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西高東低‐南高北低  作者: 水銀塔
第一部・ささやかな渋滞
13/33

13・鹿児島へ

          13・鹿児島へ



「じゃあな。色々世話になった」


 月曜のホテルのロビーで、ミツキはギターを抱えていた。たった一日ブランクがあるだけで、リュックとギターの手応えはずっしりと重かった。


 昼間の反動か、日曜はホテルに戻ってもあまり話さなかった。緋堂は頼まれた絵を制作中で、声をかける隙もなかった。そういう姿も見せるのだと思いながらミツキはその間、ニュースチャンネルを眺め、ニュースに飽きたらホテルのランドリーで洗濯したりと、それなりに過ごした。


 翌日――。


 クリーム色のロビーの床にその姿をボンヤリと映して彼女が言う。


「餞別に絵を一枚とか思ったんだけど、荷物になるでしょ。それで」


「いいよ。餞別は充分に頂いた。それより緋堂こそまだ熊本にいるんだろ。頑張れよ」


「うん……」


 旅人の別れ際は言葉少なな方がいい。まだ何か言いたげな緋堂に軽く手を上げると、ミツキはエントランスから表へ出た。


「縁があったらまたね」


「ああ。お前もいい旅を」


 外は鈍い陽射しだったが晴れ間も見える。移動には快適そうだ。


 熊本駅行きの路面電車に乗ると、すでにさっき別れたばかりの彼女の顔がチラついていた。若い男と女が二日近くも同じ部屋にいたのに何もなかったことは軽い驚きだった。緋堂は言動こそ多少変わっていたが、見方によっては美人の類だった。可愛らしさと美しさが絶妙な残念さで混ざったような、そんな顔つきだ。


 そんな残念な美人をどうして手付かずに終えたのか、それは彼女の口から幾度か飛び出した彼氏の話が牽制のように思えていたし、何よりもそのあっけらかんとしたモノの言い方が彼女とダブって見えていた。大阪で別れたきりのケイコにだ。抱くも抱かれるも自由だが、そこに別の女の影や男の影を抱えていたくはない。


 そんな未消化の心を抱えながらも、旅はまた始まった。今必要なことは、なるべく早く鹿児島の街を把握することだ。もちろん昼の見た目と夜の顔は違う。それでも昼の下調べが無駄になることはない。


 熊本を十一時半に出て、ゆっくりと二回乗り換え、鹿児島には夕方の六時前に着いた。途中、学生たちの帰宅ラッシュに遭ったが、乗り換えにはそれぞれ始発を狙ったために荷物の置き場に困ることはなかった。


 人生で初めて下り立った西鹿児島駅は、生憎の雨だった。天気がよければ桜島が見えると聞いていたが、どうにも霞んで先は見えない。長い階段を下りると駅前は殺風景で、その階段以外に何があるとも知れず、鹿児島最大の駅にしてはなんとも辺鄙だ。緋堂が工事中だと言っていたが、今さらのようにそれを思い出した。


 ならばここに長居する必要はないと、彼は第一目的の文化通りを目指すだけだった。霧雨の止まぬ中、駅の案内板で大まかな方向を確かめ、後は適当に歩いた。いつもならここで電話帳を調べ、スナックの類が多い町名をピンポイントで探すのだが、今回はその飲み屋スポットが事前に分かっている。


 ミツキは路面電車の軌道を追うように、黒光りする道路を進んでゆく。黒光りの理由が桜島の灰のせいだと気付いたのは一本の河原を覗いた時だった。河の横には色を失った土砂の塊のようなものが積まれており、そばに生える草木も黒い灰を被って汚れきっていた。ミツキは何か陰鬱な絵画を見せつけられた気がして、降り続く霧雨と共に気持ちが落ち込んだ。思えば、その眺めが鹿児島での日々を象徴する光景となるのだが、その時のミツキにはそこへと思いの馳せようもなかった。


 日も傾き、薄暗くなった灰色の光景を無言で歩き通すと、ようやく路面電車の停留所に天文館の文字が見えた。救われた気分でアーケードへ入ったものの、その規模は熊本に比べて貧相で、少し歩くと屋根は終わった。


 別にアーケードで唄う訳ではないと気を取り直して先へ進むと、噂に聞いた文化通りが見えてきた。大まかにとらえると、大きな正方形の街に酒場が押し込まれている構図だ。決して小規模ではなく、その合間合間に小路があり、その発見は大通りを避けて唄うミツキとしては大きな収穫だった。ネットカフェは見当たらないものの、街外れにはサウナの文字も見え、上手くいけば野宿は避けられそうな雰囲気でもある。


 三十分程歩くと、とりあえずの視察は終わった。が、ひとまず雨を避けてアーケードに戻ったものの、今度はそこからの時間潰しに苦労した。アーケードのあちこちには青いネットがかかり、鹿児島は駅舎だけでなく繁華街も改装中のようだ。チラリと見える看板は吉野家だけで、後は狭苦しいゲームセンターが営業中なだけだ。


(こんな時だ、仕方がない)


 食いたくもない牛丼を食いに行くよりはゲーセンで潰せばいいだろうと時計を見ながら考えた。しかしそれが選択ミスだった。


 ゲーセンは中高生の溜まり場になっているようで、ギターを抱えた彼は入るなり、連中から鋭い目で見据えられた。皆、揃えたように坊主頭で、その半数が学生帽を被っている。真面目なのやら不真面目なのやら、ミツキにはそれがよく分からなかった。


 それでも取って食われる訳でなしと、狭い通路を抜けて奥へ入ると、


「あ痛!」


 ギターケースを一人の少年の背中にぶつけてしまい、とっさにミツキは謝った。


「ああ、ゴメン」


 しかしそれを見ていた別の少年がこちらへやって来ると、ミツキを睨みつけた。


 ゴメンじゃ済まないのかと、ミツキはもう一度向き直り、


「悪かった、ゴメン」


 そう謝った。途端、


「『悪かった』とか言うちょっど! どこの都会モンじゃ!」


 少年が口真似すると、集っていた学生連中が大笑いを始めた。居たたまれなくなったミツキは小さな目礼だけを残し、否応なしに吉牛へ退散した。


 唯一の救いは、暇潰しにまったく向かないと思われた吉野家が思いの外に暇で、壁の棚にはマンガ雑誌が詰まっていたことだ。今後の時間潰しは吉牛で決定だとマンガをめくりながら考え、しかし頭の中ではすでに唄う場所の吟味に入っていた。どの店も元気に営業中であったのはいいのだが、ミツキが陣取って唄うためのエアポケットが少なかった。しかも今夜は雨を凌ぐ庇もいる。


 牛丼屋で読むマンガも三冊になり、そろそろ唄いに出てもいいのではないかと時計を見ると午後八時半だった。もう一回り街を観察すればいい頃合いだろう。暗い気持ちはひとまず晴れた。


          *


 雨は九時を過ぎて止む気配はない。ミツキは文化通りから二つ入った路地で、小さな庇に身体を丸めながらケースを開いていた。前面にはスナックの青い明かりが灯り、背面は紳士服を売るテーラーのようだったが二階はスナックのようで、恐ろしく人通りがなかった。牛丼屋の後、もう一周街を見て回ったがメインストリートには呼び込みばかりが多く、ケースを開いて唄えそうな場所はどこにもなかった。晴れていればまだ、という場所もあったが、電柱には『路上演奏禁止』の貼り紙があった。


 貼り紙自体は怖くない。少なくともこの場所で演奏する人間が一人はいるということだからだ。


(とにかく今は唄うことだ。一曲でも多く)


 ミツキは気持ちを鎮め、熊本でよく唄っていたセットリストを取り出して順番に演奏した。小路は抜け道になっているのか、通行人もたまに通りがかり、そして誰もが無関心だった。その光景はこの界隈を歩く人間が路上ミュージシャンを見慣れている証拠でもある。ならばいつか実は結ぶだろう。


 そう信じて一時間。通行人は一向に止まらない。向かいのスナックから客を送りに出た女性と目が合っただけだ。女性は少し驚いた様子だったが、ミツキの顔を見るとニッコリと笑い、しかしそれ以上は何もなかった。


 更に一時間が経った。天文館のコンビニで買った酒が一合減る頃、ようやく近寄ってくれたオヤジが二十円入れてくれた。ミツキは大袈裟に頭を下げるとギターをかき鳴らした。こういう時の小銭は、ただの小銭ではない。ゼロがゼロでなくなった大きな小銭だ。それをそのままで終わらず、別の流れを導きたかった。


 いつものように心を消し、流れ作業のように歌声を響かせる中、あの熊本クラブ通りが一か月も二か月も前のことのように思えていた。ほんの今朝方、緋堂と別れたはずなのに、今はケースの中に十円玉を二枚入れ、ただ雨に打たれている。笑顔の酔客も声をかけてこない。うなぎ屋の女将も来ない。赤提灯の大将も手を振らない。そんな光景を、それでも彼は自分の景色に変えていかなければならなかった。熊本ですら初日はそうだった。いつだって知らない場所は自分で開拓するしかないのだ。それはこの鹿児島も例外ではない。


 やはり場所選びに失敗したのか、そう思い始めた十一時半。ケースも雨で濡れ、そのままギターを仕舞うには勇気のいる状態になった頃だ。


 目の前のスナックから、また客が出て来る。そのタイミングでミツキが唄っていたことは僥倖だった。いや、少ない人通りにも構わず唄い続けた根性はいつかのブルーズオヤジが口にしたままだった。それは継続という名の必然だ。


「弾き語りがいるじゃないですか」


 と聞こえた声に、彼は小さく頭を下げる。


「ちょっと聴いていきましょうよ」


 連れの集団を引き止めた男性は、そぼ降る雨にも構わずミツキの前へ歩いてきた。


「お兄さん、とんぼ唄える?」


「はい、出来ます」


 熊本では苦笑いしながら引き受けていたリクエストを、ミツキは満面の笑みで応えた。ミツキには男性の方が幸せのとんぼに思えていた。


 曲が終わると男性は千円札を一枚取り出し、濡れたギターケースへ入れる。それからついでのように連れの数人が小銭を投げた。


 男性はミツキと一言二言喋ると、


「広島からですかあ。僕、埼玉から出張なんですよ。雨に負けないで頑張ってください」


 そうして集団が去ると、スナックの女性従業員だけが残った。そして、


「お兄さん、お客さんがいる時に呼んだら来てくれる?」


 意外なことを訊ねてきた。ミツキはもちろん、


「はい。出来る歌なら何でも」


「しばらくおる?」


 ついさっきまで熊本へ戻りたがっていた本心を隠し、ミツキは答える。


「ええ。そのつもりです」


「そうね。じゃあ今度頼むね。お客さん喜んでくれたよ。ありがとね」


 そう言うと、女性は小さくお辞儀をして店へ戻って行った。その途端、ミツキは大きく息を吐く。


 ひとまず形になったことは良しとして、不安材料は残った。足を止めた男性客が出張中だったことだ。出張客が羽目を外しやすいのは長年の経験で知っていたが、結局は地元人に受け入れられなければ先が見えている。後半の広島がまさしくそうだったが、金を入れるのは関西や九州、関東の出張族ばかりになっていた。そして上がりも目に見えて減っていた。


(この場所を定位置にするべきかどうか)


 明日の天候も分からず、集客も怪しく、少し増えた予備知識だけで演奏の場を決めるのは尚早だろうか。


 しかし彼は決意する。目の前のスナックが太いパイプになればと願い、この場所を鹿児島での演奏場所に決めた。そうやって彼は見知らぬ街で一蓮托生の関係を増やしていく。


 十二時を回ると、彼は濡れてゆくギターとケースが気になり、早仕舞いを決める。すっかり濡れたケースとギターを、明日着るはずのTシャツで拭き、譜面を収め、今夜の上り千三百七円をポケットに入れた。



「二千八百円ね」


 夕方に探していたサウナは熊本のローヤルに比べ、格段に清潔だった。が、その分、


「チェックアウトって何時ですか」


「朝の十時だね」


「例えば朝の五時とか六時に入ったとしたら」


「ん? 十時までで二千八百円だけど」


 そんな訳で、熊本時代の楽園がまたひとつ失われた。


 狭い部屋で四人の男が身じろぎもしないサウナ室で、ミツキは出来得る限りの対策を講じていた。そういえばこの町の市役所もまだ把握していない。


(違う。そういうことじゃない)


 弱気な自分に檄を飛ばすように、彼はこの街での上手い稼ぎ方を模索し始める。しかしそれは堂々巡りの作業で、結局は出たとこ勝負だという結論に至った。今出来るのは今夜入った小銭で買えるだけの缶ビールを一本買い、休憩室のテレビに流れる天気予報を食い入るように見つめるだけだった。

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