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西高東低‐南高北低  作者: 水銀塔
第一部・ささやかな渋滞
17/33

17・撤退

          17・撤退



 公園で午後一杯を潰していると、五時ぐらいに寒気がした。昼間の陽気で調子に乗ってベンチへ寝転んでいたら、日の傾く頃に大きなクシャミで目が覚めた。かけていたはずのブランケットも、いつの間にか下へ落ちている。いつだかネットカフェで拝借した備品は、それでも犯罪行為の痕跡だ。


(なんだかんだで俺も同じ穴だ。コウタ君だけを責めきれるもんじゃない)


 それにしても急に肌寒くなった。少し早いかと思ったが、ミツキは吉牛へ向かうことにする。電停を挟んで向かいに行けばカフェのひとつもあったろうが、今はそれを探すのも面倒だった。


 六時過ぎの吉牛には先客として、スーツの男と若い二人組がいた。いつものように並と味噌汁を頼み、食べている間もグスグスと鼻水が止まらなかった。これは、と悪い予感がしたが、考えないことにした。風邪などこの二年間引いたことがなかったのだから。


 限界と思われる二時間を吉牛で過ごし、少し治まった鼻水に安堵し、唄うにはまだ早い天文館へ出る。


 ゲーセンの前にはコウタがいるのも見えたが、なぜか遠目に迂回して文化通りへ向かった。あの明るい笑顔に今は会いたくなく、寄り添うようにくっついている少女にも会いたくなかった。


 せっかく晴れたことだし他を当たってみようかと代替地を探したが、この街いちばんの交差点には若い客引き連中ばかりがこぞっており、それを見ただけでやる気が失せた。客引きが何か苦情の類を言ってくることは稀だったが、ミツキが客引きを苦手なだけだった。


 そんな訳で結局スナック橘の前へ辿り着いた。時刻は午後八時二十分。気乗りがしないと言い訳している場合でもなく、ミツキは営業準備に取りかかる。弦も張り立てのギター、ステージドリンクに決めている鬼ころし二合、それから譜面台。そこへ、


「お、頑張れよ」


 と、通りすがりのオヤジ連中から声がかかり、ミツキは後一分準備が早ければと後悔した。


(いや、それでも今夜は天気もいい。しかも水曜日とはいえ二十五日なのだ)


 他人の懐事情を気にしなければいけない野暮な商売だったが、ミツキはそれを割り切って唄う。とにかく何か一つでも気を楽にする材料を見つけ、気持ちを繋ぐ。ふさいだ心の中を悟られぬように明るく唄い続ける。


 が、二曲目を終えた時に喉に異変を感じた。気にするまいとパック酒でうがいをして飲み込むが、違和感は消えない。


 それを騙し騙ししながら三曲目を唄い出すものの、声の張りは明らかに本調子ではない。張り替えたギターの弦も裏目に出てしまっている。そのうち治まっていた悪寒もぶり返してきたミツキは、


(無理せず上がるか……)


 一分おきにそう考え始めるようになった。弦を押さえる左手は震え、右手ももう何度もピックを取り落している。


 旅の途中で体調を壊したことはあったが、今回のそれは静岡でインフルエンザの症状が出た時以来だ。その時は真冬の地下道でうずくまっている彼を心配したホームレスに薬をもらい、寝床を紹介してもらってなんとか回復したが、今回は自力で治すしかない。


(今無理して週末を逃すことだけは避けたい)


 一瞬、手持ちと相談した挙句、ミツキは戦略的撤退を選んだ。



 荷物をまとめてサウナに入る頃には、震えは全身に回っていた。


 ギターを預け、


「すみませんが、風邪薬とか置いてないですかね」


 そう訊ねると、いつもと違う従業員が事務的に答えた。


「ありませんねえ」


「いや、いいんです。どうも」


 ロッカーからサウナ室へ直行した彼は、とにかく汗を流すことにする。


(こういうのは気力だ。汗を流せば何とかなる)


 普段はそういった体育会的思考が嫌いな彼も、今日ばかりはそれに祈った。手持は残り五千円弱。木曜を最悪の形で終えると仮定して、金曜に繋ぐ宿代はある。


(今はとにかくこの症状が治まればいい)


 熊本と違い四、五人の客で賑わうサウナ室は、下段の真ん中だけが空いている具合だ。ミツキは迷わずそこへ座り、大きく息を吸った。途端に熱気が肺の奥まで流れ込み、大きな咳が出る。喉の奥で痰が絡んだような、嫌な咳だった。


 その後も空咳が続いたためタオルで口を塞いでいたが、それを嫌がったのか左の男が立ち上がってドアの向こうへ消えた。


 昔は、サウナなどガラの悪い連中の吹き溜まりだと思っていた頃もある。身体中に入れ墨が入り、酒に酔い、喧嘩っ早そうな連中ばかりが集まるものだと思っていた。だが実際に自分が入ってみると誰もが普通の職業人のようで、そう言った意味では熊本の方がバラエティには富んでいたかも知れない。


 壁の時計はミツキが入ってから十分が経った。いつものペースで入っているとのぼせそうなことに気が付き、彼はゆっくりと身体を起こした。が、すでに身体はいうことを聞かなくなっていたようで、よろめきながらドアに体当たりした。


「兄ちゃん、大丈夫か」


 右手に座っていた男が心配してくれたが、


「すみません。大丈夫です」


 ミツキはそう言い残して外へ出た。そのまま水風呂に浸かると頭の芯まで覚醒する気がして、この分なら明日はいけそうだと思った。



 翌日は最悪のコンディションで目が覚めた。午前十時を目前にしたピアノソナタが流れる中、重い頭痛を抱えたままフロントへ行き、連続利用料を支払った。


「三十分ぐらい掃除があるんで、浴室と仮眠室は使えないけど」


 それでもいいです、と言うしかなく、ミツキはその足で販売機に寄り、ミネラルウォーターを買った。一晩中砂漠を徘徊したような喉の渇きに、ペットボトルはあっという間で空になった。


 煙草を吸う気力もなく、ゲホゲホと咳き込みながら食堂の一角で時間を待った。これで所持金は二千円を切り、宿代もない。やるべきことは一つ、今夜こそ街へ出てフルタイム唄うだけだ。


 清掃時間が終わりサウナ室も開いた頃、一番風呂の特権でミツキはサウナ室の上段へ身体を横たえた。とにかく身体の毒素を熱に頼って追い出したかったのだ。デトックスなどという気の利いたものではなく、医学的根拠のない根性論だった。そこまでしないことにはこの悪病は追い出せないと、彼は壁の時計を虚ろな目で見つめながら針が半周するのを待った。


 昨夜のようにふらつく身体を浴室の出口へ運び、給水器の水を浴びるほど飲んだ。身体の毒素どころか煩悩のすべてが吐き出された気分で、ミツキは迷わず仮眠室へ向かう。解脱とはこういうことを言うのだろうかとぼやけた思考の片隅で小さく笑っているうちに、意識は朦朧と霞み始め、またいつかの後悔を連れてくるのだった。


          *


 ――「ウチだけじゃやっていけんのよ! 電気代もガス代もかかるし! ウチ恥ずかしゅうて、ミツキのこと友達にも言えんのんじゃけぇ!」


 一緒に暮らし始めて半年が過ぎようという初春の頃、彼女は突然、本当に突然叫び始めた。


 ちょうど夕方のニュースを見ていたミツキにはそれこそ不意打ちで、思わず煙草の灰を落としそうになった。


 ――「いや、俺も全然収めてない訳じゃないだろ。昨日は千円しかなかったけど、先週は日に二千円くらい入れてるし」


 ケイコの部屋へ同棲するようになって半年、ミツキは毎日の上りから家賃分として数千円を収めていた。


 阪急の駅付近にある住宅街は立地もよく、人通りは駅の利用者ばかりだったがミツキは数日で演奏スポットを見つけた。それは駅の東口にある銀行の角で、交差点の向かいはこじんまりとした繁華街だった。


 ――「ミツキは結局ウチのことなんかどうでもええんよ……」


 今度は泣き落としかと参りに参ったミツキは、せっかく焼けたグラタンがオーブンの中で冷めてゆくのを気にしながら、


 ――「俺、やっぱ出て行こうか?」


 恐らくいちばん口にしてはいけないセリフを口にした。ただし、それは彼にも分かっていたことだ。


 ――「そんなこと……誰も言うとらんやん!」


 そう言って表へ飛び出した彼女を追いかけることも出来ず、ミツキは暮れかかり始めた夕陽の差す部屋で一人煙草をもみ消した。


(どうしてこういう関係になったんだろう)


 大阪へ来て三か月で、気の合う同居人としての関係は終わっていた。昼間に学校へ行ったり夜にバイトへ向かったりする彼女の代わりに、彼は食事を作ることが多くなっていたのだ。調理師の学校を出ている彼はレパートリーも多く、当初彼女はそれを喜んでいた。いや、数時間前までも今夜のメニューに喜んでいたばかりだったのだが。


 それが大きく変わった大きな理由は、どこが区切りかも分からぬまま身体の関係になったことだろう。それに加えて三十分ほど前にかかってきた電話に何かあるということは、ミツキにも何となく分かった。わざわざ表へ出て話すほどのことが――それが何かはもちろん分からないが、生活の中で役割というものがはっきりすればするほどに、お互いはギクシャクとし始めていた。


 その暮らしに耐えることが出来なかった、というのであれば、それは彼女の言い分だろう。ミツキはあくまで居候の立場で、その日の気分で時間を選んでは唄いに行くだけの、広島時代と何ら変わらない生活だったのだから。


 冷静に考えれば、別の男の影が見え隠れしていたのは明らかだった。ひと月前から電話も隠れるようにしてかけるようになっていた。


 彼女はその狭間で揺れていたのだろうか。それに気付きながらもブレ幅をこちらへ向けようとしなかったミツキにも責任はある。いや、最大の原因は、今となってはこの場所に固執する必要がなくなっていた自身のことだ。初めて大都市へ出向いて演奏した路上で、彼は確かな自信を持ちつつあった。自分はよそでも通用する、と。


 とにかくその日を境に、明らかに彼女の夜遊びが派手になっていった。聞いているバイトの日は火、金、土で、それ以外の日にも朝帰りすることが多くなっていた。ミツキが駅の終電辺りで路上演奏を切り上げて部屋へ帰ると、部屋はもぬけの殻で人の気配はどこにもなかった。留守電の赤いランプが呼吸するように点滅し、それはさながら何かの警告灯のようだった。


 少し前までの、彼の帰宅を心待ちにしていた彼女はもういない。


 深夜に仲良く手を繋ぎ、ビデオ屋へ映画を借りに行った彼女はいない。


 ミツキはそれをつらいと思わなかった。静かな部屋に広がる寂しさは自分が作り上げたものだという実感もなかった。これが元の姿なのだとあきらめるだけだった。元々なかったものをここへ持ち込んだのは自分の方だと、彼は自分の至らなさを静かに悔いるだけだった。それは男女の別れを悔いる気持ちでなく、彼女を利用しただけに終わった半年へ意味を作らないための、痛手を背負わないための回想だった。


 そんなある週末。


 いつもの暗い部屋へ戻ると、ミツキは手の付けられていない食事にラップをかけ、自分一人分の洗い物を済ませ、少ない着替えをバッグへ詰めて、たった今床へ置いたばかりのギターケースを担ぎ、ドアを出るとポストへ合鍵を落とし、終電に乗った。置き手紙も何もない、ミツキの逃げるだけの旅が始まったのはその時からだ。


          *


 寝覚めの悪い夢は、久しぶりのことだった。何より喉が渇いていて、ロッカーまでよろけながら歩くと小銭を取り出して水を買った。それは相変わらず恐ろしい速さで喉へと吸収される。


 腕時計を取り出して時刻を見ると、午後の四時半だった。朝からまた六時間きっちり眠ったことになる。


 ロッカールームから食堂へ歩いてみたが、そこまでのふらつきはない。喉の調子は分からないが、あと五時間も休めば唄いには出られそうだった。


 そのまま食堂のメニューを見回してみるものの、当たり障りのないものばかりで食欲を刺激されない。二十時間以上何も食べていない計算になるが、それはミツキの旅の途上で珍しいことでもなかった。食べたい時は身体が求める。その欲求のままに食えばいい。それに今はメシを食っている場合ではない。手持は千六百円で、後はないのだ。


 復調したバロメーター代わりに煙草へ火を点けた。マズい訳ではないが美味くもない。ミツキはそれを半分ほど吹かして灰皿でもみ消した。今夜こそ三千円だ。


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