南高北低・2
南高北低・2
近くにトイレがないかと訊ねたつもりだったのだが、案内されたのはエレベーターが開いた途端、数人の美女がにこやかに並んでいるクラブだった。
「いいんですか、ホントに?」
恐縮すると、俺を五階へ案内した蝶ネクタイの男性が柔らかく微笑み左手奥を差した。
路上唄いとして恥ずかしい限りなのだが、唄い出し三十分でトイレを催した俺は、背中でグレーのスーツを着て立っていた青年に訊ねてみたのだった。
――「すみません、近くにコンビニとかパチンコ屋とかトイレのある所ってないですか」
すると好青年は手を腰の前で組んだ姿勢で、
――「ウチでよろしければ」
とエレベーターホールを指したのだった。
恐縮しながらエレベーターを五階へ上がるといきなり七、八人の美女が笑顔で座っていた。奥へと続く店内は何坪あるのか果てしなく見え、ゆっくりと回るミラーボールも決して下品ではなかった。正直なところ、今まで全国で顔を出させてもらったキャバクラもラウンジも、足元にも及ばなさそうな高級感だったのだ。
出るものも出そうにないトイレで用を足してエントランスへ戻ると、よりどりみどりの美女の一人がお絞りを用意してくれ、これはもうトイレ三分で一万円のコースかと思ったところへ先程の好青年が現れ、丁寧に名刺をくれた。しかもそこには店長と書いてあり、てっきり人の好いボーイさんだと思っていた俺は面食らった。
「ミツキユウスケです。この度はありがとうございました」
何も返せるものはなく、考えても考えてもそれしか言葉が浮かばず、何度も頭を下げてエレベーターに乗ろうとしたのだが、
「お上手ですね」
という言葉に引き止められた。どうやら俺の拙い演奏を聴いてくれていたらしく、そのままこう続ける。
「当店、定期的にイベントを行っておりまして。よろしかったらですけどご出演願えませんか」
「出演、ですか」
俺は喉で生唾が落ちるのを感じながらオウム返しに答える。
「はい。もちろん相応のギャランティは発生いたしますし、音響の方もご都合があれば用意させて頂きます」
ギャラと聞いては尻込みしている訳にもいかず、とりあえずその打診へと応えてみる。
「はあ……まあ、なにぶん旅の途中でして、ご希望に沿えるかどうかはあれですけど」
なんとも気の弱い返事になったが、向こうはそれをOKと取ってくれた。
「ありがとうございます。今月出演予定だったピアニストの方が急にキャンセルされまして、困ってたんです」
そういうことなら、と、頭にはすでにレパートリーが並び始める。
「で、本番っていつなんです?」
「明日でも構いませんよ。明日は日曜日で予約も少ないですし。是非、リハーサルのおつもりでいらしてください」
今日でないだけまだマシか、と息を吐き、俺はとりあえず客層だけ訊いてみることにした。
「そうですね。四十代から六十代の方が多くなりますが、三十代の方も見えられますよ。洋楽のお好きな方もいらっしゃいます」
「洋楽ですか……」
俺は咄嗟に、禁断のビートルズの出番かと感じた。なぜビートルズが禁断かというと、路上演奏では難癖を付けられてばかりだったからだ。ビートルズファンは路上唄いに厳しい。歌よりも演奏重視なのだろう。
それでも毛嫌いしているだけでは上達もない。これを機会に洋楽の総ざらいと打って出てみるのも手だった。
「明日は十八時くらいにお越しいただけますか」
惜しみない笑顔の店長が確約に入ったので、俺も及び腰ながら頷いた。
「はい。大丈夫だと思います。それと、申し訳ないんですけどケータイないんですよ。必ずその時間に来ますんで、それで大丈夫ですか」
「構いませんよ。それではミツキ様、明日、お待ちしております」
俺は深々と頭を下げ、エレベーターで一階へ下りた。トイレを借りるだけのつもりが、とんでもない事態になってしまった。
*
「すごいじゃん。私も前金で依頼が一件入ったし、これじゃ明日も連泊だね」
午前零時半に上がりを決めた緋堂が、絵筆を持った手で嬉しそうに言う。骨董屋の前だ。
「ところで、こんなもんどこにあったんだよ」
深夜の一番街は真っ暗だったが、骨董屋の閉まった軒先だけはランプの灯かりで照らされている。俺としてはそのランプの出どころが知りたいのだ。
が、緋堂は当然の顔で答える。
「あのね、店先だけ借りるつもりが灯かりまで貸してくれたの。ここって夜は真っ暗みたいだから」
「はあ、それで……」
運というよりは人徳なのか、緋堂は至る所で他人の親切に預かっている。路上でミカンをもらうレベルから、他人の店先で電気を借りるレベルまでだ。持って生まれた社交性と言えばそれまでだが、時折、街中の絵描きよりも向いている他の天職があるのではないかと思うほどだ。
「それより君はどうだったの? 明日の宿代は?」
屈託なく訊ねられる話ではないのだが、彼女はそういうことを濁さない。いるものはいる、ないものはない、そうはっきり口にすることで日々の目標を立てるのが彼女のやり方なのだろう。
「明日に繋ぐ分は稼いだよ。それに店内演奏のギャラもソコソコは入るだろうし」
「ソコソコって?」
「まあ、高級な店みたいだから、四、五千円は固いんじゃないか?」
「アバウトじゃん。そういうのはきちんと聞いとかないと後で大変だよ」
「苦手なんだよ、金の話は」
「……じゃあ、ひとまずミツキはお店の営業が決まった。私は一枚予約が入った。それが今夜の収穫だね」
収穫、か。それが金銭面であれ精神衛生上であれ、刈り取られた麦は確実に心を潤す。
俺は緋堂の片づけを見下ろしながら、
「ところでその店なんだけど」
「何かあるの?」
「ハーヴェスト・ツインズっていうんだ」
「へえ、幸先よさそうな名前だね」
「だといい」
緋堂の片づけは終わり、借り物のランプを消すとアーケードは漆黒の闇に包まれた。ほんの小さな明かりのつもりだったが、そんな明かり一つで世界はこうも変わるのだ。
緋堂は最後に折りたたみの椅子をキャリーへ乗せると、じゃあさ、と言った。
「じゃあ、明日は念願の炭焼き地鶏が食べられるかもね」
「そこまで稼げるか分かんないよ。向こうもリハーサルがてらって言ってたし」
「大丈夫だよ。私の売り上げ教えてなかったっけ」
緋堂は聞いて欲しそうに笑みを作る。その顔から、かなり高額なことが窺える。
「……二万」
俺は小さく答える。確か熊本で大きなパネルを一枚製作した時の金額がそうだった。
「残念。一万三千円でした。すごく値切ってくる人でさ。でも信用していいよ。てか、前金までもらってるし」
緋堂が片づけを終えて立ち上がると、時計は一時になろうとしていた。
「地鶏――」
蚊の鳴くような声で呟いたつもりだったが、緋堂の耳にはスズメの鳴く音くらいには聞こえたのだろう。
「え? なに?」
「だから、地鶏の炭焼き。遅くまで開いてる店があったからさ」
俺が言うと、いつも眠たげな瞼で瞬きばかりしている緋堂が、目を見開いた。
「それって、今から行くってこと? 行けるってこと?」
「俺はとりあえず路上の三千数百円プラスギャラ仕事が決まった。緋堂も緋堂で一枚予約が入った。タイミングとしては上出来じゃないのか」
「なるほど……じゃあ行く行く! どこにあるの?」
「近いんだし、一度ホテルに戻って荷物を置いて来よう。俺たちの荷物は店にも客にも迷惑なんだから。」
「うん、分かった。そうしよ」
初めて食べた宮崎地鶏の炭火焼きはこれでもかと言わんばかりに炭の色で、最初は食べるのが躊躇われた。
しかし、その柔らかな噛みごたえと鶏の旨味で口中を溢れさせると、
「何これ美味しい! 鶏の脂がすごくって、周りの炭がなんていうの、あれ」
「燻製だろ」
「そうそう。そんな風味が広がって、鼻に抜ける香りがなんとも」
熱さに頬を膨らませながら緋堂が身体ごとのけぞらせた。
独特の炭火の香りと鶏の旨味に負けて、試しに頼んだ一人前はすぐになくなってしまい、もう一人前を追加注文した。俺のビールと緋堂の熱燗もだ。緋堂は酒を飲むが、決まって熱燗だった。確かに炭火焼きにはその方が合っているかも知れない。
「で、一番街の流れはどうだったんだ」
俺はジョッキの底に残ったビールを飲み干して緋堂へ訊ねた。
「うん。いい感じだよ。飲み屋通りと違って、地元のオジさんが自転車で通ったり、子犬を散歩させてるオバさんがいたり。それが、いちいち立ち止まって話しかけてくれるの。何してんだって」
「あのランプは目立ってたからな」
「だよね、あそこのオジさんにもちゃんとお礼しないと。で、ミツキは?」
「俺も同じ感じかなあ。鹿児島の時と違って、素通りが少ないんだ。雰囲気で言えばよかった時の熊本以上かな」
「じゃあ、宮崎一週間も夢じゃないね」
「まあ、それは別問題としておいといて」
俺は二皿目の地鶏を口に放り込んで続ける。
「緋堂は明日、絵に専念するんだろ」
「そうさせてもらいます。けど、メディウムの匂い大丈夫かな」
「俺なら大丈夫だ。弟のバイク弄りでその辺は慣れてる」
「ミツキ、弟さんいたの?」
緋堂は二皿目の地鶏もなくなりそうな勢いで訊ねてくる。
「ああ。広島で真面目に塗装屋やってる」
三つ歳下の弟は学業の方はまったく冴えなかったが、一つのことに打ち込む性格が向いていたのか、高校卒業後に入った塗装屋で今も真面目にやっている。長男の俺とは大違いだ。
「緋堂は、いないのか」
またもや切れたビールのジョッキを掲げて店員を呼ぶと、俺は熱燗と猪口を追加で頼んだ。店内は換気扇も役に立っていないのか、もうもうと煙が立ち込めている。
「私は、一人っ子だよ」
俺の猪口へ酒を注ぎつつ、彼女は無表情に言った。
「親がよく許したもんだ」
熱々の酒を啜って俺が言うと、
「ミツキ。そういう話はお互いなしにしない? 知ったからって面白いことなんて何もないよ」
そして空っぽの猪口を無言で見つめた。
「そうだな。悪かった。今後、そういう話はなしだ」
俺は緋堂の猪口を満たして言う。
しかし気まずい空気は簡単に払拭出来ず、十分後にどちらからともなく帰り支度を始めた。
「明日も予定があるんだし、ちょうどいい時間だろ」
取り繕うように俺が言うと、少しは明るさの戻った彼女が頷いた。聞かなくていい話は、答えがあろうとなかろうと場の空気を濁してしまう。そのことを忘れていた俺は、帰り道、一人で反省していた。
午前三時のアーケードは、細い隙間から差し込むネオンの明かりで路面をぼんやりと照らし、静まり返っていた。
「大事な話があるんだ」
不意に前を歩く緋堂が言う。その声は暗いアーケードに冷たく響き、俺は彼女に取り残されまいと歩を進めた。
「なんだよ。ややこしい話なら聞きたくないぞ」
「ううん、簡単な話」
緋堂は酔っているのかフリなのか、覚束ない足取りで前をゆく。そして、
「私の貯金ね、残り五十万円くらいなの。七か月で三十万円減らした訳」
「お前は寝泊りもしっかりしてるからな。絵の売り上げだけじゃ仕方ないのかもな」
「そうでもないの。三十万円使ったのは最初の二か月で、その後は順調に必要経費に届いてるんだ」
俺には話の意図が読めない。読めないまま、
「だんだん、売れるようになってるんじゃないか。いいことだろう」
「うん。そうだね。ミツキみたいにお客さんへの対応も出来るようになってきてると思うし、上手くいくと短期的にはプラスに持ってけるかも知れない」
「だから、いいことじゃないか。何が問題なんだ」
彼女に追いついた足で俺は言った。
するとそれを待っていたように彼女は振り返り、
「怖いんだよ。これが永遠に続けられることみたいに錯覚しちゃって」
そこでようやく彼女の本心が分かった。かすかに光をはじく両目は小刻みに揺れ、隠しどころのないその不安は、いともたやすく俺の心にまで届いてしまう。
「なあ、緋堂。同じ考えるならその時に考える方がいいと思わないか。俺だってそんな不安――いつまで続けられるのかっていう不安はいつも胸にある。けど、そうじゃない時に考えたって無意味なんだよ。俺たちは夜になればギターを抱えて、絵筆を握って、いつもその一択しかないんだ。その結果がどうであれ、黙って受け入れることが答えなんだ。違うか」
「分かってる。分かってるのに……ミツキ」
「なんだよ。まだ話があるなら戻ってからに――」
言いかけた俺の腕をつかみ、
「真似事でいいからさ、ギュッて抱きしめて……」
緋堂は俺の胸へ額をつけた。唐突な願いに、しかし俺はゆっくりと彼女へ腕を回した。
「……こういう可能性のあるうちに会ってればよかった。私、もっと早く旅に出ればよかったんだ」
消え入りそうな声で彼女は言った。
*
翌日は、微かな絵の具の匂いで目が覚めた。とはいえ、もう十二時近い。
「あ、起こした? ゴメンね」
緋堂は青いデニムシャツを羽織って髪を後ろに結んでいる。目線は真っ直ぐイーゼルを向いていた。昨夜のことを引きずっている顔でもない。
「いや、こっちもそろそろ起きる頃だったから」
ベッドを抜け出して冷蔵庫を開けると、買っておいた水と発泡酒のどちらにするか悩んで、発泡酒にした。その昔、朝からビールを空けているのを見た関西のミュージシャンに『アル中になるで』と口酸っぱく言われたことがあるが、こればかりは治らない。確かに中毒なのだろう。酒のせいに出来ることはすべて酒のせいにして、俺はそうして生きていきたい。
音を立てて缶を開けると、緋堂がちらりとこちらを盗み見た。
「弦、買わなくていいの?」
またイーゼルに乗せたパネルへ筆を走らせながら、彼女が訊ねてくる。
「ああ。しばらくしたら買いに出ようと思ってるんだけど。なんなら緋堂も昼飯がてら出ないか」
が、彼女は即答する。
「私、いらない。先にこれを仕上げたいから」
「そうか……」
ここまで真剣な彼女の眼差しを見ることは少ない。いつものヘラヘラした笑いもすっかり消え失せ、どこに隠していたのかと言わんばかりの真剣さだ、
その圧迫感に耐えられなくなった俺は慌てて発泡酒を飲み干すと、着替えを持ってユニットバスへ消えた。
「じゃあ、出てくるから」
「うん」
短いやり取りでホテルを出ると、今日の宮崎は薄曇りだった。今夜はいいとして、明日以降は雨でも演奏出来る場所を探そう。
若草通りを一つ動くと国道が通り、少し歩くと緋堂の話していた楽器屋が見えた。
(まだ余裕があるし、二セット買っておくか)
旅先でいちばん困るのは移動した先の楽器屋が駅付近にないことだ。徒歩圏内ならどうにかなるものの、知らない街でのバス移動はリスクが大きい。静岡のどこかの街では集中豪雨の余波の中でくるぶしまで水に浸かって楽器屋を捜し歩いたこともある。知らない街の盲点だ。
そう思いながら入った楽器屋は一瞬でそれと分かる作りだった。それ、というのはピアノ主体、鍵盤楽器主体の店だ。ギターショップに見かける暖簾のようなギターの壁が見当たらない。
とはいえ弦くらいあるだろうと女性店員に訊ねると、こちらになります、とわざわざ目の前まで案内してくれた。その柔らかさはピアノショップならではのものだ。これが街の小さなギターショップだと、『そこの裏ですよ』とレジカウンターから出もせずに指差して終わりだ。
そんな訳で辿り着いた弦の売り場はそこまでバカ高いラインナップでもなく、程々の値段で二セットを買えた。ひと昔前のピアノ屋ならメーカーの純正しか売っておらず、質も悪い上に値段も張った。こういう店で安売りの弦を買えるようになったのは企業努力の甲斐もあるのだろう。百円のギターピックを買いに来るだけの客にも店員は笑顔を絶やさない。
楽器屋を出た俺は、さて、と時計を見た。時刻はまだ一時過ぎだ。
緋堂の真剣な目を思い出せば、邪魔はしたくない。弦の交換もあるので夕方の四時が限界だったが、それまではどこかで時間を潰そうと思った。
(ついでだ。飲み屋街を歩いて雨の日にやれそうな場所を探すのも手だろう)
程々に賑わうアーケードを越えて歩くと、この飲み屋街には俺の見つけた通りの他にも並行した通りがあるようだった。よくよく考えれば宮崎では直感的にあの場所を選んだだけで――直感は的中したのだが――他の通りをよく見ていなかった。
が、そうやって隅から隅までを眺めたところで、最初に決めた場所を超える条件の場所はなかった。屋根付きの唄えそうな場所があるにはあったが、そこで唄うには店ごと閉店していなければならない。
時計を見る。まだ三時前だ。
一人で時間を過ごすことが不得手になっていることは自分でも分かっている。ほんの十日ほどを彼女と一緒に過ごしただけで、一人の時間を持て余すようになっていた。
以前なら、寒い冬を市役所の待合でじっと過ごしたり、フードコートでテーブルに突っ伏して眠ることは苦ではなかった。それが今では屋根と壁のある暮らしにないと怖くなってしまっている。一般的には悪いことではなかったが、旅人としては少し気がかりではある。ハングリーだのストイックだのと言う気はないが、いつも覚悟は持っていたい。
そんな悪い予感が的中したか、ポツリと肩を叩いたのは雨だった。緋堂の創作を邪魔したくはなかったが本降りにならないうちに戻らないといけない。
俺はホテルへ向かう足で手近なコンビニへ立ち寄り、足早にアーケードへ駆け込んだ。
「あれ? 雨だったの?」
鍵の開いたドアを抜けると、バスルームで絵筆を洗っている緋堂に出くわした。緋堂の使う絵具はアクリル絵の具というらしい。水に溶けるが乾くと耐水性という、路上にはうってつけの絵の具だ。
「今、降り出したんだ。ひどくならなきゃいいけど」
夜の予定を思えば、あっさり止んで欲しい。
「もう三時かあ」
絵筆を洗い終えたのか、彼女がキャンパスの前へ戻る。
「出来たのか?」
「うん。なかなかの仕上がりだよ。見る?」
俺はコンビニで買った袋をベッドに放り、出来たての絵を眺めた。緋堂の絵はひどく抽象的で、描くモチーフはいつもハート模様ばかりだ。訳が分からない図案に見えても、必ずどこかがハートになっている。そして色はサイケデリックだった。
それから緋堂は絵を乾燥させるのだと、ドライヤーを手にパネルへ風を送っていた。
「腹減ったろ? サンドイッチ買ってきたから済んだら食えよ」
「マジ? ありがたいわ。こんなかかると思ってなかったから」
絵画の心得のない俺には、朝の十時から五時間で一枚仕上げた能力だけで充分に神業だった。しかも相手はA4サイズのノートを二枚並べたくらいはありそうなパネルだ。
緋堂は小さく鼻歌を唄いながら、片手にはドライヤーを持ち、片手では俺の買ってきたサンドイッチをつまんでいる。すこぶる機嫌はよさそうで、俺に例えれば新曲の出来た瞬間に近いのだろう。
と、そこへ、
「ミツキって、新曲書いたりしないの?」
と脈絡なく訊ねてきた。
読心術でもあるのかと思わせる彼女は、意外にそういう発言が多い。こちらの意図したことや浮かんだ言葉を、先手を打って話すのだ。ある種、超能力だろう。
「この四、五年は作ってないな。別に今あるもので事足りてるし」
「えー、聴きたいよ新曲。あの、お月さまの歌みたいなの」
緋堂が言っているのは、広島の知人からもらった『月に恋をした』という歌だ。初めて緋堂に唄った歌でもある。
「お前、えらく気に入ってるけど、作った奴の顔見たらびっくりするぞ。持ってた筆が思わず折れるぞ」
「えー、それって逆に見たい。じゃあさ、九州が終わったら広島に行くのはどう?」
不意にそう訊かれ、俺は、
「行けたらな」
と濁しておいた。出来ればあいつにはどんな女も会わせたくない。その女癖の悪さときたら、車で重傷を負わせた相手の女に一目惚れする程なのだ。
「さて、弦でも変えるかな」
わざと口に出し、広島行きの話が具体的になる前に俺は自分の用事を片付けに回った。
ドライヤーの音に紛れ、俺のギターの弦が外されてゆく音がしばらく続いた。ギターは一本弦を緩めると張力が落ち、その反動で他の弦のテンションが上がる。それを六本分繰り返すと弦の響きはバラバラで、それを調弦する訳だ。
張り終えたギターを構えると、
「出来た? 何か弾いて」
とドライヤー作業を終えたのか緋堂がベッドの上を見た。
「弾けって言われてもホテルだしな」
「最近、持ち場が違うから君のギター聴いてないんだよ」
「じゃあ……大人し目のインストで」
そう言うと俺は昔よく聞いていたスリーピースバンドのギターを歌なしで弾き始めた。後にも先にも譜面を見てきちんとコピーした曲はそれきりで、俺のギターは基本的にフィーリングだ。
しばし無言で耳を傾けていた彼女が、
「それ何て曲?」
唐突に訊ねてきた。
「『Musician』て歌だよ。緋堂だってそうだろうけど、やりたいことも長くやってると抱えるもんがあるだろ。この歌はそういうこともあるけど唄い続けようっていう歌さ」
「歌詞がないと今いちピンとこないけど、いい歌だね。例のクラブのステージでやってみたら?」
「どうだろ。俺はひとまず無難にメジャーどころを攻めてみたいと思ってるんだけど」
「ふーん……。聴きたいな」
「じゃあ客で入るか? 座ったら三万円みたいな店だけど」
すると緋堂は間髪を入れず、
「やめとく」
そう答えて筆をバッグへ仕舞った。
そうして三十分ぐらい弦の張り具合を見ていた俺に、
「外、止んだみたいだよ」
雨の様子を窺っていた緋堂が、振り返りざまに言った。俺の返事がないのが気に入らなかったのか、
「ねえってば。外、出てみない?」
「俺はいいよ。さっき出かけたばっかりだし」
「そういうんじゃなくてさあ。たまにはこう、私と明るい街を歩いてみたいと思わないの?」
「なんか、日陰の恋でもしてそうな悲しい台詞だな」
「違う! そんなんじゃなくて! 頭に来た、絶対連れてく」
憤慨しながらも、緋堂はパタパタと着替えを済ませるとジーンズからスカートに履き替えてきた。白いプリーツの入ったスカートは街のお嬢さんといった感じで、緋堂によく似合っている。その上に黒のニットを羽織ると、緋堂は言った。
「よし、行こう」
若草通りから一番街へ向かうと、空は輝きを取り戻していた。通りを抜けると広い国道に出る。
そんな道の上、並んだ軒先の一つを指差して、緋堂が言う。
「あの水滴の中に一つ一つ、世界が映り込んでるんだよ。レンズみたいにさ。そう思うと雨上がりって贅沢じゃない?」
そう言われればそうなのだろうが、俺はどうにも視覚的な刺激から何かを感じるということが少ないようだ。歌の歌詞にもあまり情景は盛り込まない。かといって他人の曲を聴いて感動することも今ではあまりなく、要するに神経の一部が麻痺してしまっているようなのだ。
そんな麻痺した神経の中、黒いニーソックスの彼女が大股で歩を進める。水溜りを避け、街路樹から滴る水滴を躱し、その姿は大胆に見えて繊細だ。それはそのまま彼女の描く作品に繋がっており、俺はそんな後姿をいつまでも目で追ってしまう。
「何してるの? 行こうよ」
雨上がりの夕景に染まった彼女が振り返り、俺に向かって大きく手招きをした。
クラブ演奏に宮崎地鶏と、なんだか前作「はじまりさえ唄えない」を思い出させるエピソードが随所に見られますが、体験談を放り込むとこうなってしまいます。あしからず。




