10・祭りのあと
10・祭りのあと
ホテルは三号線沿いの高架のそば、工事中の代継橋の近くにあった。ミツキが寝起きしていた白川の河川敷とは目と鼻の先だ。
途中のコンビニに寄ると、ミツキはサウナの土建屋たちよろしく六缶パックの発泡酒を買った。そして緋堂は、
「なんだよ、ワンカップとか買うのか」
「うん。廊下のレンジで温められるから」
居酒屋に限らず、どうやら日頃から熱燗が好きらしい。北海道の人間の日本酒率は確かに高かったような気もする。
二階のフロントをエレベーターで通り過ぎて案内されたのは、清潔感漂うシンプルなツインの部屋だった。いつものサウナに慣れている身としてはあらゆるものが眩し過ぎた。
ミツキは彼女の荷物の横へギターを置かせてもらい、ベッドの縁へ腰かけるとすぐに発泡酒を開けて飲み始めた。
「そんな好きなんだ。お酒」
唖然とする緋堂に、
「飲みたいから飲んでるだけだよ。お前こそピアニシモで大分飲んでただろう。日本酒なんて飲んで大丈夫か」
「これはいつものお疲れ様のお酒だよ。じゃあ、ちょっとチンしてくるから」
言うと、緋堂はカードキー片手に廊下へ出た。Tシャツにグレーのパーカーを羽織った彼女は色気もなく、だからこそミツキは安心だった。が、
(このまま二人で酔っぱらうとか最悪パターンだな)
自制心はユラユラと秤のように揺れている。
(自分から誘ったのだし、寝込みを襲ったとして文句を言われる筋合いもないだろう)
ベッドへ横たわってその感触に人心地ついていると、熱燗とナイトウェアを持った緋堂が戻って来た。
「はいこれ、君の分」
見ればバスタオルとフェイスタオルもある。
「いいよ俺は。風呂上がりの姿を晒すほど深い中になったつもりはない」
「じゃあ深い中になればいいのに」
ミツキは心に苦いものを感じながら、
「俺を普通の一般的な男だと見做すのなら、そういう軽はずみな言葉はやめてくれよ。気まずいのを通り越して不愉快だ」
すると向かいのベッドへ座り込んだ彼女が、前触れもなく大粒の涙を零し始める。
面倒臭いことになったと、ミツキは発泡酒を飲み干して彼女をなだめにかかる。
「なあ、泣くことないだろう」
緋堂は洟を啜りあげながらもワンカップを口へ運び、
「いいの。私、男の人の気持ちっていうのが分かんないらしくて」
「人の心なんて誰も分かんないよ。とにかく今の台詞は聞き流しといてくれ」
それでも彼女はワンカップを両手で抱え、グスグスと洟を鳴らしている。
「あのさ。俺たち同じ旅の路上で会った仲間だろ。せっかくなら楽しく飲んで楽しくお開きにしたいんだ。俺の言い方がキツイ部分は謝るから、いつものヘラヘラした顔で笑っててくれ」
「……ヘラヘラしてる?」
「ああ。隙あらばヘラヘラ笑ってるよ」
「そっか。じゃあ私、楽しいんだ」
ようやく笑みの戻った彼女に安心して二本目の発泡酒を出すと、
「ミツキ、遅くなったけど乾杯」
「おう、乾杯だ」
言うなり、ミツキは酒を煽る。不思議なことに今夜はいくら飲んでも酔いが回らない。ピアニシモで飲んでいたウイスキーのロックはなんだったのかというほど、酒が身体に馴染む。
「それで、鹿児島は何か当てがあるの?」
それは緋堂の言葉で、
「ない。とりあえず文化通りってとこがメッカらしいけど」
「天文館の奥の方だね」
「天文館?」
「そう言う名前のアーケード。下通りには見劣りするけど、色んな人がいたよ」
彼女はワンカップをまた減らし、そして涙の跡が消えていた。
「てことは、緋堂は鹿児島知ってるのか?」
「うん。一週間いた。でもご存じのとおり私たちって色々棲み分けがあるでしょ? 私の情報がミツキに役立つか分かんなくて」
「じゃあ、一つだけ聞こう。文化通りってとこは酔っ払いが集まる街なんだな」
すると緋堂は力強く頷く。
「うん。ミツキだったら大丈夫だと思う。だから頑張って」
「ああ、ありがとう。ところでここは禁煙か?」
落ち着きなく周囲を見渡していたミツキが言うと、彼女はテレビの脇から灰皿を出した。
「禁煙にしたはずなのになぜか置いてあって。ベッドじゃなくてサイドテーブルで吸うんならいいと思うよ」
彼は言われるがままサイドテーブルへ移動して煙草に火を点けた。そこには彼を相手にすれば一時間で埋もれてしまいそうな小さな灰皿がある。
「緋堂は大丈夫なのか」
「うん、私は平気。雪解けの北海道の空気よかましだもん」
「北海道の空気?」
「トラックのチェーンとか、路面削りながら走ってんだよ。北海道の春霞は黒く濁ってるの」
そう言い終えて、緋堂はまたワンカップを開ける。
「じゃ、また行ってくるから」
それほど酔った様子もなく、彼女はまたカードキーを手に取る。
「あ、だったらさ。そこのスケッチブック見ててもいいか」
手持ち無沙汰な彼が言うと、
「いいよ。つまんないかもだけど」
そう言って彼女は再び廊下へ出た。言われるままスケッチブックを開いたミツキは、軽い衝撃を受ける。そこにはあの幾何学的なハート模様の片鱗もなく、ただただ写実的なモノクロのデッサンがあった。下通りのアーケードらしき風景もあれば、路面電車を描いたものもある。
驚いたのはミツキを描いたと思しき一枚だった。彼のアウトラインこそおぼろげなものの、手にしたギターは弦を巻くペグからポジションマークの細部にいたるまで忠実に描かれていた。彼女は決して彼の前面でスケッチブックを開いてはいない。この記憶はそれ以前の、初めて出会った夜のものなのだ。
「らららーん、らんらん」
今度は浮かれ気味に戻って来た彼女は、熱燗を啜りながら言う。
「なんか面白いのあった?」
「ああ、このギターが見事過ぎて見入ってたよ」
「そう? ギターの形って可愛いよね。ハートに通じるものがあるよ」
「何より細部のディティールがしっかりしてる。緋堂は自分がギターやってたとか誰かギター弾きの知り合いがいるのか」
すると彼女はゴクゴクと牛乳のように酒を煽り、
「いたっけかなあ」
とだけ曖昧に答えた。そこには別の男の影が見え隠れする。
ミツキは不必要に煙草を吹かす。
彼女は彼から受け取ったスケッチブックを膝へ乗せている。
白ばかりの室内の隅、無造作に置かれた旅人たちの生活道具がそこにある。
言葉を奪う妖精でも通り過ぎたように、そこにはしばしの静寂があった。
「緋堂が旅に出たのって、どうしてなんだ」
静けさを嫌ったその質問に、しかし彼女はまず十分な沈黙の後に答え始めた。
「喧嘩別れっていうのかな……一緒に住んでた彼氏のとこ飛び出してきちゃったんだ」
見る角度で様々に変化しそうな答えだったが、重い話と受け取ったミツキはまず小さく頷くことから始めた。自分の質問で自分が押し潰された感もあり、まずはそれを拭いたかった。
「逃げてきたっていうなら、俺と同じだな」
「かもね」
彼女は明らかに作り笑顔で答える。
「でも、実家もそっちなんだろ。帰る当てはあるじゃないか」
「けどさ、わだかまりって、そんな簡単じゃないでしょ。そこはミツキだって分かるんじゃない?」
まったくその通りだと、彼は三本目の煙草に火を点けて思う。
緋堂はワンカップを手にしたまま続ける。
「札幌の狸小路って分かるかな。向こうでも同じことしてたんだ。けどね、彼はそれが嫌だったみたい。知らない仲間の話とか聞かされてるうちに、堪えられなくなっちゃったみたいで」
「良くも悪くも色んな人が寄って来るからな」
「彼の場合、その『良い人たち』すら毛嫌いしてて。『金っていうのはそうやって稼ぐもんじゃない』とかそっちにまで話が飛躍しちゃって。彼はね、五つ上で商社マンなの。頭、固いんだ。で、売り言葉に買い言葉で『私は絵描きですからそうやって生活してみます。これが私の仕事だから』ってさ。そう言って出てきたの」
なるほど、と納得するにもひとつひとつ身につまされた思いのミツキは、そろそろ自分の話も出さなければいけないかと考えていた。ただ、この部屋のままでは空気が重くなりそうだった。
「ワンカップ、もうないだろ。俺の煙草も切れたし、一緒にコンビニ行こうぜ」
ギターケースに入った二箱の煙草は忘れたことにして、彼女を誘った。
「うっわあ、気持ちいいね。十月の熊本最高じゃん」
涼しい夜道を歩きながら、緋堂の歩みは右へ左へ揺れている。昇り始めた月が東の空に浮かんでいて、夜明けはまだ遠い。
時計を見ると二時半だった。緋堂といる間は時計を見ないように気を付けていたので、その時刻に頭を振った。まだまだ酒宴は終わりそうにない、と。
コンビニでは買うものが決まっている分、楽でよかった。ここで緋堂が妙な女子力を発揮してあれこれ買おうものなら強引に引きずって帰ろうと考えていたところだ。
「ミツキ、煙草一個でいいの? 私の奢りだよ」
レジ前で彼女が訊ねてきた。
「ああ。ギターケースの中に入ってたの思い出したんだ」
そう……と、素直に頷いた彼女は、小銭を探しながら含み笑いで続ける。
「あの部屋、明日まで二人分連泊だから。ゆっくりしてっていいよ」
「はあ?」
状況を飲み込めない彼は短く感嘆の意を述べたが、
「さっきのお店から電話してたんだ。月曜出発ならちょうどいいじゃん。しっかりと旅支度出来るしね」
青天の霹靂とはこのことだった。何よりミツキには、彼が彼女の誘いに乗るのを見抜かれていたことが悔しかった。
「お前、わざわざ喫煙室に変えたんだろ」
「そうだっけ? 私、覚えてないかも」
緋堂は無表情に言ってのける。
「やめてくれよ。俺は借りを作るのが大嫌いなんだ。明後日には離れ離れの土地に移るお前に、そこまでしてもらう訳にはいかないよ」
突然始まった口論にコンビニの店員は狼狽えていたが、それを見てようやくミツキも落ち着きを取り戻す。
「とにかく戻ろう」
「はーい」
結局、ワンカップを四つと煙草を一つの買い物は、痴話喧嘩を誘っただけに終わった。よかったことは一つ、フロントに怯えなくて済むことくらいだ。




