モノクロームの世界、唯一の色彩2
屋上は生徒に開放されていなかった、と思う。なぜなら立入禁止のビラが貼られていたし、それに扉に鍵もかかっていたのだ。だがその鍵は壊れていて、屋上に出ようと思えば出られる状態だった。ちょっと不用心だと思ったが、俺はあの銀髪の少女、確か霜月とか言ったな、の事を思い出し軋むドアを開け放った。
眼底に差し込む強い光。ちょうど頭上にさしかかった太陽が、屋上の白いコンクリートの床を照らし、その反射光が飛び込んで来たのだ。その雑多なスペクトルに、俺は目眩を覚えた。何度か瞬きをし、手のひらでひさしを作ってドアの向こうを見つめると、屋上の端で柵から外を眺めている人影が目に入った。滑るような髪に反射する光が、どことなく淋しそうに見える。俺はゆっくりとドアを閉め、その人影の方へと向かった。ゆっくりと閉めたはずのドアから、大きな音がこだまする。
俺はそっとその人影の傍らに立つ。そして一緒に眼下に広がる景色を眺めた。ちらっと横を向くと、霜月が銀髪を風に揺らしながら、ぼんやりと街の方を見つめている。その横顔はヒトに似ているが、ヒトではあり得ないほどに丹精であり、また少しだけ鼻が低いところが逆に愛嬌にもなっていた。色素が少ないのか髪が銀であるだけでなく、肌も白い。優恵よりも白いかもしれない。
そして、スペシャルの特徴的な耳と尻尾。そのどちらも、髪と同じ色をしている。
俺はそんな霜月に見とれながらも、先ほどした自分の過ちについて謝らなければいけないと声をかけた。
「さっきは、ごめんな。君が、その…」
「…ん」か細くやや掠れた声が風に流れる。でも、霜月は柵の向こうを見つめたまま。俺も柵の向こう側に広がる街並みを見据え、諦めもせず会話を続ける。
「いや、綺麗な街だな。俺が子供の頃は、街中に瓦礫が積み重なっていた。俺たちにとってはかっこうの遊び場だったが、まあ不便だったよ、いろいろと」
「…気にしてない、です」
霜月の視線が微かにこちらを向く。俺もゆっくりと彼女を見つめた。やや大きめで濡れている虹彩。その色は青とも銀とも言えない色合いで、ぞっとするような冷たさがある。それに、どこを見ているかわからないような眼差し。その瞳に吸い込まれそうになる。
「気にしてないって、君にあんなことを言ったことについてか?」
俺の問いかけに、こくんと頷く霜月。そして、やや特徴のあるハスキーな声でこう言った。
「君、ではないです…。霜月伊織」
「そうか、霜月だったな」俺がそう言うと、また霜月は柵の向こうを見つめた。
「先生、先生にはあの空はどう見える?」霜月は無表情なまま、顔をあげた。
「そうだな。今日は雲がほとんどないから、随分と綺麗な青空が広がっている。やっと、青空が見えるほど空気が澄んで来たんだろうな」と俺は答えた。そう、俺が子供の頃は無数の塵が宙を舞い、いつもぼんやりとした空を眺めるしかなかったのだ。
「青空って、青いの?」霜月がこちらを向く。その表情に、俺はドキリとした。微笑もうとしているのだが、泣き出しそうにも見える。
「そりゃ、青い…」俺はそこまで言って、霜月が何を言おうとしているのかに気付いた。うかつだった。
「青って、どんな色…」そう言うと、霜月はまた表情の乏しい顔をした。それがどことなく無理をしているように見えて、心が痛くなる。
「難しいな」
「先生。私は色がわからない。先生の目に映っている綺麗な青色も、私には濃淡でしかない。世界が何色かわからない」
「それに、私はケモノの血が濃い。だから色がわからないし、ほら」
霜月はそう言うと、俺に向かって両手を差し出した。顔と同じくしっとりとした白い肌。俺はその美しさに息をのんだが、それと同時に衝撃を受けた。
「ね、私には指が四本しかない。ケモノと一緒」
そう、霜月の手には四本の指しか見当たらない。親指とそれ以外に三本の指しかないのだ。俺が呆然としながらも、霜月の手に触れようとすると、彼女はびくっと手を引っ込めた。そして申し訳なさそうに微かに微笑むと、そのまま階段へと続くドアへ向かい、最初から俺なんかいなかったかのように、ゆっくりと降りて行った。
俺は頭を掻きむしりながら、もう一度、柵の向こうを眺めた。俺には青空が見えた。でも、全然美しいと感じなかった。
*
帰り道、俺はぼんやりと電停へと歩いて行った。隣では、優恵が何やらカチャカチャと動かしている。
霜月伊織。彼女は自分の見ている世界と、他人が見ている世界の違いを痛感し、そして世界を共有できないことに絶望を抱いている。いや、絶望を抱けるほどではなく、そもそもこの世界に無関心なのかも知れない。それはきっと、淋しいことだ。
誰とも世界を共有できない淋しさ、虚無感。俺には理解できないのかも知れないが、それでも霜月の痛みを少しでも知りたい。何故、そんなことを思い始めたのかは、まったく見当がつかない。もしかしたら、俺はいつの間にか若い頃の自分と霜月の現状に類似点を見つけ、そんな考えを抱いたのかもしれないな。あの頃、俺にも世界を共有してくれる人はいなかった。俺は世界の境界線上に、危うくただ一人立っていたのだ。そしてその頃、俺は空が怖かった。空の向こうにこそ、自分の属すべき世界があって、そこに持って行かれるのではないかと思い込んでいたのだ。
そんな状況で、俺は優恵と出会った。今から思えばその頃の世界はモノクロームで、優恵はその世界で唯一の色彩だったのかも知れない。
と、そんなことを考えながら、しげしげと隣の優恵を見つめてみたのだが…
「ぷっ! 今度は何だ!」
なんか、ルービックキューブやってるし! さっきからカチャカチャうるさいと思ったら、手のひらで立方体の色合わせをやってますよ、この人。
「一面しか合わないよ…」優恵は両耳をだらんと垂れさせ、恨めしそうに手のひらのルービックキューブを見つめている。
「危ないから、家に帰ってからやれよ。な?」
「全面揃えないと、やめられないーーー」と、騒ぎ立てる優恵。俺がルービックキューブを取り上げようとすると、牙をむいて威嚇する。
「拓人さん、マイナスドライバー!」
「は?」
「だから、マイナスドライバー貸して下さい!」
俺は優恵の意味不明な反応に、?マークをいくつも空中に出現させた。
「いや、今はない。何に使うんだ?」
「全部バラバラにして、組み直すの。そうすれば色が揃う!」優恵はそう言うと、犬歯を立方体の隙間に差し込もうとする。俺は慌てて優恵からルービックキューブをもぎ取った。
「こら、ずるっこしない!」
「うー」優恵がじっとりと、こちらを見つめる。こう言うときは話題を変えるに限る。
「なあ、優恵。ちょっといいか?」
「う?」
「ほら、優恵のクラスメートの霜月だけど、彼女、色が見えないんだってな。優恵は見えるよな? 霜月だけなのか?」俺はふとそんな事を聞く。優恵はちょっとだけ表情を曇らせた。何かまずい事でも聞いてしまったのだろうか。
「霜月さんだけじゃないと思う。あのね、拓人さん。私たちスペシャルもね、いろいろタイプがあるんですよ。簡単に言うとね、遺伝形質がどれだけヒトと離れているかで分けられるの」優恵が心無しか俺から視線を外す。なるほどそうか、これは少しまずい話をふってしまったな。でも、興味があるから聞いてみよう。せっかくの機会だ。
「ああ、そう言う話は聞いた事があるよ」
「うん。でね、霜月さんはタイプAA。極めてヒトから離れているタイプ。たぶん、ヒトとチンパンジーよりも離れていると思う。でね、そう言うスペシャルたちのことを、ちょっと言葉が悪いけど『純血種』って呼ぶ人がいるの。これね、蔑称だから、絶対に霜月さんの前では口にしないで下さいね」
「ああ。で、何で純血種なんだ?」俺は初めて聞いた単語に違和感を覚えた。
「確かね、遺伝学的にはもっともヒトから離れているから、スペシャルの最終形態だと考えられているんだって。だから、スペシャルの血が濃いから、純血種、だって」
「何だか、差別的な匂いのする言葉だな。あ、だから蔑称って言ったのか」俺の言葉に頷く優恵。俺は話を続ける。
「でも、例えそうだとして、何か問題はあるのか?」
「問題はないですよ。拓人さんみたいなヒトなら。でもね、純血種たちは色が見えないだけじゃなくて、運動能力や嗅覚聴覚がヒトを大きく超えているんです。それにね、指。指が四本で、それがさらにヒトとの違いを示しているようで…。いじめるヒトもいるんですよ」
悲しそうに微笑みながら、黙り込む優恵。俺はそんな彼女の不安や心配を払拭させるために、声をかけようとする。だが、何を言っていいのかわからないまま、口を半開きにして間抜けな笑みを浮かべる事しかできない。
早く電停に着けばいいのに。そんな事を考えながら少しだけ歩調を早める。そんな俺にぴったりと寄り添うように、優恵がついてきた。優恵たちと俺は、どこが違うのだろうか。遺伝子レベルでは差があるのかもしれない。でも、そんな事を言ったら、同じヒトであっても人種によって、いや、そもそも個人ごとに遺伝子配列は異なる。そうだ、そのぐらいの差しかないのだ。
優恵はよく笑いよく泣き、よく怒りよく苦しむ。俺と同じだ。だから優恵たちは人間だ。霜月もそうだと思う。そこまで考えがまとまると、俺は優恵をじっと見つめた。優恵が不思議そうな顔をして立ち止まる。
「霜月と仲良くできたらいいな。優恵は友だちなんだろう? 霜月と」
「うん、友だちです。これから、もっともっと仲良くなりたいな」
俺は優恵の帽子をそっと手に取り、彼女の頭を撫でた。目を細め、耳を垂れ下げ、尻尾を大きく左右に振る優恵。彼女を撫でるたびに、お日様の香りがした。
*
「で、ここで乗り換え、と」俺は電車のドアの上に貼られている乗り換え表示を確認した。路面電車に乗ってから、優恵が文房具を買いに街の大きなショッピングセンターへ行きたいと言い出したのだ。
「えと、乗り換え、乗り換え」電車が停止しドアが開くと、優恵はスキップするように降りる。俺はその後に続いた。
「それで、何を買うんだ? ペンやノートなら、家の近くでも売っているだろう?」
「画材ですー。透明水彩の絵の具が欲しいの」優恵はくるっと、こちらを振り向きカバンを両手で抱えながら微笑む。俺はその姿に、どきっとした。優恵はたまに、男なら誰でも魅入られるような、そんな仕草をするときがある。本人は気付かずにやっているようだが。
「ふむん。じゃあ、俺も万年筆のインクを買っておくか」俺は何とか無表情を装う。いい歳して、妹みたいな女の子にデレデレするのはよろしくない。
「拓人さん、乗り換えるのは市電だよね?」
「ああ、そうだよ。三番線だ」
今、俺たちが降りた駅はいわゆるターミナル駅で、市内を走り回る路面電車である市電の各路線が集まってきているだけでなく、別の都市へと繋がっている特急や急行列車、いわゆる郊外電車へも接続されている。
「了解であります、軍曹!」優恵が奇妙な敬礼をしてから、スタスタと歩き出す。いや、何で軍曹なんだ? リアルで微妙じゃないか。
三番線へと向かい、ぼんやりと電車が来るのを待っていると、突然後方から女性の悲鳴が聞こえた。俺たちは慌てて振り返る。ちょうど後ろには郊外電車のホームがあった。
「拓人さんっ!」優恵が俺の袖を思い切り引っぱり、下を指差す。そちらへ視線を向けると、線路でうずくまっている幼い少年がいた。そして、その上のホームには慌てながらも何もする事ができない乗客たち。通勤時間帯から外れているため、ほんの数人しかホームにはいない。
「優恵、ちょっと待ってろ」
「え。ええ? た、拓人さん!?」耳と尻尾を盛大に立てながら、大声を出して慌てる優恵。優恵はパニック状態だ。もちろん、俺もだ。
「非常停止ボタンを探してくる!」俺のそんな声をかき消すかのように、回送電車の通過アナウンスが流れる。まずい! 郊外電車だ! アナウンスを聞いたまわりの人たちも、にわかにパニックになる。
…!
パニックになっている俺たちを押しのけ、颯爽と線路に飛び降りる人影が目に入った。
霜月だ!!