20・公衆電話
20・公衆電話
昼の売り上げで、サウナへ後一歩に近付いた。暇に任せて電話帳で調べたが、ネットカフェは近辺にない。
雨の上がりかけた午後四時半、旅人の特権のように、アーケードの端で柱にもたれて座っていた。雨の日はとことん気分が滅入る。
牛丼屋で別れたコウタは、
――「お母さんの店に行ってみます」
と、無駄なことを口走っていた。こういう時は黙って自分の場所で待っていれば向こうからやって来るのだ。が、当事者でないミツキがそんなことを考えている間にも気が気でない人々がいる訳で、それは誰に告げることでもなかった。
つくづくこの街とは相性が悪い。そう、ミツキはついに断言することにした。彼にとって、街の自由人と交流を深めた土地は日本に多かったが、上手く稼げもしないのにトラブルばかりを運んでくる街はそうそうなかった。
煙草を切らしたミツキはストックに置いていた最後のひと箱の封を切り、雨が止む魔法であるかのように煙を空へと一吹きした。今夜こそ、鹿児島初の週末に賭けたかった。
魔法は効いたか効かずか雨の上がり始めた空に誘われ、天文館通りの向かいにカフェでもと探していたところドーナツ屋があったので入ってみた。時刻は午後五時。九時までの時間を潰すのは難しいが、増え過ぎていた譜面の整理もあったのでテーブルが欲しかったのだ。
お代わり自由のアメリカンコーヒーと食べたくもないオールドファッションを注文すると、窓際奥の喫煙席へ向かった。でかい荷物をあちこちへぶつけては頭を下げるのもミツキの中では日常風景だ。
そこに、
「さっき唄ってらした方?」
不意に話しかけてきたのは、ミツキと入れ違いで席を立った高齢の女性だった。
「はい……僕だと思います」
こんな時間、他に路上ミュージシャンなどいるものかと思って返した言葉だったが、
「素敵だったわあ。近くに行きそびれちゃってごめんなさいね」
と経緯を丁寧に話した後、
「コーヒーでも飲んでちょうだい」
と財布から千円札を出した。
「いえ、いいんですよそんな」
さすがに路上を離れてからでは忍びなく、一度は断ったミツキだったが、女性がぜひにと言うので畏まりながら受け取った。
そういうこともある。
頂けるものはありがたく受け取り、さっそく譜面整理に移ったミツキだが、不要の譜面の多さに今更ながら舌を巻いた。とあるファイルは最近仕入れたネタばかりを入れていたつもりが、三年経って見てみると、歌詞もコードも頭に入っており不要のものばかりだった。それを見なければ唄えなかった頃の懐かしさが手伝って捨てるタイミングを逃し続けていたが、今こそ捨て去る時なのだろう。
(この歌も……もういいか)
それはもう何年も前に皮切りの役目を終えて久しい、初めて歌ったあの歌だ。ギターコードも節回しも指に喉に染みついており、これこそ彼の生涯で譜面いらずの曲だった。雨の染みや折り目の付いて黄ばんだ譜面は、彼の情緒性に影響はすれど、不要な一葉だった。
(いつか、これを捨てた今日のこの日のことすら、思い出にはなる……)
結局譜面の中の四分の一を捨てるはめになったが、これで移動の負担も少なくなったと思えばいいタイミングだった。緋堂のポストカードは、電話番号を書き出したメモを財布へ入れた後、再び赤いファイルへ戻しておいた。
紙は思いの外重い、そうしみじみ思いながら、コウタにそういう詩を書いて貰おうかと思った。座右の銘にしては馬鹿馬鹿しくていいと。
譜面整理が終わり、優に一時間は過ぎたと思ったものの、時計の針はまだ六時を指さない。
暮れてゆく曇天模様の街をガラス越しに見ていると、見たことあるようなないような後ろ姿が信号を待っている。
(ルイちゃん……だよな)
飛び出して後を追えば間に合うが、そもそも自分が関わっていい話なのか迷っているうちにその姿はアーケードへ消えた。その方向ならばコウタもいるし大丈夫だろうと、動き出せなかった自分の言い訳にした。
お代わりのコーヒーを三杯飲むと、いい加減コーヒーも煙草も身体が受け付けなくなってきた。なのに潮時か、と眺めた時計は七時半にもなっておらず、コーヒーで重くなった胃をさすりながらミツキは外へ出た。本出勤までまたゲーセン前で流そう。
ゲームセンターへ出向いたものの、コウタの姿はない。一気に気が抜けたが、ここで九時までを潰すのはもう頭に組まれた予定だ。コウタがいないからといって唄えない訳ではなく、一人を噛みしめながら唄えばいいのである。元々、そういう歌唄いなのだ。
それでもやる気の出ない彼は、いつもと準備を逆にしてみた。譜面立てを立て、譜面を置き、ハーモニカを出し、それぞれ一吹き鳴らしてみて、最後にギターを出した。もちろんそれに意味がある訳もなく、出来上がってみればいつもの光景だった。
ミツキは思い立ってハープホルダーを首から下げる。そしてDのハープを吹くと、Aのスリーコードを弾き鳴らした。いつか広島でブルーズオヤジに教えてもらったコード進行だ。
それはミツキにとって生まれ初めての即興だった。何を唄いたい訳でもなく、ただ、淀んだ頭に言葉が落ちた。
――俺にはいつも訳がない 俺にはいつも訳がない
そればかりをがなっていると、朝から続く悪寒も治まったように思える。ブルーズは貧乏に効かないが、風邪に効くことが分かった。
なのにだ。今から本番だという時にだ。
「あの、今晩は」
黒服のチンピラがやってきた。しかも三人連れ立ってだ。
「何の用だよ。俺はもうお前に用事がないんだ。いや、最初からあった試しがない」
「いや、今日はそういうのじゃなくて、仲間に歌を聴かしたいなあって」
リョウの後ろにはとてもそうと思えない黒服二人が髪をテカテカに光らせて立っている。
「いいよ。俺はお前に唄う歌なんてねえんだから」
すると、
「おい、先に行ってんぞ」
つまらなそうな目で、汚物でも見るような目で、男二人は先に行ってしまった。
「おい、お前も帰れよ」
そう言った時だ。リョウが素早くそばへ近寄る。
「あの、相談があるんですけど」
「嫌なんよ。どうせ金の話でもするんじゃろ」
お前の相談など死んでも乗りたくないとミツキは耳を塞ぐ。が、驚いたことに、リョウはこう言ってのけた。
「ええ、そうなんですけど。今日のバイト代で返すんで、その、千円だけ」
「ふざけんな! 誰が貸すか! お前、自分の信頼度分かっとんか? 世間の誰もお前に金なんか貸さんで。つまらんこと言うとらんで早よう帰れ」
「……すみません」
せっかく本調子に乗ってきたところへあやがついて、ミツキはギターを投げ出した。そして今夜の稼ぎがいくらであろうと鹿児島を抜けることに決めた。熊本までとは言わない。鹿児島を移動出来るだけでよかった。
*
ゲーセン前を八時に閉めると、天文館公園の公衆電話から緋堂の番号へ電話をかけた。何を話したい訳でなく、ただ声が聞きたかった。
しかし、思い立って行動に移したことがすべて裏目に出ているこの頃、彼女への電話は当たり前のように留守電になった。期待が大きいほど裏切られたショックも大きい。
「今、鹿児島なんだ。またかける」
それだけメッセージに残して公衆電話を出た。空はすっかり真っ暗だ。
ベンチの濡れた公園で煙草を吹かすと、自分の選択すべてが失敗しているような気にもなる。正直なところ、コウタへ苦言めいた話の出来る立場ではなかった。それは自分が相手より先に痛い目を経験していただけのことだった。
ポケットの小銭を鳴らしてみては、もう一度電話をしようか迷っていた。最初は声が聞ければ何でも、と思っていた気持ちが、時計の秒針並みのスピードで移ろってゆく。
(俺は緋堂に縋りたいだけだ。行き詰まっているこの鹿児島の話を持ち出して、慰めて欲しいだけなのだ)
それだけの打ち明け話に電話代をかけるなら直接会いに行った方がいい。堂々巡りの最後にそう結んで、ミツキの目は夜の街を睨んだ。最後の最後の晩だ。飛び道具でも何でも使ってやろう。そういう意味では、さっきドーナツ屋でチップを貰ったのも行きがかり上とはいえ運が向いている証拠だった。所持金はこれで三千五百円。今日決めたノルマまで二千円だった。
珍しい八時台の通りへ出たのは、スナック橘の入店状況が気になったからだ。客は多過ぎず少な過ぎずがいい。ドアの間から見えた客席はカウンターにボックスが二つだった気もする。恐らくは十人入れば満員御礼の店だった。
譜面には昭和歌謡メインのファイルも用意した。後は運を天に任すのみだ。
出だしはいつもの文化通りらしく、早い店は送迎の車を呼んで繁盛していた。ミツキの陣取るスナック橘前はその喧騒から離れ、ひっそりと静かな夜が過ぎている。たまに聞こえるカラオケの声は背にしたビルの二階のものだった。
タイミングは一度きり。
客がひと段落つく一時間後だ。
それだけを考えてミツキは唄い流していた。
まず最初の客が二人、スナック橘へと入ってゆく。店内からはカラオケも聞こえず、静かだ。
そこへ、先程の客から十五分後、今度は三人の客が橘へ入る。時計の針は八時五十分。そこからミツキは冷静にレパートリーを唄いながら機を伺った。考えていた行動に移るには、今から四十分後にドアを叩くのがベストだと踏んだ。その間に路上の方でもチップが入れば万々歳だ。
しかし思うようには事は運ばず、路上を過ぎゆく人々は彼に冷たかった。皆、興味を持って覗くのはケースの中身だけ、いくら稼いでいるのかをチェックする人間ばかりだ。
残り四十分へのカウントダウンは続いている。
百円でも入ってくれとミツキが唄うのは、熊本で何度も唄った雨の歌だ。雨の日に出会う女を待ち侘びて天気予報ばかり気にしている男の歌だ。それはまるで今の彼の心情のようでもあった。路上ではいつでも何かを待っている。それはいつも期待外れに終わるのだが、それでも彼は路上で待ち続ける。
宅配のピザ屋がバイクで目の前を通り過ぎると、時間になった。今のところ収入はなしだ。ケースを閉じ、荷物を庇の奥へ寄せ、これからの演奏に必要なギターと譜面と譜面台だけを手にする。後の荷物はリュックと一緒に路上へ置き去りだが、これで盗難に遭ったことはない。まさか空のギターケースが盗まれるはずもなかった。
さあ、と気合を入れ直したミツキは、しかしギターを握る手が震えていた。立ち上がった両脚もふらついたように覚束ない。
(何をやってんだ俺は。しっかりしろよ)
自分自身に檄を飛ばし、そしてスナック橘へ向かうと重いドアを開けた。
「いらっしゃいませー」
奥から聞こえるスタッフの声に頭を下げると、一瞬白けた雰囲気がその場を包んだ。が、怯むわけにはいかず、ミツキは入り口前へ立っている。すると、
「あら珍っし。こっち来っ」
ママが声をかけに表まで出てくれた。この機を逃してはいけないと、ミツキは夕方から練習していた文句を口にする。
「実は今夜で鹿児島の最後になるんですよ。お世話になったお礼に、よかったら一曲歌わせてもらっていいですか。もちろん、お客さんが嫌がられるようでしたら出直します」
ミツキの心音はすでに上がりつつある。こういった店で唄うことは少なくなかったが、大抵は誰かに連れて行ってもらった店である。こうして自分からドアを叩くとなると数える程の機会だった。追い風か向かい風か、それはいつも紙一重だ。
「あらあ、ホント? いいよいいよ、奥入って」
どうやら風は背中から吹いている。
ミツキが頭を下げながら店内に入ると、手前のボックス席の三人組から、
「おう、ギタリストか」
「兄ちゃん、何が出来っね」
と声をかけられた。幸い、カラオケも入っておらず、ママに勧められるままミツキはカウンターへ座った。そして、
(これで大丈夫だ。間違いなく移動費にはなる)
高鳴る胸もそのままに、まずはビールを貰った。カラカラだった喉にビールはあっという間に吸い込まれ、ようやくいつもの調子が戻りつつあった。




