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西高東低‐南高北低  作者: 水銀塔
第一部・ささやかな渋滞
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2・路上唄い

          2・路上唄い


 ミツキユウスケがギターを手に唄い始めたのは、彼が二十歳を超えて少し、二十二歳のことだ。


 通っていた調理師専門学校が回してきた就職先を蹴り、気が付けば数年間をアルバイトで潰していた彼は、その日もバイトの送別会帰りで、酔い覚ましに広島の繁華街を歩いていた。そこへ、酔っ払いの集団が路上で盛り上がっているのを見つけた。


 いい歳をして何をやっているのか、という蔑みより好奇心の方が先立った彼は、遠目にその集団を観察した。するとどうやら人の輪の中心にはギターを弾き語っている男がいた。それも一人ではなく三人だ。

 彼らは綿密な打ち合わせでもしていたかのようにギターのパートを交代し、ボーカルをハモり、ハーモニカを吹き鳴らし、それは大道芸と呼ぶに相応しい演奏を聴かせた。それだけにミツキは、彼らが路上で演奏していることを心で揶揄した。どうせ他じゃ通用しないのだろう、所詮は二流なのだろうと。


 勢いに気圧されて次の曲まで聴き入ってしまったミツキは、酔っ払いの集団が退けてしまうと一人で残された。そして、


 ――「お兄ちゃんも何か聞いてく?」


 愛想のよい笑顔で声をかけてきた男に何も返せず、小さく頭を下げると帰途に就いた。帰り際に覗いた彼らのギターケースには恐らく何万円という紙幣と小銭がばら撒かれており、その衝撃だけが夜の睡眠を奪った。


 翌日からのミツキは昨日の光景が頭から離れず、バイト中もそのことばかり考えていた。そのこと、というのはギターのことだ。彼らと同じアコースティックギターを持ち、思うままに演奏する。気が付けばそんな空想に浮かされた。要領のいい彼なので、それでバイト中にミスをするということはなかったが、何をやっても身が入らず、驚くことに彼は一週間後バイトを辞めた。


 何も考えがないのは今も同じだったが、若い分、彼の行動は速やかだった。翌月に少ないバイト代が入ると、それを全額下ろし、楽器屋へ向かった。店員に言われるまま買った初心者用のギターは、五年後の今も使っているものだ。価格にして三万八千円、それがミツキのギターの値段だ。それが一か月で元を取れるなどとは、まさか彼自身も思ってみなかったことだろう。


 ギターを買ったミツキは夜を待ち、例の三人組の所へ出向いた。男らは黒いギターケースを右手に歩み寄る彼を憮然と眺めたが、


 ――「ギターを、教えてくれませんか」


 弱々しく投げかけた彼を笑うでもなく、ただ、


 ――「練習してから来てや。即戦力やないと使えんけえ」


 リーダー風の男がそう答え、後の二人も追随するように頷いていた。


 ミツキにしてみれば一生に一度の勇気を振り絞った願いだったが、体よく断られただけになった。彼は人前に出ると恐ろしいほど声が縮み上がり、バイト先でもホールの仕事は手伝えずにいた。なのにそんな彼の決死の覚悟は、いとも容易く押し返されてしまったのだ。


 彼はすごすごと家へ帰り、ギターは明日にでも楽器屋へ返品しようと考えた。が、彼にとっての一生に一度の覚悟は、この時を選んで発現した。ベッドの上へ大の字になった彼は、ギターを楽器屋へ返す代わりに、初心者用の教則本を買うことを決めたのだ。


 元々、熱しやすく冷めやすい性質の彼は、だからこそか一週間でギターの基礎を覚えた。痺れかかっている赤く潰れたような指先に、痛みも構わず力ずくでコードを教え込んだ。Cから始まる基礎コードを、Aマイナー、Dマイナー、Gセブンと押さえられるようになると、今度はそれをGの回転コードに置き換えて練習した。FやBセブンが押さえられるようになる頃には左手も真っ赤になり、しかし教則本と一緒に買ったフォークソング全集から優に三十曲は演奏出来るようになっていた。


 ――「練習して来ました」


 声をかけてから二週間後の夜。


 今度こそほくそ笑んだ男は、


 ――「なら弾いてみんさい」


 と、立てたギターケースに跨り、腕を組んでみせた。他の二人も黙って行方を見守った。ミツキの胸はそれだけで高鳴り、何らかの最終面接に挑んでいる心持ちになった。しかしそれは極度の緊張感しか生まず、唇はプールから上がったようにワナワナと震え、ギターをケースから出す手もそれに倣い、その震えは全身に回った。


 さすがにミツキの異変に気付いた男が、


 ――「大丈夫なん? ガタガタやん」


 と笑いを噛み潰したが、ミツキは、大丈夫です、と言い切り、ギターを鳴らし始めた。椅子も何もない文字通りの路上にその時初めて座った。


 自宅での練習ばかりだったせいで最初はどの程度のボリュームで弾いてよいか分からなかったが、すぐに考えるのをやめた。力任せに弾くしかない、それしか出来なかった。唄い始めの声は恐ろしく小さかったが、ワンコーラス目のサビに入るとギターのボリュームに追いついた。そして、そのままミツキの演奏は終わった。エンディングも何もかも滅茶苦茶で、初めての演奏は力尽きたように終わった。


 果たしてミツキの演奏は路上の面接に通過した。


 ――「二週間でそれだけやりゃあ充分よ」


 リーダー格の男は阿保という名前を告げ、後の二人は藤村、奥安、と名乗った。


 ――「ミツキです。ミツキユウスケです」


 ようやくで彼も名乗ると、


 ――「緊張し過ぎなんよ。唄う他は楽にしてええんよ」


 阿保は人の好い笑顔を見せて、何度も頷いた。


 それがミツキユウスケの始まりだった。そう名乗り、人前で唄うことの始まりだった。


          *


 久しぶりに唄いながら記憶を辿っていた。広島時代のことだ。


 過去の清算などと大それたことは考え付かない。ただ、自分の中途半端な振る舞いが、傷を負わずに済んだかもしれない人々を傷付けた。その後悔は今もある。


 ミツキはその追憶を締め括るように今しがたもらった小銭の目算を終えて、瓶ビールを煽った。瓶ビールはいつものように目の前のうなぎ屋から女将が差し入れてくれていた。演奏中に飲む酒は一応自分で準備しているのだが、頂けるものは頂いておきたい。何より、大声でギターをかき鳴らしては迷惑をかけているかも知れない立場だ。好意はありがたく受けておくのが筋だろう。


 そう考えている間にも、通りを右に見た赤ちょうちんのオヤジが、赤ら顔で手を上げては挨拶してくる。ミツキは開けたばかりの紙パックの日本酒を片手に、調子のいい笑顔を返す。赤ちょうちんのマスターは、ミツキと同じく仕事中の晩酌が好きなようだ。


 それにしても、と、彼はこのクラブ通りを不思議に思う。目の前のうなぎ屋も、赤ちょうちんの店主も、そして背にしたビルのクラブのママにしても、超が付くほど彼に優しかった。下手をすれば『営業妨害』と追い立てられることもある飲み屋街を唄い歩いたミツキには、ここが楽園であるような気持ちさえする。


(いや、まだ二週間……そうと決めてかかるには早い)


 実際問題、そうだった。好待遇な路上シーンで悦に浸る暇があるなら、百円でも多く稼ぎ、そのためには一曲でも唄うべきだ。


 思い立ったミツキは、いつもそうするように使い古した譜面を適当にめくると、右端の曲にギターのキーを合わせた。それは期せずして思い出深い選曲となり、彼の心臓を真綿で締め付ける。広島の路上で、あの道で初めて唄った曲だった。


 偶然とはいえ、気が付けばしっかり折り目のついたそのページへ向けて、ミツキはあらん限りの声で唄った。広島へ置き去りにした、とめどない想いの全てを眠らせるように声を張った。


 時計の針が零時を回った辺りで、集客は十人ほどだった。そのほとんどが少なからずチップを落としていったので、上りは三千八百円と少しだ。


 この街はいつもそうだ。人々は九州人らしい明るさでミツキに接し、生活に事足りるギリギリの稼ぎを落とし、そして去ってゆく。ミツキはそのことに恐れを抱いていた。熊本には、アップダウンの激しかった広島のような、それからジリ貧を味わわされた大阪のような、時には闘争本能を引きずり出してくれる逆境がなかった。逆境と引き換えに突如としてやってくる狂乱の夜がなかった。


(今ここで無一文の夜を迎えたら、自分はどうなるだろうか)


 そんな悪い予感を撥ね退けるように、ミツキはまたギターを握る。今夜を閉めるにはまだ早い。


 だが、降り出したのは生憎の雨である。ここしばらく夜には姿を見せなかった雨雲が、ついに訪れたのだ。途端、頭の中ではケースを閉めることを考えてしまい、今夜こそ例の場所で夜を明かさないといけないのかと覚悟を決めた。


 例の場所。


 それはミツキが陣取るゴールドビルのすぐそば、赤ちょうちんの目の前にある古い雑居ビルだ。年々少なくなってゆくテナントにオーナーの入れ替わりも激しいらしく、フロアによっては無人の館になっているそうだ。彼はそこで夜を明かそうかと思っている。見つからなければもちろん無料だが、何かのはずみで見つかってしまえばそれでアウトだ。


 しかし彼は、


(見つかったところで、職質と強制退去だろう)


 そう高をくくり、午前一時と決めた残り時間までをビルの軒先まで下がり、惰性で演奏を続けた。そういう時のお決まりで、その後、酔いの回った足で通り過ぎる通行人たちは彼の扉を叩かなかった。


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