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西高東低‐南高北低  作者: 水銀塔
第二部・Early Times Ballad
23/33

西高東低・1

第二部突入です。

          西高東低・1



 大阪から乗った高速バスが、紙屋町のバスセンター前で大きくブレーキを踏む。と共に眼が覚めると、一月の青空の下に見覚えのある光景が広がっていた。広島の街は化粧っ気のない美人の様相で、堅苦しさを抜きに迎えてくれた。


 ミツキユウスケはリクライニングシートで固まった背骨を鳴らし、気忙しく降りてゆく人々の後をのんびりと追った。三年ぶりの広島はどう変わっているだろう。それは決して笑顔ばかりでもないような気がしていた。そういう意味での一時帰省だった。


 帰省とはいえ、故郷へ戻ることは親にも連絡しておらず、この街でも生活ぶりは旅先のそれと変わらない。ただ、とにもかくにも生きていることは年賀状で通知済みだ。届いていれば、の話だが。


 薄暗いバスセンターの外周をぐるりと周らされ、エスカレーターのフロアに着く頃には汗ばんでしまっていた。どうやら瀬戸内は、三重での稼ぎで買った黒いダウンコートも必要ないほどの陽気だ。


 額の汗を拭い、更に人混みで埋め尽くされたエスカレーターを下りると、ようやく紙屋町の街並みが目に飛び込んできた。ゆったりと時間をかけて走るような路面電車とバス。渋滞にあくびをかみ殺したようなビルの影が大きく映る舗道を右に往けば、原爆ドームが寒々しくそびえている。陽は射すが、あくまで風は冷たい。


 ミツキは信号が変わったばかりの横断歩道を渡り、積年の親不孝を詫びるような顔でドームと対峙した。この六年、実の親に顔を合わせていなくとも、なぜか原爆ドームの前ではしおらしくなってしまう。それは広島人の血のせいなのかも知れない。広島の人間にとって平和公園は花見で盛り上がれるただの公園だが、ドームだけは別ものだ。その前に立つ時、通りがかる時、市民は心の片隅にあの惨状を思い浮かべる。


 かといって、ミツキはいつまでもそこへ留まることはなかった。差し当たって行く先があったからだ。目的地は原爆ドームからほぼ百メートル、平和公園の敷地を東西に跨ぐ元安橋の上だ。ミツキは遠く目的の場所に人影を捉えると、橋の東詰にある酒屋で発泡酒を二本買った。


 太田川に浮かぶ観光船を左手に歩くと、二十メートル先から大きく手を振るシンちゃんの姿が見えた。どうやらギターを抱えた大荷物のせいで遠目からもこちらの姿は分かっていたようだ。


「どうしたん。帰って来とったん」


 自慢のモヒカンを派手に色付けたシンちゃんは、Tシャツに革ジャンというパンクスらしいスタイルで身体を大きく揺すった。足元には小石で留めたポストカードが並んでいる。彼は、腕もないくせに原爆ドームの色鉛筆画を並べて観光客に売りつけるというあこぎな商売人だった。ただしミツキもミツキで夜の盛り場でギターと歌を押し売りしている立場なので、何を言えた義理ではない。


「今帰ったとこよ」


 ミツキは寒さに震える彼には申し訳ないと思ったが、買ってきた冷たい発泡酒を手渡しながら言う。しかしシンちゃんは、途端に目の端を緩ませた。


「おう、サンキュ」


「寒うない?」


 ミツキが言うと、


「ええんよ。こういう時は血中アルコール上げて乗り切るんじゃけえ」


 プシュッ、と小気味のいい音を二人で鳴らすと、三年ぶりの再会に乾杯した。原爆ドームを右手に路面電車の走る相生橋を眺めると、遠くには低い筋雲がたなびいている。


「キョウちゃんには会うた?」


 そんなシンちゃんの言葉にミツキは首を捻り、


「だって、あいつの今の根城、知らんから」


 そう言うと、あっという間に発泡酒を半分に減らした。乾燥した高速バスの車内では自慢の喉も焼き付きそうだった。


 大橋キョウジはミツキと同じ路上唄いだ。同じと呼ぶのも憚られるほどに極端なスタイルの違いはあったものの、ミカンもザボンも同じだと言い張るくらいの乱暴さで言えば同じ路上のミュージシャンだ。


 そんなキョウジの話を、シンちゃんは特筆事項でもなさそうに舌へ乗せる。


「新天地公園に行きゃ会えるよ。今もおるんやない」


 今、といえば午後の二時半だ。キョウジがそんな時間にそこへ出ているとも思えなかった。新天地公園はここから十五分ほど、広島随一の飲み屋街である流川のそばだ。確かに夜の営業場所には近いが、この一月の空の下で何時間もいられる場所ではない。


「ホンマにおるん?」


 シンちゃんの言葉を訝ってミツキは訊ねる。すると、


「最近、穴場見つけたらしいんよ。そこで昼間から酒飲んどるらしい」


 いよいよ疑わしくなったのは、キョウジが昼間から飲めるほど稼いでいるかが怪しいからだった。キョウジはいつも、ミツキの半分稼げればいいと思っている男だ。そしてその金額は日に二千円程度だ。


 が、せっかくの情報を無駄にするのも何なので、


「まあ、ほいじゃちょっと行ってみるわ」


 ミツキが言うと、


「ミッちゃん、明日もおるん?」


 シンちゃんはモヒカンを撫でながら、人懐っこい笑顔で訊ねてくる。


「うん。天気よかったら出て来るわ」


 お互いに手を振ると、ミツキは荷物を抱え直して本通りのアーケードへ向かった。


          *

 

 大橋キョウジとは、出会って何年になるだろう。と、思い出したミツキがいちばん驚いていた。それは遙か遠く七年前になるのだ。この数年間を地方中心で過ごし、同世代の知人のいないミツキにとって、キョウジは数少ない友人だった。


 ただし傍目には同じ路上唄いの二人だったが、ふたを開けると中身はまったく違った。何よりミツキと違い、キョウジは決して餌を撒かない。餌というのは耳触りのよい一般受けする曲を唄うことであり、それがキョウジには皆無だった。


 最もミツキと違うのは、ど下手くそなギターと歌を本人がまったく自覚していないことにある。別にこれはミツキが数段上のテクニシャンだということではない。ギターのレベルで言えばどんぐりだった。


 それなら何が違うのかというと、例えばキョウジには千円のチップが入れば『客は今の歌を千円で評価したのだ』と思い込める強靭な心臓――言ってしまえば自分の歌唱力で稼いだのだという都合のいい解釈が出来る性格があった。しかし同じように路上演奏を生業にしているミツキから言わせれば、自分らがやっているのは赤い羽根の共同募金と同じだということだ。誰もが歌を聴いて評価する訳ではない。聴く暇がないから代わりに小銭を置いてゆくのだ。そしてそれは『寒い中だけど頑張れよ』という励ましのチップなのだ。なのにキョウジはそれを完全に誤解している。


 しかし、誤解したままでも七年の月日をこうして生き延びているのだから大したものだと、そういう意味でミツキはキョウジを尊敬していた。


 そんなキョウジがいるらしいという公園まで来たものの、その影はない。


 新天地公園は、この街の歓楽街である流川に隣接する広場だ。外周にベンチと植込みがあり、昼間は閑散としているものの、夜はもっと寒々しい。あるのは行き場のないホームレスと猫に餌をやる老婆の姿、それから意味もなく園内を徘徊する黒スーツの男の影ばかりだ。とてもじゃないが、一般人が待ち合わせ場所に選ぶ公園でもない。


(それにしても……)


 ミツキはいつもなら見えるはずのホームレス集団がいないことに気付いた。ミツキの記憶通りならば、この時間はトイレに近いベンチの周辺にホームレスが数人固まって雑談しているのだが。もちろんそこにはキョウジの姿も含まれる。


 コンビニ前でしばし思案に暮れながら煙草を吹かしていたミツキに、


「あんた、キョウちゃんの知り合いじゃなかったかいね」


 不意に声をかけてきたのは左目の下に大きな痣を作った三十代ほどの女性である。よく見れば唇の端は切れている。


「あの、キョウちゃんって、キョウジのことですよね。大橋キョウジ」


「えー、キョウちゃんそがあな名前なん。よう知らんけどキョウちゃんのギターの仲間なんじゃろ?」


 女は何かで派手に汚したような白いファーコートで問いかけてくる。色々と痛々しいのはこの際さて置き、


「で、キョウジは今どこにいるんですか」


「待っとき。今コンビニ行ったら連れて行っちゃるけえ」


 女は破れたストッキングの膝も気にしない顔で店内へ入るとカゴを手にしていた。


(また妙な知り合いばかり増やしているみたいだけど)


 キョウジの知り合いはなぜそうなるのか、ホームレスと精神疾患とアル中が多かった。元安橋のモヒカンのシンちゃんも、その中に含まれる。


 シンちゃんの場合は対人恐怖症だった。小学生の子供たちなら平気だが、それ以上の歳になると受け答えがヘロヘロになるのだ。客とまともに目も合わせられず、話す言葉は聞き取れなくなる。それが絵を描いて売っているのだから、世の中には本当に謎が多い。


 そんなシンちゃんがミツキとまともに言葉を交わしてくれるのは、ミツキの中に同じものを感じ取っているからだろう。路上演奏を初めて八年になるが、ミツキは今も客の前で手が震える。他人のことばかり言えた義理でもなかった。


「お兄ちゃん、これ一個持って」


 コンビニから出てきた女は焼酎の瓶が三本入った袋を有無を言わさずミツキに押し付けると、


「こっち。ついて来んさい」


 つまみの入った買い物袋を振り回しながら歩き出した。


「これ内緒じゃけえね。あんたがキョウちゃんの友達じゃけ教えるんよ」


 彼女が周囲を見回して進む先は一件の雑居ビルだった。こんな昼間から開いている店があるのかと訝るミツキを完全に無視し、女は奥の非常階段へ進む。


「こんな時間に営業してるも店あるんですね」


「お兄ちゃん、何言いよんね」


 と噛み合わない会話の末に彼女が開けたのは、二階へ続く重いドアだった。賑やかな声が漏れ出て来ると思えば、途端に洗濯していない衣類のすえた臭いが漂ってくる。


「キョウちゃん。友達連れてきたよ」


 目を凝らすと、緑色の非常灯が薄暗く照らす中には、男たちが三人、ビルの廊下で車座になって何やら話し込んでいる。


「ああ? ミツキかや? いつ来たん! こっち来えや!」


 声の主は間違えもしない大橋キョウジで、記憶にあるマンガのような泥棒ヒゲは健在だった。恐らく店舗の入っていない木製のドアにもたれながら、キョウジは鏡月の瓶を手に酔っぱらった風情だ。


「とりあえず聞くけど、どういう事態なん」


「おう。ここ最近寝泊りしとんよ。ええけ、ここ来て飲もうや。久し振りやん」


 ミツキはどうしてよいのか分からぬまま、それでも数年間修羅場を潜り抜けた友の言葉に従った。すると前面にいた四十代の男が急に、ニヤけた口元で大儀そうに言った。


「はあ、お前か。生きとったんか」


 お前呼ばわりされる覚えはミツキにない。


 男は何度か公園で見かけた顔見知りといった間柄の、名も知らぬ相手だったが、その言い方が気に入らず、


「お蔭さんで、こがあな所でうずくまって酒飲まんでも済む程度にはやらせてもろうてます」


 その皮肉が伝わったか伝わらずか、男はミツキから視線をそらせて焼酎を瓶ごと煽った。


 ミツキはそんなことに構わずキョウジへ告げる。


「なあキョウジ。これマズイで。見つかったら強制撤去やろ」


 狭い廊下には段ボールが所狭しと敷かれ、奥にはキョウジのギターケースとキャリーに乗せた荷物もある。


 視線を泳がすミツキに、キョウジが話を止めにかかった。


「ええんよ、ええんよ。細かいことはええけ、飲もうや。色々話したいこともあるんよ」


 相変わらずというか酒が入るとダメ人間になるところは変わりがない。その昔、路上でギターを抱えたまま眠りこけて救急車を呼ばれたこともある。後から本人に問いただしたところ、


 ――「飲み屋のお姉ちゃんからもろうた安定剤が悪かったんよ」


 と他人事の顔で答えた。そういう奴なのだ。


「俺はウイスキーの方がいいわ」


 すべてをあきらめた口調のミツキが言うと、


「ホンマか? あるで」


 とキョウジは座を立ち、とっておき、といった感じのボトルを抱えてきた。ターキーの十二年物だ。キョウジにしては値が張る、珍しい酒だった。


「ええじゃろ。昨日、もろうたんよ」


 歯の欠けた口元をニヤリと歪ませると、キョウジはそのボトルをミツキに任せた。


 ミツキは半分ほど減ったそのボトルを口にすると、一口喉に流した。中身は間違いなさそうだが、アルコール度数五十度超えのこの酒は、いつどんな時にも頭の中へ夜を連れてくる。


 その様子をじっと眺めていた男らは、


「キョウちゃんが自分の酒飲ますとか、ホンマに親友なんやな」


 と、つまらないことで感心している。


「ミツキ、紹介するけえ。チーちゃんと、リョウさん。それからヤスは知っとるじゃろ。前に新天地で会うとるわいね」


 ヤス、と呼ばれた小柄な男――これも四十代だったが、その男のことはよく覚えている。キョウジと知り合った七年ほど前の真冬に、吹雪の中で唄っていたミツキの所へサウナチケットを売りつけにきたのだ。額面は二千八百円の物で、それを千円でいいから買い取って欲しいのだと言う。天候も大荒れで今夜の行き場に困っていたミツキは、たった今入ったばかりの千円札とチケットを交換した。


 誰に対しても腰の低いその姿は卑屈であったものの、リョウと呼ばれた男の横柄さよりましだった。


 ミツキが異質な空気を持ち込んだためか、しばし不自然な静寂が流れた。そこへ、


「カツオが死んだんで」


 不意にトーンを落として言ったのはキョウジだ。


「死んだ? なんで?」


 カツオは七年前の広島路上に毎週立ち寄っていた男で、ミツキとキョウジの三歳年下の男だった。キョウジの知り合いの例に漏れず、癖のある、つかみどころのない奴だった。悪ぶった仕草がまったく板に付いていない、チンピラの一年生のような奴だった。


 が、ミツキの問いかけにキョウジはなかなか口を開かない。


「どしたん。冗談なら早う言えよ」


 すると首を何度か左右へ揺らしたキョウジが、遠い目を見せながら答える。


「まあのお、不名誉なことじゃけえオフレコで頼むんじゃが」


「ああ」


「酔うてアパートのベランダから落ちたんじゃ」


 ミツキは背筋に冷たいものが走るのを感じながら訊ねる。


「ベランダ? なんでまた……」


「隣の部屋に行こうとして落ちたらしいんよ」


「知り合いかなんかで?」


「ああ、母子家庭のな。仲よかったらしい。そいで、その人は目の前で見てしもうた訳なんよ。そしたらこの間、泣きながら流川に来てのお」


 ミツキは込み上げる寒気を堪えて聞き入った。ウイスキーは喉を焼いたが、身体を温めるにはまだ量が届いていない。


 キョウジもまた焼酎を煽る。


「あいつ、流川じゃ悪ぶっとったけど、市役所の職員やったんで。どっか坊ちゃんぽいとこあったけえねえ」


「本人なりに、俺たちに合わせたつもりじゃったんじゃろ」


「ミツキも暇あったら墓参りでも行ってきて――」


 しかしそこへ


「もうええじゃろ、その話は。暗うなって仕方ないわ」


 キョウジの言葉を遮ったのは、リョウと呼ばれた男で、顔をしかめながら煙草に火を点けた。不法侵入の雑居ビルの廊下でだ。


 そのふてぶてしい態度が受け入れられず、ミツキは一気に再会の喜びも失せると立ち上がり、キョウジに言い捨てた。


「ええわ。また夜に会おうや。場所、変わらんのやろ?」


「ええやん、ここにおってええんで」


「いや、メールとかSNSの更新とかあるし、ネットカフェに行くわ」


 するとまたしてもリョウがひと言、ミツキを牽制するように言い放った。


「はっ。ネットカフェ難民やないんか」


 ミツキは握りかけた拳をポケットに入れ、


「ホンマの難民はネットカフェも行けんのよ」


 そう言い残して、そのまま非常階段へ向かった。


          *


 数年前には馴染みだったネットカフェもどう様変わりしているかと心配だったが、場所もそのままに営業中だった。いちばん心配したのは店ごと変わっていることで、身分証のない身の上では会員証を作るのもままならないのだ。


「フラットの喫煙ブースで」


 そう言いつつ時計を見ると、午後四時ちょうどを指していた。唄いに出るのが十時なら六時間パックでぴったりだ。


 ドサリ、と背中の荷物を下ろし、ギターケースをパソコンの上の天板に置いた。マットを敷いたブースは狭いながらも長距離バスのシートに比べれば天と地の差で、ミツキはパソコンの電源を入れると畳一枚の座席で横になる。またしばらくはこの場所とサウナが我が家になるのかと思えば、どこか憂鬱になった。地元にいるのに帰れない理由はそもそも自分が作ったもので、親子間のわだかまりは専門学校の勧めた就職先を蹴った時から続いている。


 ひとまず、とミツキはホットコーヒーを用意すると、しばらく目を離していたメールの受信箱をひと眺めして、大した要件が入っていないことを確認する。続いてのSNSには広島に戻っていることを隠して、『元気である』ことのみ、写真も添えずに発信しておいた。


 そうすると後はすることもなく、所要時間十五分のモニタ視聴は終了する。


 最後に彼は検索サイトのカーソルへ数文字打ち込むとエンターキーを押し、しばし息を飲んだ。


 しかし検索にヒットするのは関係もなさそうな単語ばかりで、そこでようやく彼はパソコンの電源を落とす。この三年間、同じように繰り返しているのがこの作業だ。彼はいつも『緋堂ミツキ』の名前を探し続けていた。三年前、ほんの少しばかり同じ旅を分け合った人物のことを。


 ミツキは目覚ましもセットせず横になり、しばし眠りに就く。数年間の旅がくれたスキルは、どれだけ眠り込んでいても目的の時間になれば起きる体質だった。



 午後十時前のネットカフェを後にして、ミツキは三年ぶりの場所を目指す。ミツキは三年前のその時のことを、今でも色褪せず記憶している。緋堂ミツキが彼の前から姿を消したその日と重ねているからだ。彼女はその日、約束の場所へついに現れなかった。翌日も、翌々日も、一週間待っても姿を現すことはなかった。ミツキは彼女が何か手がかりを残していないかと荷物の中を引っ掻き回してみたが、彼女が消え去った理由は一つも見つからなかった。


 その場所へと、彼は今、向かっている。


 三越デパートの裏手のシャッター前まで来ると、ミツキはギターと荷物を下ろした。地元を拠点に唄っていた頃はよく世話になった場所だ。花屋の閉まった店先のスペースはきれいに片付いており、余裕のある庇は急な雨でも濡れずにすむ。しかも目の前は中国地方でも有数の歓楽街である。ミツキにとってこれ以上の立地はなかった。


 ミツキユウスケは路上ミュージシャンである。


 演奏の対価として得たチップのみが生活の糧であり、それは地元である広島でも何ひとつ変わることなく同じだった。親元は決して頼らないと決めた八年前から、そのスタンスは変わらない。ただ、言ってしまえば親に顔を見せるのが嫌だという子供染みた意地を張っているだけで、そういった成長を置き去りにしながら彼は日々を生きてきた、


(違う、それだけじゃない)


 彼はそこで信念めいたひと言を思い浮かべようとするが、言葉は何も生まれずに思案は途切れた。彼に出来るのはギターケースを開き、譜面を開き、演奏を始め、客を待つことだけだ。そこへ、


「ミツキ! 帰ったんか!」


「ああ……」


 店開きのタイミングで通りかかったタクシーは武藤のものだった。元々古い広島時代の知り合いなのだが、五年前からタクシードライバーをしている。歳はミツキの三つ四つ上だったと記憶している。つまり今は三十三、四だ。


 ミツキは据えかけた腰を上げ、二車線の路肩へ幅寄せしてきた武藤へ挨拶に立つ。


「久しぶりやろ?」


 武藤はそう言うと、いつもの如くどこを見ているか分からない焦点でミツキへ顔を向ける。


「うん。ざっと三年ぶりかな」


「そがあになるかいね。まあ、戻ったんならまた寄るわ。これ、コーヒーでも飲みんさい」


 そう言うと武藤は五百円硬貨を一枚出して、ミツキの手のひらへ置いた。


「ありがと。コーヒーが酒に変わるかも知れんけど」


「飲み過ぎんな」


 それだけ言うと満足そうな笑いを浮かべ、後ろから来たタクシーの列へ乱暴に合流した。


 誰であれ、この街の懐かしい顔に会うことは嬉しい。


 せっかくなのでもらった五百円を握って目の前のコンビニへ入る。


「お久しぶりじゃないですか」


 パック酒を二つ持ってレジへ向かうと、懐かしい顔がそこにあった。


「宇多田さん、まだいらしたんですか」


 ウタダという店長に笑顔を見せると、


「いるよ。最近は昼間の方なんでもう終わりだけど」


「そうですか。じゃあ、明日もお願いします」


「こちらこそ」


 と、帰りかけたミツキに、


「そういえば、何年前だったか忘れたんだけど、電話をもらったことがあって」


「電話? ここに?」


「はい。ギター弾きの人に連絡を取りたいんですけどって。まあ、その時お兄さんいらっしゃらなかったから伝えそびれてて」


 ミツキは、胸が締め上げられる思いに息が詰まった。


「名前とか、憶えてないですか?」


 緋堂だ。


「名前まではちょっと憶えてないね。女性の方だったけど」


(緋堂が俺を探していた……)


 思いがけず知った事実に、そうミツキは確信するのだった。


 コンビニを出てギターの元へ戻り、途中で放り投げていたチューニングを進める。進めながらも、頭の中は彼女のことでいっぱいだった。


 緋堂ミツキは三か月の間、同じ旅を共にした大事な友人、いや、友人を越えた同志だった。それが広島へ到着した途端に行方知れずになった。そこで彼女の元へ電話をかけなかったのは、どこかで旅の終わりを予見していたからかも知れない。彼女が北海道へ残した交際相手と連日のように話していたのは分かっていたし、風向きが決してよくないことも知っていた。


 ――「この気持ちに、いつか私はケリをつけるから」


 そう言いつつ潜り込んできたベッドで、彼女が涙を流したのを覚えている。いよいよ広島へ向かうという、岩国市内のホテルでのことだ。


 そんな緋堂から連絡があった。


 失踪したあの時なぜ、彼女へ電話をかけなかったのか、ミツキは自分で分かっている。彼女の天秤がどちらへ傾くのか、すべてを彼女に任せたからだ。何か一言でも言及していれば、自分の上皿には一ミリグラムでも重みが増したかも知れないというのに、それをしなかった。ミツキはそうして、何もかもを、というやり方で彼女にすべてを任せていた。


(それを今さらどうしろと……)


 不意にタイムカプセルに包まれたメッセージを耳に入れ、心だけをあの日に飛ばしてみれば、彼女の面影はまだミツキの中で溢れんばかりの絵の具に色付けられている。ただ、それは長い旅の中で小さなしこりへと変化していた。今、彼女に会えたからといって、あの日封じ込めた言葉は胸の中で琥珀の塊になっており、情熱などという青臭い言葉を引っ張り出してきても、三十歳にもなった自分がそれを受け入れる器を持っていなかった。


 ミツキはすべてを心の端へ寄せ集めて、空っぽになった気分を持て余すようにギターを手にした。大勢の人々が闊歩する飲み屋街の中、不意に孤独な自分の身の上と向き合う羽目になったが、その気持ちは路上演奏に不必要だった。


 手元の日本酒を啜ると、ミツキは今夜の一曲目を唄い出す。心を消して、歌へと集中する。通り過ぎる人々の視線に空虚な笑みを返し、投げ入れられる小銭に頭を下げた。


 流川の夜はまだまだ長い。

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