プロローグ 喪失と喪失
――この日、少女はほんとうの意味でひとりになった。
古びたアパートメントの一室。
そこに、老人と少女が居た。
半開きになった雨戸から陽光が漏れる薄暗い室内。
ベットに横たわるのは白髪でシワだらけになった老人。
その傍に控え、ただ静かにその手を握っているのは、鮮やかな金髪の年若い少女だ。
「……ぐふっ! げほっげはっ……」
何度目かの咳き込みと吐血。
老人の痩せこけた指の隙間から血が溢れ、くすんだシーツをなお赤黒く染め上げていく。
それを淡々と、機械的に拭き取る少女に、
「ファビア……どうやら……ここまで……らしい……」
老人は力なくかすれた声で、ファビアという名の少女に向かって声をかける。そして、彼女に触れようと弱々しく手を伸ばし、
「お父様……?」
少女は老人を父と呼び、その言葉に応えるように手を伸ばし、老人の手に自らの手を重ねる。
「後悔はない……だが……お前を、育て……やれ……」
「話してはだめ……。身体に負担が――」
「聞け、ファビア」
弱々しい、しかし意思に満ちた一喝。
「……儂は、ここで死ぬ」
「…………」
息も絶え絶えで、しかし渾身の力を奮って老人は言葉を吐き出す。
「だがお前は……生きろ」
咳き込み、血を吐き、しかし老人の言葉は続く。生命の代わりに、遺すべきものを遺さんとして。
「幸せに……生きるのだ」
「幸せに、生きる……?」
「力は……与えた。……自身で、探すのだ。……意味……ゴフォッ! ……そし……お前……真に――」
「わかりませんお父様。……幸せに生きるとは一体――」
「――人間、らしく……」
「人間らしい、とは――」
彼女の問いも虚しく、老人は言葉を失い静かに眠りについた。
それからまもなく、一切の答えを返さぬまま、老人は静かにその生涯を閉じた。
「……お父様」
処置を続けていた少女も、もはや老人の肉体は生命を維持する能力を失ったことを理解する。
「お父様は、亡くなられた」
確認するように呟く顔に悲しみはなく、表情は一切の動きを見せない。
「私は、これで独り……」
確認するようにこぼれた言葉に、動かなくなった老人は応えを返すはずもなく。ならば自分がここに居る意義はない、と少女は静かにその場を立った。
自らが単独で生存し続けるためのマニュアルは、すべて老人が遺してくれている。それに従い、ただ生き続けることは可能だ。
彼女自身、生きることに迷いはない。
けれども、
「幸せに生きるとは、どういう意味なのでしょうか」
――老人から与えられた使命は、人間らしく『幸せに生きること』
その使命の本当の意味を理解できぬまま、彼女は『父』を喪った。
たった一つの、しかしあまりにも彼女に手の余る問いを抱え、少女はゆっくりと歩き出す。
古ぼけた建物を出た彼女の真上には、満天の星々が輝いていた。
*
「くそっ……くそっ……くそぉ……ッ」
赤沢拓人は、ごく普通の中学二年生だった。――ミュージシャンになりたいという、月並みだけれどかけがえのない夢を持った。
音楽に取り憑かれ、狂ったようにバンドに打ち込み――真摯に音楽と向き合い、ただひたすらにその本質に手を伸ばそうとしていた。
けれども、中学生の『熱病』に周囲は無理解だった。熱病のようでも、少年にとって紛れもない真実の世界を、しかしそれが熱病にすぎないと知っている両親は否定した。
それは一時の気の迷いだ、と。
プロになるなど夢物語。時間の無駄だ――そんな言葉に、やってみなければわからない、と抗うも「結果は見えている」と一蹴され、
拓人がやっとの思いで買った大切なギターを捨てられたと知った瞬間、拓人は家を飛び出していた。
「クソオヤジが……」
だが、そうして抵抗の意思を示してみても結局自分は無力なままだった。
家出をすれば何かが変わると思ったわけではない。一時の勢いに任せて飛び出しただけ。
……逃げただけだ。
バイトでもして一人で暮らそう、そう思って飛び出してから、それがいかに浅はかな考えだったか。
夜の街で、早々にカツアゲに遭い、僅かな手持ちすら失い。
自らの愚かしさを自覚し……自己を否定されたショックと、夢を認められない悔しさの狭間で、押しつぶされそうな気持ちで街の隅で膝を抱えていた ――そんな時だった。
拓人の目の前に、その少女が現れたのは。