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アルカドの眷属  作者: 天宮暁


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21/34

正体

 ぎぃっ……ときしんだ音を立てて、礼拝堂の扉が開く。

 

 礼拝堂の中は、いっさいの照明が落とされ、天窓を通して差し込む月光が唯一の光源だった。

 

 その月光が、夜の来訪者の顔を照らし出す。

 

 その来訪者には、月の光がよく似合っていた。

 長いつややかな黒髪に飾られた顔貌は白く、端整で、日の光よりは月の光の下でこそ、その美しさをいかんなく発揮している。

 

 女性と見まごう容姿の持ち主は、しかし、男性である。

 いま、その眉根は険しくしかめられ、赤みがかった瞳を持つ目は、闇の先にあるものを見通そうと鋭く細められている。

 研ぎ澄まされたナイフのようなその表情には、女性的な優しさはみじんもない。

 

 有門雹夜、である。

 

「そろそろ来る頃だと思ったわ、雹夜くん」


 礼拝堂の奥から、玲瓏とした声が響いた。

 祭壇の前に、白いカソック姿のブロンドの女性――ルチア・ウェスターナが佇んでいた。

 

 口を開きかけた雹夜を制して、

 

「今夜は月が綺麗よ」


 そう言ってルチアは、聖壇の脇にある扉を開け、外へと出た。


 雹夜も無言のままそのあとに続く。

 

 扉の先には、数段の角の丸くなった古い石段があり、その奥には、これもやはり古い苔むした敷石の道が、ゆるやかに弧を描きながら伸びている。

 

 道はわずかに下り勾配になっている。

 中世ヨーロッパの遺跡じみた小径だが、礼拝堂の反対側には真新しい駐車場があり、美観をずいぶん損ねている。

 

 が、二、三台しか駐められない駐車場はすぐに切れ、その先の小径は、学園裏山の雑木林の中へと入っていく。

 

 道のりとしては、百メートルもなかっただろう。

 

 ルチアの白いカソックの背中を追って歩くと、傾いた二本の石柱が現れた。

 石柱には真っ赤に錆びついた金属の門扉らしきものがぶらさがっている。

 その門の左右からは、ところどころ崩れた煉瓦塀が伸び、鬱蒼と茂る木立の中へと消えている。

 

 ルチアは錆びついた門扉を注意深く開くと、門の中へと入った。

 

 門の中にあったのは、無数の墓石だった。 

 そのほとんどは西洋式の幅の広い長方形のもので、大きいもの、小さいものさまざまにある。共通しているのは、墓石の頂点に十字架状の飾りがあることだ。

 右奥に向かって傾斜した土地の上に、大小さまざまの墓石が立ち並ぶ先には、空に向かって大きく張り出した一角があり、断崖になっているらしいそこからは、浦戸市街から浦戸湾にかけての光景が一望できる。

 

 そこは、〈聖霊の声〉が管理を任された異人墓地だった。

 

 ルチアは墓地の中をゆっくりと歩き、市街を一望できる一角の手前で足を止めた。

 

「この墓地は、江戸時代に弾圧されたキリシタンたちや、彼らを教えへと導いたヨーロッパの宣教師たちの墓所だと言われているけれど、事実はちがう。キリスト教の宣教師に紛れてやってきたヨーロッパのヴァンパイアたちの墓所なのよ」


 ルチアは振り返らないままそう言った。

 

「そうだったな。永く忘れ去られていたこの異人墓地が、学園の拡張工事にともなって潰されることになった。が、墓地を掘り返す重機が、あるとき突然故障し、重機を運転していた作業員たちに謎の皮膚病が発生した。病院で検査してみたら、ペストだったというじゃないか。工事は急遽中止され、異人墓地には疫学的な調査が行われることになった。さいわい、簡単な消毒作業で問題は解決したが、調査の過程で歴史的な遺構が発見された。戦国末期に作られた、ヨーロッパ式のカタコンベだ。その中から見つかったのが――」

「たくさんの、棺。わたしとわたしの仲間たちの眠っている――ね」

「棺の多くは損壊し、なかには白骨と、衣服の切れ端と、高そうな装飾品しか残っていなかった。が、そのなかにひとつだけ、完全な状態で保存されていた棺があった。そう――あんたの棺だ」


 ルチアは紛れもないヴァンパイア――それも、四〇〇年に渡る死の眠りから目覚めた、現代において類例のない存在だった。

 

蘇生者(リザレクト)〉――そう呼ばれることもある。


 大いなる母、始祖、与えるもの等々の異名で知られる存在だが、詳しいことは未だわかっていない。

 

 覚醒したルチアは、自らの置かれた状況を理解し、途方に暮れた。

 親しい仲間たちはすでに朽ち果て、見知ったものとていない、四〇〇年後の世界に突然放り出されたのだ。

 

 悲嘆に暮れるルチアを哀れんだ〈聖霊の声〉の司教が、学園に交渉を持ちかけ、異人墓地の跡地に礼拝堂を建設する許可を得た。司教はルチアに身の回りのことを教え、〈聖霊の声〉についてひととおりの教育を施したのち、ルチアを司祭に任じて礼拝堂の管理を任せることにした。

 

「感謝するべきなんでしょうね。でも、わたしの感情はすっかり摩滅してしまって、いい感情も悪い感情も、まるでそこに厚い膜でもあるかのように、ぼんやりとしか感じ取れないのよ。今のわたしは、こういう場合はこういう感情を持つべきだと頭で考えて、そのように振る舞っているだけ……正直、たまらないと思うこともあるわ」

「それは……」

「ううん。感情がわかないからといって、恩を感じてないわけではないの。司教がいなかったら、わたしはここまで正気ではいられなかったでしょうね。

 それに、この街にはわたしにあつらえ向きの組織があった。もちろん、〈聖霊の声〉よ」

「ああ……そうだな。〈聖霊の声〉は、ヴァンパイアのためのキリスト教会なんだからな」


 ローマから弾圧され、ときには虐殺されてきたヴァンパイアたちは、同時に敬虔なキリスト教徒でもあった。

 咎なき受難者、イエス・キリストを神の子と信じるキリスト教の教えは、皮肉にも、キリスト教の最高権威である法王庁から弾圧を受けるヴァンパイアたちにとって、またとない精神の支えとなったのである。

 

 ルチアは小さくうなずいた。

 

「そこには司教がいて、そして雹夜くんがいた。あなたにも感謝しているのよ、雹夜くん」


 ルチアを救った司教は雹夜の父の友人であり、雹夜にとっても困ったときに相談のできる頼れる大人だった。

 熱心な宗教者にありがちな押しつけがましいところがなく、ものごとのバランス感覚に長け、世事にもよく通じていた。

 

 雹夜は、司教からルチアのことに気を配ってくれるよう頼まれ、中学生の頃からたびたびこの礼拝堂へと足を運んでいた。

 最初は義務感からの訪問だったが、つきあいを重ねるうちに、ルチア・ウェスターナという女性司祭の持つ魅力にも惹かれるようになった。

 仲間の死を悼み、偶然与えられた「余生」を祈りに捧げるルチアの邪魔にならないようにと、雹夜はルチアへの想いを押し隠し、年の離れた友人としてのつきあいを守ってきたのだ。

 

「本当に……あんたなのかよ」


 だしぬけに、雹夜は聞いた。

 

「……だとしたらどうするのかしら? お優しい王さま」


 ルチアが振り返る。

 

 その瞳は赤く輝いていた。

 

 雹夜はその視線を受け止め、その場から動かない。

 

 ルチアは雹夜のすぐ前まで近づき、細い指を雹夜の頬へと伸ばした。

 教会の仕事をこなしているにもかかわらず、白く細いままの、貴族の令嬢のような指先が、雹夜の頬を伝って唇をなぞり、顎の形を確かめ、喉へ、そして首筋へ。

 

 ルチアは雹夜の首筋を愛おしげに何度もなぞると、ゆっくりと、まるで雹夜に見せつけるかのように、唇を開いていく。

 

 唇の奥には、柘榴のように赤い舌と、鋭く尖った犬歯があった。

 

 ルチアは唇を雹夜の首筋へと近づけていく。

 ルチアの唇から漏れる湿った呼気が雹夜の首筋に触れ、雹夜の脳髄に甘い痺れが走る。

 雹夜の首筋に、ルチアの犬歯が迫り――



「……なんて、ね」



 顔を起こしたルチアが、小さく笑った。

 

「少しくらいなら吸ってもいいんだぞ」

「やめとくわ。デザートは最後に取っておく主義なのよ」


 ルチアはそう言って肩をすくめる。

 

 雹夜としても、本気で疑っていたわけではなかった。

 ルチアはその昔、血の味を知っていたらしいが、現代に蘇って以降は一度も吸血行為には及んでいない。

 

 が、ルチアの過去を知るものの中には、今浦戸市で起きている吸血鬼事件について、ルチアの犯行を疑うものもいた。

 真偽のほどはわからないが、それらしい目撃情報もあり、その声が無視できなくなりつつあるというのが、先ほどの氷雨からの電話だった。雹夜もよく知る浦戸署の刑事からの情報だという。

 

 雹夜としてはナンセンスとしか言いようのない疑いなのだが、立場上、ルチアに話を聞いておかなければならなくなったのだ。

 

「やれやれ……これでふりだしに戻ったか」

「疑ってなかったのでしょう?」

「まぁな……」


 ふりだしに戻ったというよりも、まだ一歩も進んでいなかったというべきだろう。

 

 事件は大小二つ、目撃情報は雹夜の知る限りでは、小さなものが二つだけだ。

 

 もちろん、大きい方の事件は浦戸市で起きている吸血鬼事件であり、小さい方はルチアの倉庫を荒らした野菜泥棒である。

 

 それに対して目撃情報は、守良美芳が聞いたという近隣住人の証言(「金髪の若い女」)と、浦戸学園の用務員である橘美波の証言(「長い黒髪の女」)の二つ。

 

 とはいえ、美芳の情報は又聞きであり、橘の証言も確信に富むとは言いがたい。暗い中で一瞬見かけただけの相手の姿をどれほど正確に記憶できるかは疑問だ。この街にヴァンパイアが数知れず住んでいる以上、事件とはまったく無関係の人物だという可能性も否定はできない。

 

 その意味では、目撃情報よりもむしろ、吸血鬼事件を起こしそうなヴァンパイアを見つけ出し、そのアリバイを確かめていく方が手っ取り早い。

 

 だからこそ、前歴の不確かなルチアが疑われてしまったのだろう。

 

「……で、何か心当たりはないのか?」


 ルチアは〈聖霊の声〉の司祭である。立場上ヴァンパイアの知り合いが多いし、彼らの暮らしぶりや悩みにも詳しいはずだ。

 雹夜が戻ってきたのは、むしろそれを聞くためだった。

 

「残念ながら、ないわね」


 ルチアは肩をすくめながらそう言った。

 

「……そうか」


 ルチアに何かを隠している様子はなかった。もちろん、司祭としての守秘義務はあるだろうが、もし喋れないことなら「喋れない」というはずだ。

 

「……まずいな」


 雹夜がつぶやく。

 

「まずい?」

「ああ……浦戸市内に怪しいヴァンパイアがいないのだとすると、次に疑われるのは――」

「……なるほど。そういうこと」


 浦戸市内に疑わしいヴァンパイアがいないのだとすると、次に疑われるのは、最近この街にやってきた見慣れないヴァンパイアだということになる。

 

(……アルトが……? まさか!)


 アルトが吸血鬼であるなどということはありえない。

 十年前のアルトと今のアルト――双方を知る雹夜としては疑うことすら馬鹿馬鹿しい。

 

 が、それがあくまでも雹夜ひとりの確信にすぎないことも否定はできない。

 吸血鬼事件がアルトの来訪と前後して起きていることは紛れもない事実なのだ。

 

 現に、午前中にかるらがメールでアルトに気をつけるよう言ってきてもいた。

 アルトの傍目には性急としか思えない突然の来訪には何か裏があるのではないか――かるらがそう疑うのも当然といえば当然なのだ。

 

 雹夜は努めて事態を客観的に整理しようと試みるが、アルトのことがひっかかって思うように思考がまとまらなかった。

 

「……でも、ひとりだけ、気になってる子がいるわ」


 ルチアのつぶやきが、雹夜を現実へと引き戻した。

 

「気になってる?」

「ええ。雹夜くんも知ってる子よ。といっても、わたしも会ったばかりで、ひょっとしたら、という程度のことなんだけど」

「俺も知ってる……? 誰なんだ、それは?」

「それは……」

「それは?」



「わたしのこと……ですよ、先輩」



 背後から突然かけられた声に、雹夜はとっさにふりかえるが――

 

「ぐっ……!」


 雹夜の首に後ろから(・・・・)人の腕がからみつき、激しく締め上げてきた。

 

「ル、ルチア……?!」


 雹夜の首を締め上げているのは、ルチアだった。

 

 ルチアは、ふりかえろうと身体をひねった雹夜を後ろから抱きすくめるようにしてとらえ、雹夜の首をぎりぎりと締め上げてくる。

 

 その膂力はいつものルチアのものをはるかに超えている。

 あまりの膂力に、雹夜が抵抗をあきらめると、首を絞める腕の力がゆるみ、雹夜の動きをゆるやかに封じる形になった。

 

 雹夜は窮屈な姿勢のまま、首をひねり、ルチアの方をふりかえる。

 

 ルチアの顔からは表情が消え、目はうつろに宙を見つめていた。

 

 雹夜は改めて、正面へと視線を向ける。

 現れた人物は、歪な笑みを浮かべながら、雹夜へ見下すような視線を向けてきていた。

 

「そうか、おまえが……」

「ええ、わたしが話題の吸血鬼なんです。驚きました? 先輩」


 艶然と微笑みながらそう言ったのは、礼拝堂に雹夜を訪ねてきた少女・守良美芳だった。

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