21・サガン
21・サガン
「ありがとうございました!」
「元気でね。また寄うたらおじゃったもんせ」
半分ほど理解していない薩摩弁に笑みしか返せず、ミツキは何度も頭を下げた。お客さんからの千円と店からの祝儀が恐らく二千円。合わせて三千円になった。これで明日は熊本へ行ける。そう思うと鹿児島最後の夜がやけにしみじみと感じられた。板金屋のオヤジに唄ったアリスの『遠くで汽笛を聞きながら』ではないが、何もいいことがなかったこの町で、ようやくそれを穏やかに思い出せる日が来そうだった。
時計を見るとまだ十一時だ。最後と言った手前ここで唄うのもどこか居心地が悪く、ならばとミツキは荷物をまとめて天文館を目指した。この時間ならコウタも間違いなくいるだろう。
しかし、そう思って出向いたゲーセン前にコウタはいなかった。
当ての外れたミツキは、だからといって他に何を出来る訳がなく、仕舞い込んだギターを再び出した。
(今日はこれで三連続公演だな。喉に負担かかってなきゃいいけど)
そう思いながら一曲目のイントロにかかったところだった。
「ミツキさん!」
奥の方からアーケードの奥の方から駆けてきたのはコウタだ。いつもの荷物がないのを訝ったミツキが、ギターの手を止めて先に話を振った。
「どうしたん」
「え、いや、えと」
不意に出たミツキの広島弁に面食らったのか、コウタは仕切り直して続けた。
「ルイちゃんが電話が繋がらなくて。ウチにも戻ってなくて、ウチっていうかお母さんのお店なんですけど」
こんな時にまたトラブルかといい加減にして欲しかったが、ミツキはひとまず一言だけ告げた。
「俺は見てないよ」
ドーナツ屋の件は隠しておいた。それはルイの肩を持つ訳ではなく火の粉がかかるのを嫌ったからだ。
「そ、そうですか。じゃあ、また!」
言い残して戻りそうになったコウタへ、
「ちょっと待って。俺が見つけたらどうすりゃいいの」
「えっと……俺の電話に」
「俺が電話ないんだよ」
「そしたらこの先の、百メートルくらい先なんですけど、サガンってスナックでママが待ってるって言ってください」
それで素直に戻るなら飛び出さないだろう。が、今はそれに頷くしかなかった。
今夜はやけにギターが冷える、とボディーを撫でながら思ったが、それは仕方のないことだ。この南国にも秋が訪れ、それが終われば冬が舞い降りようとしているのだから。
冬――。
それを頭に描くだけで旅唄いには身が引き締まる思いだった。やがてどこかで安物のダウンでも買い、ヒートテックの下着にぶ厚い靴下。雪の深い地域でも歩けるようにカットの高いブーツも調達しなければならない。それを思えば最初から熊本を越冬地に決めればよかったのだ。なぜ俺はそうしなかったのかと、ミツキは一人愚痴る。
今夜も一時まで唄って野宿だろう。後はせめて吉牛で並が食えるところまで、とギターを握っていたミツキに、
「すみません」
またしてもトラブルの匂いがした。見れば夕方に来た黒服の一人だ。
あからさまに深いため息とくわえ煙草で迎えてやると、男は言った。
「ちっと、リョウの奴探してんですよ。お兄さん、知り合いなんでしょ?」
その言いぐさに腹の立ったミツキは、
「ワシはのお、こいでも友達選ぶんじゃ。ええ歳して家出して客引きになるようなハンパ者は知り合いにおらんのよ。よそ探せ」
すると男は「はあ……」と腑に落ちたか落ちずか、ボーッと突っ立ったまま動かない。
「でも、連れて帰らなきゃ自分がマズイんですよ。あいつ客の背広から金盗んで消えてるです」
最悪だ。最低を通り越して最悪の話だった。
「じゃけえ! そがあな奴の話は知らん言うとんじゃ! 金盗んだんなら近くにおる訳ないじゃろ! それぐらい考えて分からんのか!」
咥えた煙草を吹き飛ばす勢いでミツキが言うと、
「はい。すみません」
男はそれだけ言い残して退散した。
最悪の夜だった。せっかく移動が決まった日だというのに。スナック橘でもいい演奏が出来たというのに。わざわざドーナツ屋で千円くれた女性もいたというのに。せっかく少しは好きになれるところがあるかもと思っていたのに。そう、ミツキはギターのネックを力任せに握りしめる。
(俺は絶対に熊本へ戻る。今夜何があろうと、この街を出る)
ケースにギターを戻し、何もかもバッグへ仕舞った。唄える訳がない。こんな気持ちで唄えるはずがなかった。歌ばかりじゃない。もう誰とも一言も口を開きたくない。
なのに、ふと声が落ちる。
「ミツキさん……」
彼は返事をするのも面倒だった。目を上げたそこに制服姿の家出娘がいようとも。
「誰に用事なん」
ミツキがかすれた声でこぼすと、
「コウちゃん、見ませんでしたか」
「あいつならさっきからずっとあんたのこと探しよるよ」
「そうですか……。ミツキさん、何か話し方違いますね」
そこに軽く笑いのニュアンスが混じったことが気に入らず、
「ワシのお、いつものミツキさんと違うけえ。色々あってのお、メチャクチャ腹立っとんよ」
そう言うと、また彼女は黙った。
ミツキには何もかも分からなかった。家を飛び出して人を翻弄して、その挙句、親の店から目と鼻の先でふらついている少女が、その思惑が分からなかった。飛び出したところでどこへも行けない身の上なら、最初から大人しくしておけばいいのだ。
そのうち何も話さなくなった彼女へ、
「あんた、親を困らせたいだけなんよ」
舌打ち混じりで言った。
「違います。私、コウちゃんの手伝いしたくて、それで」
「それで付いて行く言うんか。鹿児島離れてまで」
「コウちゃんがそう言うなら」
「あいつがそう言うたらワシがぶちのめすわ。あんた、あいつがやっとることの意味、何も分かっとらんじゃろ? あいつは詐欺師なんで? ワシも同じなんよ。その詐欺師に付いて行くならあんたも詐欺師じゃないといけんのんで? あんた出来るんか。心の隅っこの隅っこまで何も痛まず、他人を騙せるんか。あいつが稼げん言うたらあんた身体売ってでも金を作らにゃいけんのよ。それが出来るんか」
しばし暴言に耐えていた様子のルイがミツキを見据える。そこに何らかの覚悟はありそうだが、三十メートルのバンジーから飛び降りる程度の覚悟にしか見えなかった。
「出来ます。そのくらい私、出来ます」
「なら、それを親とコウタ君の前で言えばいい。何も飛び出すことなかろうに」
若い女の涙は嫌なものだ。自分を守るためにしか流れない、この世でいちばん醜い涙だ。
それから落ち着いたのか、涙の効力が彼に届かなかったからか、
「今から言ってきます。それだったらいいんでしょ」
今度は敵対心に満ちた顔で言う。
「じゃあ、俺も行くわ」
「ミツキさんに関係ないじゃないですか」
しっかりと巻き込んでおいてこの台詞だ。
ミツキは苦笑いを隠し、
「ワシも呼ばれとるんよ」
そう言うと荷物を担いだ。
*
スナックサガンは、黒の木目に吸い込まれそうなカウンターだけの小さな店だった。コウタも戻っていたようで、飲んでいるのは水割りだろう。確か未成年だったが、ゲストのミツキがそこまでとやかく言う必要もない。言うつもりもない。
「ご迷惑ばおかけしました。ホラ、あんたも謝んなさい」
ルイはそこが専用席なのか、カウンター内のカラオケ前に椅子を出しては不服そうに座っている。
チリチリのパーマに紫のメッシュが関西っぽいママは、佐賀の生まれらしい。
「ミツキさんは何ば飲まれますか。今日のお仕事は終わったとでしょ」
ミツキはコウタの荷物の横へギターを置き、
「えっと、ウイスキーのロックでいいですか」
すると、
「さすがミュージシャンたいね。ウチも地元ではライブバーをやっとってねえ。皆さん、ロックばっかりやったよ」
そう言いつつグラスをカウンターへ乗せるママの手は農作業でもしているような、どこか懐かしい指先だった。
「皺クチャやろう? 家の裏で畑ば作っとるけんね。コウちゃんにも手伝うてもろうたとよ」
ママの言葉に、コウタが頭を掻いた。ルイが戻ったことに一安心したのか、さっきの不安顔が消え去っている。
ミツキは頂いたグラスをコウタと合わせると、氷を鳴らしてウイスキーを啜った。久しぶりのロックは色々な意味で腹に染みわたる味だった。
「ミツキさんはいつまでおらすとですか」
その台詞にはコウタも反応する。
「そうですよ。いつまでいるんですか。俺、こうして一緒に酒が飲める路上の友達とかいなかったんで感激してるんですけど」
しかしミツキは、
「実は今夜で最後って決めたんだ」
「え、どうしてですか? 意外と稼いでたんじゃないですか」
「それは色々と言い訳はあってさ。俺、なるべく野宿したくないんだ。荷物も少なくしたいし。出来れば毎晩ネットカフェかサウナで過ごしたくて」
鹿児島はそういうとこの少なかよねえ、というママに頷き、
「それにこう言っちゃお終いなんですけど、鹿児島とは相性が悪い気がするんです。もちろん今唄っている場所をメイン通りの文化通りにすればそれも変わるかも知れません。でも俺、最初の出会いを信じたいんです。結局、鹿児島で五日間をお世話になった橘さんっていうスナックの前が俺の持ち場で、腐ってもそれは変わらない気がするんです。次に来る時もここだっていう」
ママはカウンターの中でウーロン茶と思しきホットグラスを手に、ルイちゃんへ諭すように言う。
「聞いたね、ルイ。旅人さんていうとは行きもするけど帰りもするとばい。あんたが出来ることは次にコウちゃんが来た時に今より立派になっとることやろう」
するとルイちゃんはカウンターへ背を向けたまま、
「別に……立派にならんでいいし」
またそう言ったきり黙ってしまった。
「俺はショックです。せっかく仲間になれたのに」
肩を落とすコウタに、
「旅人ってそんなもんだよ。それに離れたからって友達じゃなくなる訳でもなし」
「でもミツキさんケータイ持ってないからなあ」
「大丈夫。ホームレスでもホームページはある。それが自慢だからな」
それから、ママとミツキの二人で話は進んでいった。
「じゃあ、佐賀の人だからサガンって訳じゃないんですね」
「別れた亭主がサガンの小説好きでねえ。最初はベルナール、とかベアトリスとか悩んだとけど、サガンに落ち着いたねえ。まあ、その頃には亭主と別れとったけどね。サガンの名前も、この子が付けたとたい。この子はえらい亭主びいきで」
と言いつつ、ママは椅子の上のルイちゃんへ語りかける。いい加減に押し黙っているのもつらくなったのか、
「別に好きじゃなかもん」
と漏らす彼女は特に不機嫌な様子でもない。それを見ながら、若い子の涙はつくづく信用出来ないと思うのだった。
「ミツキさんは明日にはすぐ出られるとですか?」
ママがお代わりのウイスキーを作りながら訊ねてきた。当てはないので始発で動いてもいい。が、明日は土曜で熊本名物市役所の椅子も使えないのだった。
「なんとなく、です。気が向いたら出るくらいで」
「さすが、旅人たいねえ」
新しいオンザロックを飲んでいると、
「ミツキさんくらいになると大丈夫なんでしょうけど、私ゃ、コウちゃんが心配でねえ」
心配されたコウタは急に話が振られて当惑している。そんな彼を横目に、
「子供が親の愛情を知らずに過ごすってことは、そりゃあ悲しかことですよ。私ゃ、この詩を見た時に泣けてきてねえ」
ママが見上げる先には、コウタの物と思しき色紙が貼ってある。
――親はなくても子は育つ でもあった方がいい
今さらながらコウタの奇才ぶりを見せつけられた思いで、ミツキはロックグラスを傾けた。
酒に強いのか弱いのか、コウタがうつらうつらし始めた頃。
「実はミツキさんにお願いがあるとですよ。この子のために唄って欲しかとさ。尾崎豊の『シェリー』ばさ。あれはこの子の歌ですばい」
思いがけぬリクエストだったものの応えない訳にもいかず、ミツキはギターを取り出した。尾崎の歌ならばほとんど譜面を見ずに唄える。
「コウちゃん。あんたのために唄うてくださるとよ。キリッとして聴きなさい」
ママの言葉で目の覚めたようなコウタだったが、ギターを握るミツキを見て更に真顔になった。
ギターのチューニングはそのまま、尾崎のキーを一つ下げ、もう何度と唄い慣れたギターをミツキは奏で始める。
ピアノ曲をギターで弾くのは苦手でもない。コードを分解しながら主旋律を乗せていけばいい。
路上では低過ぎてボリュームの出ない唄い出しも、小さな店では充分だった。
ママは早速といった感じでティッシュを握り、涙を押さえている、
そんな時ミツキは、歌の不可思議さに触れる気がする。本人の歌でなくても名曲というのは人を感動させる力があるのだろうか。その理由はメロディーの良さなのか、ボーカルの上手さなのだろうか、それとも別の意味があるのだろうかと。
一番のサビが終わるとママが小さく拍手をしながら涙を流していた。その涙はコウタにも伝染し、驚いたことにミツキ自身が頬に涙を感じていた。自分の歌で泣くなど論外だと思っていたが、空気感というのは時に人を操るのかも知れない。
それでも途切れることなく唄い切ったミツキへ、ママが大きな拍手を送る。それからカウンターに突っ伏しているコウタの肩を抱き、
「あんたはもっと、強うならんといけんね。もっともっと強うなってそれからまた思い出したら帰ってきなさい」
はい、はい、と何度も頷くコウタは、その度にむせび泣きが大きくなっていった。
「私も昔は色々やらかして今のあるけん、ルイの気持ちが分からんでもなかと。この子がコウちゃんに惚れたて言うとなら、そりゃあそれで良かとばい」
「はい……」
コウタは洟を啜りあげて何度も頷く。
「でも、それも目に見えるとこまでの話さ。コウちゃんにルイば連れて行かれたら、私が困るとよ」
その言葉に、ルイは少しだけ視線を上げ、椅子の上で立てた両膝を強く抱いた。
「ミツキさんもコウちゃんも、旅人は皆、自分の幸せなんて二の次さ。行った先々で誰かのことを幸せにするためにあんたたちは頑張らんばいけんとよ。ウチのルイがいくらコウちゃんに付いて行きたかって言うてもさ、今のあんたには預けられんもん。もっともっと人間ば磨いて大きゅうなってから戻ってきんしゃい。そん時ゃルイも大きゅうなって、よその男ばつかまえとるかも知れんけど、それでもよかったい。そん時こそあんたは一人前の良か男になっとるとやけん。女なんかいくらでも寄って来るさ」
またしても、はい、はい、とだけ涙声で答えるコウタは、遠回しにルイの彼氏候補を外された訳だが、カウンターの中で膝を抱える彼女だけにはそれが伝わっていなかっただろう。十代の耳はいつも信じたいものだけ信じるものだから。そしてそれだけが十代の強みなのかも知れない。




