本性
(こいつ、ホントにあの守良か?)
そう思いたくなるほど、目の前にいる少女はさまがわりしていた。
三つ編みおさげ、黒縁メガネ、膝が隠れる長いスカートという野暮ったい出で立ちの人見知りの少女の姿はそこにはない。
おさげを解いた髪はゆるくウェーブしながら痩躯を覆い、黒縁メガネを外した目は、ワイン色の瞳と、それを縁取る長い睫が、そこはかとない艶を放っている。
放課後の礼拝堂では細かく震えていた淡い色の同じ唇が、途方もなく淫靡なものに見えるのは、雹夜の錯覚なのか、それとも美芳によって計算された演出なのか。
美芳の唇がにぃっ……と歪み、唇の端から鋭い犬歯がのぞく。
吸血鬼であるとないとを問わず、ヴァンパイアの象徴である鋭い犬歯――吸血歯である。
雹夜はふいに、棺のことを思い出した。
昨日アルトが、その中に隠れて送られてきた棺である。
ゴシック趣味というよりは単に悪趣味なあの棺の天板には、朽ち果てた教会の戸口に腰かけ、髑髏を杯に人の生き血をすする吸血鬼の姿が描かれていた。
その吸血鬼と、目の前にいる少女とが、重なって見えたのだ。
「ふふっ。先輩、驚いてるみたいですね?」
「……まあ、な。だが、たしかに言われてみればそういう可能性はあったんだな」
「わたしの演技も、なかなかだったでしょう?」
「…………」
「とくに、『金髪の女性』を見たって言ったときの先輩の表情といったらなかったですね。驚き、恐れ、怒り、自責……いろんな感情がめまぐるしく入れ替わって、ああ、この人は本当に、自分の周りにいる女の子たちを大事に思ってるんだなあと思って感動しました」
雹夜はちらりとルチアの様子をうかがう。
ルチアは相変わらず、魂が抜けたようなうつろな表情で、雹夜の身体を拘束している。
「なるほどな。礼拝堂にやってきたのは、俺を混乱させるためだったのか」
雹夜はまんまと騙され、美芳を疑ってみることすらしなかった。
が、
「いいえ? それはむしろおまけみたいなものですね。だってそうでしょう? あの状況で、疑われてもいないわたしがわざわざ姿をさらすのは、リスクの方が大きいじゃないですか」
いくら演技が達者でも、ちょっとした言葉の端々から疑いを招くことだってないとはいえない。
たしかに、あの時点で容疑者として浮かんでいなかった美芳が、危険を冒してまで雹夜に接触してくる理由はない。
いや――
「……そうか。あのときだったんだな……ルチアに催眠術かなにかをかけやがったのは」
礼拝堂で、美芳との会話中にルチアが立ちくらみを起こしていた。
あのときは疲労と倉庫を荒らされたショックのせいだろうと思ってしまったが、美芳の正体を知った今となっては、答えは明らかだった。
それにあのとき、立ちくらみに襲われたのはルチアだけではない。
他ならぬ雹夜自身が、美芳との会話中に異様な感覚に襲われ、めまいを感じて長いすに倒れ込んでいたではないか。
「ご名答です。正確には、ルチアさんと、あなたにもかけようとしたんですけどね。なんだか強力なヴァンパイアらしい彼女――アルトさん……でしたか。彼女にはわたしの力は通じないかもしれないので、敬遠させてもらいました。でも、ただの人間のはずの先輩にも力が効かなかったのは、いったいどういうことなんです?」
「さて、な。案外、おまえの力も大したことなかったんじゃねーのか?」
そう言って不敵に笑ってみせると、美芳不快げに顔をしかめた。
「ぐっ……」
ルチアの腕が、雹夜の首を強く締めつけた。
美芳がよりかかっていた墓石から立ち上がり、雹夜に顔を近づける。
その顔は、こらえきれない嗜虐心で醜く歪んでいた。
「せんぱぁい……今の自分の立場、ちゃんとわかってますかぁ?」
「……っ」
ルチアの腕の力がいっそう強まり、雹夜は脳への血流が阻害されて目の前が暗くなる。
一瞬のあいだ、意識が飛んでいたのだろう。
浮遊感に襲われた次の瞬間、雹夜は地面に膝を突いていた。
「っはぁ……!」
雹夜は首を押さえ、せわしく喘ぎながら、荒い呼吸をくりかえす。
雹夜が呼吸を整えきる前に、雹夜の肩がつかまれ、地面の上にあおむけに引き倒された。
「先輩のこと、前から気になってたんですよ」
雹夜の前にしゃがみこみ、雹夜の顎をつかみながら、美芳が言った。
美芳は伸びた爪で雹夜の肌をひっかきながら首筋を撫で、シャツのボタンに手をかける。
「なんて綺麗な人なんだろう――って。こんな人を貶め、辱めて、絶望させて、屈服させて、わたしの言いなりになる人形に変えたら、どんなに素敵だろう――って」
美芳の指に力がこめられ、雹夜のシャツのボタンが弾け飛んだ。
首からさげた銀の細いホイッスルが、汗ばんだ肌の上に横たわっている。
「でも、先輩のまわりには怖い人たちがたくさんいました。いろんな人に力を使って情報を引き出して……そいつらが、先輩の家来だってこともわかりました」
美芳は雹夜のシャツのボタンを次々ともぎ取り、雹夜の裸の胸に指を這わせる。
「や、めろ……」
「ねえ、先輩。実際のところ、どうやってるんです?」
美芳の指は雹夜を焦らすように、ことさらにゆっくりと、汗ばんだ胸を撫で回す。
そのしぐさは、つきあいの長い恋人が、自分に惚れ込んでいる男に、何かをねだろうとしているかのようなしぐさだった。
「……何がだ」
「何の力もない、ただの人間の先輩が、どうやって、ヴァンパイアを従わせてるんですか? わたし、その秘密が知りたくて、たまらないんです」
「…………」
雹夜は必死で頭をめぐらせる。
美芳の目的はわかった。
美芳が雹夜の秘密を知らないこともわかった。
ならば、時間を稼ぐことくらいはできる。
その間に、氷雨やかるらが異常に気づいて、探しに来てくれるかもしれない。
「先輩……時間を稼ごう、とか思ってます?」
「…………」
美芳のワイン色の瞳は、雹夜の目に浮かぶ色を正確に読み取ってくる。
礼拝堂でのことといい、美芳の能力は視線を媒介として他人の心の中をうかがったり、操作したりすることのできるものなのだろう。
「でも、無駄ですよ?」
「……なんだと」
「鈴城かるらさん……と言いましたっけ。派手な見た目のわりに、ずいぶん、素直な方ですよね?」
「――っ!」
「わたし、教会の犬は、なんとなくわかるんです。ふつうの人とは、精神のあり方がちがうんですよね。神への信仰が自我の根底にあるから、うまくその経路を辿ってやると、ものすごく素直に言うことを聞いてくれるんですよ。今回は、ルチアさんもいましたしね」
「……あいつに……何をしやがった!?」
「ああ、怒ってる先輩、素敵ですよ。いつも斜に構えてる感じなのに、意外と情に厚い人ですよね? かるらさんとはよくお似合いだと思います」
「だから……あいつに何をしたかと聞いている!」
「ふふっ。簡単なことです。かるらさんには、あのアルトさんとかいうヴァンパイアを殺してもらうことにしたんですよ」
「てめぇっ!!」
怒りにまかせて暴れると、美芳はあっけなく雹夜を解放し、後ろにさがった。
その美芳の後ろにルチアがすばやく控える。
雹夜はその場に立ち上がり、美芳を鋭く睨みつけた。
「先輩の秘密を教えていただければ、すぐにでも戦いをやめさせますよ? 暗示を解くだけなら、携帯越しでもできますからね」
ポケットから取り出したピンクの携帯をひらひらと揺らしてみせながら、美芳はルチアをちらりと見る。
ルチアもまた人質なのだと言いたいのだろう。
雹夜はしばし黙考し、
「……本当に、それを教えれば、かるらやルチアを解放するんだな?」
「もちろんです」
「……わかった」
雹夜は苦り切った顔でうなずくと、右手を持ち上げ、手のひらを宙に向けた。
雹夜の右手に青白い鬼火が生まれ、その中から金の天秤が現れる。
実用の役には立たなそうな、手乗りサイズの天秤だが、ゴシック調の精緻な装飾が施されていて、アンティークとしては一級品だといえるだろう。
「……それは?」
「これは、俺がおやっさん――アルトの親父さんからもらった、王としての〈証〉だよ」
「それが、先輩がヴァンパイアたちを従えている秘密なんですね?」
「そういうことだ」
美芳は、金の天秤と雹夜とを見比べながら、しばし考える様子を見せた。
雹夜は背中を汗が伝うのを感じながら、その視線を受け止める。
やがて――
「……いいでしょう。それが嘘だったとしたところで、先輩には何もできないのですし」
「ルチアを解放しろ」
「先輩は、交換条件を要求できる立場にはありませんよ?」
「それは違うな。こいつは、俺自身が譲渡するつもりにならねー限り、他人のものにはならねーんだよ。身体の中に引っ込めちまえば、俺を拷問したところで手に入れることはできねえ」
「……なるほど。考えましたね。じゃあ、こうしましょう」
美芳は、スカートのポケットから手錠を取り出し、ルチアを後ろ手に拘束した。
そして、ルチアの瞳をのぞきこむ。
その瞬間、ルチアの瞳に光が戻った。
「くっ……これは……」
「ルチア!」
「おっと……まだ動かないでもらえます?」
美芳は身じろぎするルチアの手錠の鎖をつかんで、動きを封じる。
「ルチアさんにかけた力は解きましたよ。先輩は、その天秤を足下に置いて、下がってください。わたしがその天秤を確認したら、ルチアさんを解放しますから」
「……天秤を手に入れたら、もうルチアを解放しないつもりなんじゃねーのか?」
「ふふっ。信用ないですね。でも、そんなことして何になるんです? わたしの目的はその天秤であって、それさえ手に入れば、ルチアさんはもう用済みです。歳ばかり食ってたいした力もないヴァンパイアみたいですし、わたしの眷属にするには不足ですからね」
「……かるらは?」
「それは、現物を確認してからです。……で、どうします?」
「…………」
雹夜は無言で足下に天秤を置いた。
「それが賢明ですね、先輩」
「だめよ、雹夜くん! それをこの子に渡しちゃダメ!」
「うるさいですよ、ルチアさん。あなたをどうするかは、わたしの胸先三寸で決まるってこと、お忘れなく」
美芳は後ろ手に拘束されたルチアを前に押しやりながら天秤に近づく。
雹夜はその動きに合わせて数歩、距離を取った。
天秤に近づいた美芳は、ルチアを背後から突き飛ばすと、天秤をすばやく拾って大きく飛び退いた。
「ルチアっ!」
前に飛び出した雹夜がルチアを抱き留める。
「無事か!?」
「え、ええ……でも……」
ルチアが美芳の方を見やる。
美芳は、手にした金の天秤を頭上に掲げ、月の光に照らしてためつすがめつしている。
その顔が、いぶかしそうに歪んだ。
「これは……どう使うんです?」
「使う? 見たとおりのものだが」
「でも、王である証なんでしょうっ!? ヴァンパイアを従わせる聖遺物なんじゃ……!?」
「誰がそんなことを言ったよ? たしかに俺にとっちゃ大事な記念品ではあるが……それだけだ」
「だ、騙したんですかっ!?」
「べつに嘘は言ってねーよ。その天秤はたしかにヴァンパイアの王ジュリオン・ソラーレからもらったもんだし、おやっさんから授かった薫陶のおかげで、俺がこの街でちょっとした役割を果たせているのも事実だ」
「じ、じゃあ、先輩はどうやってこの街のヴァンパイアどもに言うことを聞かせてるんです!?」
「言うことなんか聞かせてねーよ」
雹夜は悠然と答えた。
「この手は、できれば使いたくなかったんだがな」
雹夜は、ボタンを飛ばされたシャツのあいだから銀の小さなホイッスルを取り出し、口にくわえた。
「そんなに知りてーんなら、教えてやるよ――この街のヴァンパイアを統べる『王』の秘密をな!」
そう宣言した雹夜は、口にしたホイッスルに鋭く息を吹き込んだ。




