15・暗中模索
15・暗中模索
百円きりの上りはコウタへ渡し、夕方の五時にアーケードで別れた。吉牛で潰すにもまだ早いかと、ミツキは午前中見かけた公園へ足を延ばした。とは言っても、文化通りを真っ直ぐ突き切ったサウナの通りの横手だ。荷物の多いミツキでも五分とかからない。
まずは乾いたベンチに腰掛ける。
雨の上がった今夜ではあったが、今日の演奏場所も昨日の場所へと決めた。表通りが使えるならグンと幅が広がるのだが、旅人の勘として、あの位置をキープしていたかった。スナックと顔見知りになるというのは、それほど大きなパイプだったからだ。
熊本での稼ぎは、なんだかんだで残り九千円になっている。それは緋堂の用意したツインルームに差額として六千円を払った挙句のことだ。緋堂は、
――「いいよ。私からの餞別なんだから」
とは言ってくれたが、知り合って間もない相手にそこまでしてもらう義理はなかった。
(それはそうと、今日あたり三千円ぐらい欲しいとこだが)
そう心で祈り、午後九時が来るのを待っていた。
公園を七時で切り上げ、吉牛で一回きりの食事を取り、マンガで時間を潰し、午後九時を待つ。それは七時でも八時でもダメだった。酔客に当たるのに七時は早過ぎたし、まだ一件目の客が多い八時台もダメだ。飲み屋街での路上スタートは、どれだけ早くても九時なのだ。
表通りをそぞろ歩く集団の後ろを右へ曲がり、ミツキは昨日のスナック橘の前で荷物を下ろす。ギターをケースから出し、チューニングを終え、譜面台をセットする。
(さて。天気を思えば今夜が本番だな)
パック酒をストローで吸い、珍しく気合を入れた演奏は、しかし不振だった。人は通らないこともないのだが、誰もが先を急いでいる様子で視線も投げない。アーケードでは分かりにくかった弦の錆がここにきて気になり始め、明日は新しい弦に張り替えようかと思っていた。そこへ、
「どうも」
またしてもサングラスの家出少年、リョウが姿を現したのだ。
「なんだよ。煙草ならないぞ。お前にやる煙草はな」
ミツキが言うと、
「いえ……だから返そうと思って。これ……」
近付いてくると胸ポケットから出した煙草を一本抜いてケースへと置いた。
「もらいっ放しじゃ悪いかなあと思って」
「悪いと思うなら未成年が煙草吸ってんじゃねえよ。親の金だろうが」
ヘヘッ、とポケットに手を突っ込んだリョウがにやけた顔を作る。その顔が堪らなく鼻につき、
「で、用はすんだのか」
ミツキはギターを縦に構えて詰問した。
「いや、それが、俺どこにも行くとこなくて」
「それで」
「よかったら、聴いててもいいかなと思って」
「はあ?」
「いえ、ホント、邪魔にならないようにしますんで。はい」
お前がいるだけで邪魔なんだよ、とも言えず、
「そこに立ってるだけならな」
と、サクラに使うことにした。それにしてもコイツで人が寄ってくるだろうかと思いつつ、それでも心を消して次の曲を唄い始めた。
また一人酔客が通るがその目はミツキに向かず、奇妙なリズムで肩を揺すっているリョウにばかり視線が集まる。笑っているのやら驚いているのやら、通り過ぎる誰もがリョウへ注目していた。
それだけならばよかったのだが、すぐに事故が起こる。
間を開けたくないミツキは延々とセットリストを回していたが、ある曲の中盤で、
「あ、これ知ってますよ! 知ってます!」
そうリョウが言うと、音程も何もあったモノじゃない声で曲のサビを唄い始めたのだ。怒り心頭のミツキも、演奏中に曲を止めることが出来ず、気が付けば通りがかったスーツの男が立ち止まったのも手伝って、最後まで唄い通すしかなかった。
そして、
「いやいや、いい歌だった。ほら、二人で分けろ」
ミツキとリョウのユニットだと思ったのか、酔った口ぶりで千円札を一枚ずつ手に握らせた。
「頑張れよ」
男性は文化通りの表へ向かって歩いて行く。そこへ、
「はい! 頑張ります!」
と元気に答えたのはリョウの方だった。満面の笑みで、嬉しくてたまらないのかその身体は上下に揺れていた。
客が立ち去ったのを見て、ミツキは煙草に火を点ける。貰ってない方の煙草だ。
「お兄さん! これ! これ! もらいましたよ! すげえ! 俺すげえです!」
ミツキはそんなリョウに冷たく言い放つ。
「それ、お前のじゃないからな」
すると、リョウがまさかという顔でミツキを見た。サングラス越しの表情は分かりにくかったが、きっと青ざめていたことだろう。
「でも……今……」
「お前は客だろ? 俺はそれだったらいいと思ってそこにいるのを許したんだよ。それを勝手に割り込んでメチャメチャにして、しかも俺の金取ろうっていうのか? ホントは三千円くれるはずだったかも知れねえだろ。俺がギター弾いてるから客は金くれるんだよ。お前はストリートミュージシャンか? ただの素人だろ? お前は最初から俺をだますつもりだったのか? お前一人で金もらえるならどっかで勝手に唄って来い。いいから早く返せ、俺の金」
呆然と突っ立っているリョウに、ミツキは立ち上がって強引に千円札を奪い取った。
「あの……」
リョウはその場で足踏みをしている。
「何だ。まだ何かあるのか」
「いえ……すみませんでした」
トボトボと背中を向けて歩き出すリョウに心は痛まず、しかし気まずいものは胸の奥に生まれる。そんな日は最後までその空気は返らない。案の定、後は小銭が五十二円入っただけで終わった。
「あら、今日も頑張ってるねえ」
とスナック橘の従業員が表の人通りを探りながら声をかけてきたが、
「今日はこれで終わります」
と頭を下げ、ギターを仕舞った。
午前零時の天文館は灯りも落ちて閑散としている。ゲーセンも閉店を迎えたようで、奥から聞こえてくる蛍の光がやけに寂しさを誘う。
「あ、お疲れ様です!」
そんな中でも元気に挨拶してくれるのはコウタだった。そばには座り込んだ一人の少女がいる。この時間には似つかわしくない制服の若い子だ。とはいえ自身にも経験のあることだったので、言及するのはやめた。
「お疲れ。長丁場だねえ」
「はい、ケツが痛くて痛くて」
そう笑ってみせると、ペットボトルの水を飲んでいた。
「その水、本物?」
ミツキが訊ねると一瞬考え込んだ後、
「いえ、ゲーセンの便所の水です」
そう答えてコウタは笑った。
「ちょっと荷物置いていい? コンビニ行ってくるから」
「はい、見ときます」
サウナのビールが熊本時代より高いので、入る前にこっちで飲んでおこうとミツキは五百ミリの発泡酒を一本と、ミネラルウォーターを一本買った。あの女の子にも、と思ったがいなくなっていたら無駄になるのでやめた。路上ではしばしばそういうことがあり、誰か来たから帰ろう、というタイミング待ちの人間も多いのだ。
「はい、本物の水」
コウタへペットボトルを渡すと、
「うわあ、ありがとうございます!」
と喜んでくれた。少女はまだそこにいる。
ミツキは発泡酒を開けると、ひと口飲み、大きく息を吐いた。
「えらく大きいため息ですね」
コウタが言うので、例のリョウの話をしてやった。
「そりゃ、リョウ君悪いですよ。下手したら営業妨害じゃないっすか」
ミツキは煙草に火を点けて煙を吐く。風下なので、少女には気を遣わなかった。
「俺も鬼じゃないんだからさ、酔っ払いが唄い踊るのまでは止めないんだよ。けどさ、一瞬でも相方だと思われてる訳だろ? ただの素人を。それがいちばん困るんだよな」
「分かります分かります。リョウ君ってここに来る時もこっちに回ろうとするんです。さっきまで目の前で喋ってたのに、気が付いたら横にいるんですもん。あれ、狙ってんすよね」
「だろうな。自分がやること何もないもんだから、他人任せで何かにありつこうとしてるんだろ。よく家出する根性があったもんだ」
すると、
「リョウ君のあれ、家出じゃないよ。あれはただの夜遊びっていうの。毎日お昼には家に帰ってんだから」
そう言ったのはコウタの向かいに座る少女で、素直な黒髪の先を指で弄びながらの台詞だった。よくよく夜の街が不似合いな純朴そうな子で、ミツキは思わず別の女の子を思い出していた。
「まあ、本人も言ってましたよね」
コウタの言葉にミツキも、ああそうだったと思い出す。
「それじゃあ」
と言って立ち上がったのは少女で、
「明日またね」
とコウタが立ち上がって手を振る。少女は手を振り返しながら、天文館を横に入った路地へスキップするような軽快さで消えて行った。
「大丈夫なのか、あの子」
ミツキは思わず訊ねたが、コウタは「全然」と笑顔で答える。
「ルイちゃんですか? すぐ近くにお母さんがやってるスナックがあるんですよ。いつも一緒に車で帰ってます」
「そういうことか……」
どこまでも彼女のようだと、その偶然にミツキは胸を締め付けられる。
――「ウチとギターとどっちが大事なん!」
それはすでに遠い過去の声だったが、ミツキには今も喉元に突き付けられたナイフのようだった。ギターをひとまず置いて普通の仕事に就いてくれという彼女へ彼が示した態度は、ギターを手に黙って出てゆくという卑怯な答えだった。彼が忽然と消えた部屋の中、彼女は今も暗闇の中で答えを待っているのかも知れない。
思えば自分こそ卑怯な男だと、彼はこの何年かを省みる。その中で、きちんと手を振り合えた別れは少ない。
最後には阿保を離れてミツキに付いてゆくとまで口にしたタイジに、なぜ何も話さず大阪へ行ったのか。それは彼にも分かっていた、根が直情的な彼に大阪行きのことを口にすれば、
――「結局、女ですか」
そう罵られたことだろう。実際タイジは一か月後にケイコのPHSへ電話を寄こし、
――「友情より恋愛取るんですか。ガッカリしましたよ」
と吐き捨てた。そしてそのうち、
――「ケイコは俺とも寝たことあるんですよ? 恥ずかしくないすか」
もう本筋がどこに行ったか分からない長々とした恨みつらみにまで話は及び、
――「もう二度と俺の前に顔見せんとってください」
という言葉で電話は終わった。どれもこれもタイジらしい怒りの真っ直ぐさで、だからこそ本質からはいちばん遠かった。
タイジが勘違いしていたのは、そもそもの始まりが恋愛でなかったというところだ。女イコールセックスとしか考えていない体育会系のタイジにはとても受け入れがたかったろうが、ミツキは他の大都市で演奏してみたかっただけで、その拠点をケイコの部屋へ置いたに過ぎなかった。ケイコにしても部屋からすぐの街角で知り合いのストリートミュージシャンが唄っているというのは鼻が高いという部分もあったのだ。そういう意味のないものに熱中する世代なのだ。だからこそその関係が崩れたのは、やはり身体の関係を持ってしまってからだった。
古傷をごまかすように発泡酒を飲み干したミツキは、コウタへ帰る旨を告げると立ち上がった。背骨がゴリゴリと音を立て、これはサウナ前にストレッチだなと胸で呟いた。
「じゃあ、俺行くから」
「はい。明日も会いましょう」
にこやかに手を振る彼がいったい宿をどうしているのか疑問だったが、聞いたところで自分にはどうしようもなく、一人分で手いっぱいの暮らしを細々と繋ぐだけだ。鹿児島は二日目にしてまだ三千円を超える日がない。しかも今夜は勢いだけだった。
飲み込みがたい、いわくつきの二千円をポケットに、彼はサウナへ急いだ。




