから座って三万円だってば」


「じゃあ、ミツキのギャラで払えるじゃん」


「何で俺が払うんだよ。てか、これでようやく鹿児島での借りが返せるな」


 俺が言うと、


「借り? そんなのあったっけ?」


 彼女はいたってご機嫌に戻った顔でとぼけてみせる。


「ホテル代の折半。二日分残ってるんだよ」


 ああ、と言った緋堂は急に椅子から立ち上がり、ドアへと向かった。


「どこ行くんだよ」


「んー、レンジ貸してもらえるか訊いてくる」


 どこまでもフリーダムだ。あれの首に縄をつけるのは基本的に無理だろう。頭に過るのはもちろん北海道の彼氏のことだが、形式上、と言った緋堂の言葉を鵜呑みにする気もない。彼女との関係はこれ以上でもこれ以下でもなく続けていたかった。



 寝る前にもう一枚仕上げる、と机へ向かった緋堂を背に、俺はバスルームに入る。ジャバジャバと水音を立てるバスタブに目を落とし、泡を立てながら広がる波紋を眺めた。いつしか普通になってゆくこの生活を暮らしと呼べるなら、俺はその暮らしを大事にしてゆきたい。いつか終わる、その時さえも。


 不意に、コンコン、とドアをノックする音が聞こえる。


「入ってるよ」


 そう言いながらドアを開けようとする俺に、


「そのままでいいから。そのまま聞いて」


「何なんだよ急に……」


「私、ミツキとの旅、すごく楽しいんだ。でね、よかったらこれからも続けていきたいの。続けてみたいの」


 俺は蛇口から出る湯を止めて、その告白を聞く。


「だからね、ミツキがいつか私のこと嫌になって、一人で旅したいって思ったら、いつでもそうしていいから。私、その時は仕方ないってあきらめるから」


 俺は何も口に出さず蛇口の水滴を見つめていた。


「だからね、ミツキ。今はまだ、一緒に旅しててもいい?」


 緋堂はいまだに、俺が便利さのために自分を使っていると思っている。その誤解を拭えるかどうかは分からないが、


「ひとまず俺からも頼んでおくよ。今後ともよろしく」


 俺の言葉にしばしの沈黙があり、ドア越しにも分かる涙声で彼女は言った。


「ありがと……またよろしく」



 風呂から上がるとなんと緋堂はイーゼルを立てて、何やら大物の制作に取りかかっていた。彼女が持っているパネルの最大サイズだ。


 それに半ば呆れ、


「今からそんなもん描いてて寝れるのか?」


 頭をタオルで拭きながら言うと緋堂は、大丈夫、と答える。


「大丈夫。黒で下塗りしてるだけだから。それとも絵具臭い?」


「いや、その絵具の匂いには慣れたから。けど、いきなりだな」


「どうしてもね、明日から取りかかりたい絵が浮かんでさ。これ終わったらお風呂入るよ」


 そう言って、確かに彼女は下地だけで創作を終え、タオルと着替えを用意するとバスルームへ消えた。

 たった今。俺は緋堂に訊ねたい言葉を飲み込んだ。それは俺の思い違いかも知れないし、絵の心得がない俺の早とちりかも知れなかった。ただ、言えることは、緋堂はいつも白いパネルの下塗りに薄いグレーを使っていたはずだ。それがなぜか今日は一面の黒だった。


 難しいことは考えないようにしようと三本目の発泡酒を飲んでいると、半分飲んだ辺りで緋堂が戻った。


「やっぱり久しぶりに広いお風呂に入りたいねえ」


「そうか? 海外の旅が多い連中なんかバスタブがあるだけで驚きらしいぞ」


「なるほど、シャワー文化なんだね」


 そう言いつつ、緋堂は黒のキャミソール姿で絵具の渇きをチェックしているようだった。そして俺は緋堂の後姿をチェックする。いつもはTシャツのくせに、突然のキャミソール。その意味が分からない俺だったが、別段、意味はないのかも知れない。


「ねえ、ミツキ」


 背中を向けられたままで発した彼女の声に内心を見透かされたような気持ちになった俺は、


「はい」


 やけに素直な返事を返してしまった。


「宮崎はこれで週末までいれそうじゃん?」


「ああ、そうだな」


「次の場所って決めてる?」


「いや……一人旅の時分なら大分へ上がって、九州ではまだ行ってない福岡かなと思ってたんだけど」


「けど?」


「いや、どう動いてもいいよ。夏休みの高校生みたいに『四十七都道府県制覇!』とか考えてないし」


 おぼろな予定を伝えたものの、緋堂はいつも見ていたロードマップをリュックから取り出して悩み始めた。やがて、


「次は大分だね」


「順当にいくと、そうなるな」


「温泉、多そうだし」


 そこかよ、と思ったが、新しい土地へ行くのに大きな目的はいらない。むしろ、そのくらいのノリの方がいいのかも知れない。


 まだロードマップと格闘している緋堂を横目に、俺は最後の発泡酒を飲み干した。


 時計はまだ十一時を指していない。


「ミツキ、もう寝る……?」


 地図から目を上げず、髪を乾かしていた緋堂がボソリと呟く。


 俺は心を読まれた気まずさを隠さずに答える。


「実は色々考えてて眠れそうにないんだ。今日と違って明日から本番だろ。選曲もそうだし、ステージパフォーマンスもだし、そういうのがね」


「そっか……じゃあ無理して寝なくったていいんじゃない? 譜面の整理とかやっちゃえば?」


 やけに世話を焼く緋堂に、


「もしかしてお前も何かやりたいんじゃないのか」


 空缶をくずかごへ入れると俺は言った。


「そ、実は私もね。早くパネルに絵具乗せたくって。ミツキ、私コンビニ行くんだけど、まだお酒買ってこようか」


「あれば助かるけど……。お前は何を買いに行くんだ」


 すると緋堂は乾いた髪を軽やかに振り、


「ん、インスタントコーヒー。じゃあ、行ってくるよ」


 ジーンズに足を通し、パーカーを肩にかけると、緋堂はダンスステップでも踏むようにドアを抜けた。ついさっきまで見えていた翳りが嘘のようだった。

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