対峙
礼拝堂に掲げられた十字架のタペストリーを見つめながら、彼女は苛立たしげにため息をついた。
教会のシンボルであるはずの十字架が撤去可能なタペストリーであるのは、浦戸市の、あるいは独立系キリスト教会〈聖霊の声〉の特殊な歴史によるものだと聞かされた。
禁教時代、幕府の官憲の追求を逃れるために、キリスト教の匂いを持つものはすべて、すぐに撤去して隠すことができるように改造されたのだという。
もちろん、信教の自由が保障された現在では、そんなことをする必要はない。
現在の〈聖霊の声〉の教会は、カトリックやプロテスタントのものと通じる、キリスト教会らしいデザインにされている。
タペストリーについても、むろん、磔にされたキリスト像や十字架に取り替えようという意見もあったのだが、多くの殉教者を出した禁教時代の苦難を忍ぶよすがとするべく、当時のままの形で保存していくこととなった。
本来、侵すべからざる聖域であるはずの「神の家」が、いつでも仏寺に、あるいは神社に偽装可能なよう設計されていたというのは、大いなる皮肉であり、不信心者であった彼女にとっては、神の不在の何よりの証拠のようにも思われる。
事実、今、禁教時代の信徒たちの心の支えであった十字架のタペストリーの前にひざまずいているのは、吸血鬼である彼女なのである。
吸血鬼である彼女がこうして聖域を汚しているというのに、神は何故天罰を下さないのか。
下すことができないのか。
それとも、そもそも天罰を下すべき神など存在しないのか。
あるいは、罪深き罪人を罰さずにおくことこそが、なによりの罰だとでも言うのか。
罰を受けた罪人よりも、罰を免れた罪人の方が、心に抱く苦しみは重い。
その言い分には、なるほど一理はあるのだろう。
実際、彼女としても、吸血鬼たることで背負う精神的な十字架の重みを感じないわけではない。
だが、たとえ吸血鬼がその精神に十字架を背負うのだとしても、憐れな吸血鬼の犠牲者たちは、それでどう救われるというのだろう。
何の慰藉も与えられずに単なる快楽の具として消費された犠牲者に、いったい神は何を約束できるというのだろう。
神が力なきものを捨て置くつもりなのであれば、力あるものとなった彼女としては、彼ら力なきものを虐げることをもって、神に対する異議申し立てとするのみである。
彼女がこうしてひざまずき、神に対して祈りを捧げているのは、そうすることこそが、神に対する何よりの挑発であり、冒涜であると知っているからだ。
彼女を見る誰もが、彼女のことを敬虔な信徒だと思う――その事実こそがまさに、彼女にとって、何よりの涜神行為なのである。
その意味では、神をなみするものである彼女こそが、この礼拝堂に膝を屈する誰よりも、神の存在を信じ、神の顕現を希求しているのかもしれなかった。
長い祈りを終えて、彼女が立ち上がる。
夜闇に紛れた長い髪をかきあげ、彼女はつぶやく。
「有門……雹夜……」
その名前を舌の上で転がし、ひとつひとつの音節を味わってみる。
彼女も知る、美貌の少年こそが、彼女の求める力の持ち主なのだという。
「わたしは……」
力が欲しかった。
それは、彼女にとっては欲望ではなく、むしろ義務だった。
彼女は力を手に入れなくてはならない。
愛する者の生き血を啜り、吸血鬼となる道を選んだ以上、彼女にはその義務があった。
「必ず……手に入れる」
仕損じるわけにはいかない。
彼女は万端の準備を整えて、ヴァンパイアよりもヴァンパイアらしい少年をただ、待ち続ける。
その心境は、あるいは恋に似ているのかもしれなかった。
†
アルトは気づいてしまった。
事件の真相に。
それは、天啓のように訪れた。
昨夜の奇妙な夢。
朝、アルトの口のまわりを汚していた赤黒い液体。
そして、今日学園で聞き知った事実。
アルトにはことの次第が、今ようやく呑み込めた。
真相を悟ったアルトは、罪悪感に押しつぶされそうになった。
自分は、雹夜のことを騙している。
わざとじゃない。そんなことをしようだなんて思っていなかった。でも、やってしまった。
雹夜も、ひょっとしたら気がついたのかもしれない。
氷雨と電話で話す雹夜を見ながら、アルトはお腹の底から言いしれない不安がこみあげてくるのを感じていた。
雹夜は、アルトに先に帰るように言った。
アルトには言えないことを、氷雨から聞かされたのだろう。
その時の雹夜の顔には、苦渋と焦りとが浮かんでいたように思う。
信じられないことを告げられて、信じようという気持ちと、ひょっとしたらという気持ちが衝突しているような、そんな表情だった。
それとも、それはアルトが罪悪感を抱えているから、そう見えてしまっただけのことなのだろうか。
アルトはうつむき加減に学園への道をたどっていく。
雹夜は、よほど急いでいたのだろう、すでに道の先にわだかまる闇に呑まれて、その気配すら感じられない。
あるいはそれは、アルトの『罪』を聞かされたゆえの焦りなのかもしれない。
もしも雹夜にこのことを知られたら――自分はいったいどうすればいいのか。
アルトは暗澹たる気持ちで暗い夜道を進む。
と、
(……誰でしょう)
アルトは、道の先に佇む人影に気づいた。
あぜ道を舗装しただけの田舎道の真ん中に、まるでアルトを待ち受けるかのように何者かが佇んでいる。
一瞬、雹夜かと思ったが、違った。
雹夜はもっと背が高いし、髪型こそ女っぽくても、スカートを穿いているなんてことはありえない。
人影は、浦戸学園の女子制服を着ているようだった。
が――
(……あれ、は……)
アルトは眉間のあたりに、肌がひりつくような圧力を感じた。
人影の装いは、たしかに異様だった。
制服の夏服――丈の短いスカートと半袖のブラウスはいいとしても、肩から上を覆う黒いフードは、初夏の蒸し暑い夜だということをさしおいても、異様だとしかいいようがない。
しかし、それ以上に――
(……聖遺物……ですね)
ヴァンパイアとしてのアルトの超感覚は、その黒いフードから放たれる、強烈な聖気をとらえていた。
アルトは、人影から数メートル離れた地点で足を止めた。
そこにはちょうど、あぜ道に沿っていびつな間隔で並んでいる電信柱の一本があり、電信柱に設置された切れかけの夜光灯の光が、アルトとその周囲を薄暗く照らし出している。
アルトは首からさげた十字架に指先で触れた。
「誰……ですか?」
アルトの言葉に、人影がゆらりと一歩を進める。
思わず後じさったアルトを追うように、人影はさらに一歩、二歩と歩み寄ってくる。
そうして人影は、アルトを照らす夜光灯の明かりの中に入ってきた。
気まぐれに明滅する明かりが、人影の黒いフードの中を、一瞬、照らし出した。
そこに見えたのは――
「かるら……さん?」
「ええ……あたしよ、吸血鬼さん」
かるらはフードをわずかに押し上げながら、そう言った。
栗色の明るいショートヘアーは、昨日遊園地で見たときと同じく、都会的で洗練された印象をアルトに与える。が、雹夜に似て、ぶっきらぼうながらも温かさと優しさを湛えていたはずの顔には今、いかなる表情も浮かんではいなかった。
「どう……して……」
吹きつけられる強烈な聖気に、アルトの喉はからからに渇き、まともに声を発することもできない。
「見たのよ。昨夜、あんたがこっそりあいつの家から抜け出すのを」
「……っ!」
「あんたは口を真っ赤にして帰ってきたわ」
かるらの声には、アルトを弾劾する響きはなかった。
ただ淡々と事実を指摘しているだけであり――だからこそ、いかなる言い逃れももはや意味をなさないだろうことが察せられる。
アルトは、よろめきながらも、なんとか声を絞り出す。
「ソレは……っ、身体がカッテに……!」
「夢遊病? 強力な吸血鬼にはよくある話ね。たとえ本人が意識的に吸血衝動を抑えていても、寝ている間に吸血行動に及んでいる……」
「ちがいます……っ!」
「違わないわ。言っとくけど、『意識がなかったからわたしのせいじゃない』なんて言い訳は聞かないから。これは裁判じゃない……人間社会に害なす存在を刈り取る……そうね、害虫駆除と同じ。吸血鬼に生まれついたことを呪うのね……吸血鬼の姫」
「……っ」
かるらの猫目に火が灯る。
昨夜悪夢で見た、怒れるハンターの赤い目。
アルトを射貫かんとする強烈なその眼光におののきながら、アルトの脳裏に浮かんできたのは、唐突な考えだった。
これは、罰なのかもしれない。
雹夜をあざむき、罪のない人を苦しめたことの、必然の結果。
目の前にいる彼女は、厳正無情の神の審判者であって、彼女に裁かれることによってはじめて、自分の罪は赦される。
彼女は勘違いをしているが、それは雹夜を想えばこそなのかもしれないし、同じ相手を想うものとして、その気持ちはよくわかる。
あるいは、彼女になら、殺されても――
(……いえ……)
そんなのはダメだ。
アルトの脳裏に、昨日見た光景がよぎる。
雹夜のことが好きなのに、その気持ちを表に出せず、ただ振り回すことしかできない不器用な彼女。
いきなりやってきたアルトのことを煙たく思っているはずなのに、冷淡にもなりきれず、なにかと親切にしてくれた優しい彼女。
そんな彼女が、本気でアルトのことを殺したいと思っているはずがない。
それに――
(……ワタシを殺したかるらさんを、ヒョウヤは許せるでしょうか……?)
雹夜なら、許そうとするかもしれない。受け止めようとするかもしれない。
でも、二人の間に簡単には癒えがたい傷が残ってしまうかもしれない。
笑いあう二人の間に自分が割って入ったせいで、二人の関係が壊れてしまうかもしれない。
そんなことは、やはり、あってはならないことだ。
アルトは覚悟を決めた。
「説明しても、わかってもらえそうないですね……。わかりました、かるらさん。ヴァンパイアの王たるジュリオン・ソラーレが娘、アルトディーテ・ソラーレがお相手いたします」
アルトはチョーカーから下がる十字架を握りしめ、決然と言い放った。
そんなアルトに、黒いフードの下から憎しみに満ちた視線を向けながら、
「あいつを騙して、惑わせたあんたを……あたしは絶対に赦さない」
ぽつりとつぶやいたそれこそが――かるらの本音であるのにちがいなかった。




