目覚める剣
闇に落ちた礼拝堂に、小さな炎が灯る。
祭壇をぼんやりと照らし出すその炎は、三叉の燭台に灯された蝋燭の炎だった。
そのかそけき灯りの圏内に、二つの人影がある。
ひとつは祭壇の前にひざまずき、いまひとつは祭壇の奥に立っている。
祭壇の奥の人影――白いカソックを身に纏い、頭には白いフードをかぶった司祭は、左手に開いた革表紙の聖書を持ちながら、低く抑えた声で聖書を朗唱しつつ、右手で十字を切っている。
フードの奥からこぼれる朗唱の声は、まだ若い女性のものであるが、その声は礼拝堂の内部に殷々と響き渡っている。
朗唱が続く間、祭壇の前にひざまずいている人影は、微動だにしていない。
その人影もまた、漆黒のフードで頭を覆い隠してはいたが、白ずくめの司祭とは異なり、身に纏っているのは浦戸学園の女子制服だった。
「……汝、神の力を行使せんと欲するもの、汝が心をむなしくし、神の代行者となりて、神の威をこの地に示すことを誓うか」
「……誓う」
司祭の問いかけにひざまずいている人影が短く答える。
「されば、我、神の僕たるの権限をもって、汝に聖油を注がん」
司祭がそう告げると、ひざまずいている人影は黒いフードを払った。
シャギーのかかった、栗色に染めたショートヘアー。ピアス、ラメの入った口紅。
端整な顔をしているが、猫のようにつり上がった目が、少女本来の勝ち気さを滲ませている。
雹夜の『彼女』にして元・ヴァンパイアハンター、鈴城かるらだった。
いつもは雹夜に向けて斜に構えたにやにや笑いを浮かべてみせるその顔には今、なんの表情も浮かんでいない。
それは、史曜氷雨の人工的な無表情とは似て非なるものだ。
氷雨の『無表情』は、本来の性格であることに加えて、雹夜とのやりとりを愉しむためのコミュニケーションツールとしての側面があるが、今かるらの顔にある無表情は、かるらの人間としての個性を一切除去してしまったかのような、ひたすらにうつろなものだった。
かるらはうつろな表情――それを表情と呼んでいいものならば、だが――のまま、司祭に向けて頭を垂れる。
司祭は、祭壇をまわりこんでかるらの正面に立つと、祭壇に置かれていたガラスの壜を取り上げた。
壜は、長年使っているものなのだろう、口や内側の壁に内容物がこびりついていて、外から中身をうかがうことはできない。
司祭は壜の蓋を外すと、ためらう様子もなく、壜の口をかるらに向け、壜を大きく傾けた。
どろりとした琥珀色のなにかが、かるらの栗色の髪に注がれていく。
琥珀色の粘性のあるその液体は、かるらの髪から額へ、うなじへ、顔へ、ゆっくりと垂れていく。
生理的な不快感をともないそうな行為を強いられながら、かるらは身じろぎひとつしない。
琥珀色の液体は、かるらの身体を伝って制服の中にまで入り込み、かるらのブラウスや下着をじわじわと汚していく。
やがて壜の中身がなくなると、司祭は革表紙の聖書を再び開き、すばやく十字を切りながら、
「主よ、父と子と聖霊の御名によりて、秘蹟によりて浄められし者を、汝が聖寵で充たし満たしたまえ!」
司祭は厳かに言い放つとともに、十字を切っていた指をかるらの額に突きつける。
微動だにしていなかったかるらが、びくん、と震え、同時に、かるらに注がれた聖油がほのかな燐光を放ちながら揮発していく。
それはさながら、かるらの身体が黄金色の炎に包まれているかのような光景だった。
――降魔の塗油。
絶対者たる神の、現世における代行者である教会――その教会から秘蹟によって神の力を借り受ける儀式である。
有限の存在である人間としての心身を神の炎で滅却し、その空隙に神の力を呼び込むと解される儀式であるが、それはあくまでも象徴的な意味合いにおけるものであって、現代におけるその秘蹟は、秘蹟を受けるものの献身と引き替えに神の力を授けるまでにとどまる。
が、中世以前においては、心身の滅却は、まさしく文字通りの意味でもって行われ、キリスト教の敵を屠る霊的守護者――〈聖人〉を人為的に作り出す手段として利用されていた。
現在においても、その儀式は多くの危険を伴うものであるし、儀式が成功し、力を授かることができたとしても、力を授かったものの服さなければならない制約は数多い。
それだけのリスクを犯してまで、なぜかるらは力を求めたのか――?
「汝、鈴城かるら――油を注がれし聖者、涜神者を切り刻む聖なる刃の使い手よ。神の御手と成りて主が敵に神罰を下せ」
司祭の言葉に、かるらは黒いフードを跳ね上げて頭を覆う。
〈黒ずきん〉――彼女がかつて封印した、忌まわしきヴァンパイアハンターとしての二つ名。
夜の貴族たちを震え上がらせた差別主義者たちの剣は、燃えたぎる瞋恚をそのフードの奥に隠して、祭壇の前から歩み去る。
かるらが礼拝堂から出ていくのを見届けると、白ずくめの司祭がそのフードを外した。
くすんだブロンドの長髪、ハシバミ色の瞳の、整った容貌の女性だ。
いつもは眠そうに垂れている眉と目とは、今この場にあってはむしろ途方もない剣呑さと不気味さとを感じさせる。
かるらとはまた異なる、成熟した女性の持つつややかさをたたえたその唇が、ふいに歪む。
「……おもしろいことになりそうね」
そうつぶやいたのはむろん――浦戸学園〈聖霊の声〉礼拝堂の管理者にして司祭、ルチア・ウェスターナだった。
ここまで伏線ラッシュで申し訳なかったですが、次からいよいよ話が動き始めます。