疑惑
その頃かるらは、ドラキュラランドのイタリアンレストラン〈プリマヴェーラ〉の前にいた。
〈プリマヴェーラ〉は、漆喰が塗られた白い壁と、煉瓦色の瓦屋根がオシャレな平屋建ての建物で、浦戸湾を望む小高い一角にある。
今は初夏だということもあって、輝く海を背景にながめる〈プリマヴェーラ〉は、まさに地中海に面したイタリアのレストランそのものである。
昨日とは異なり、浦戸学園の制服姿のかるらは、ブラウスの背中が汗で張り付くのを感じながら、レストランの玄関を呆然と見つめていた。
昨日の『デート』で訪れた〈プリマヴェーラ〉は、遊園地内のレストランに似ず、店内は落ち着いていて、味もよく、ボリュームの面でも満足感があった。
とはいえ、今日かるらがここを訪れたのは、〈プリマヴェーラ〉のランチメニューをもう一度味わってみたいから……ではなかった。
吸血鬼事件について情報を集めている途中でふと思いついたことがあって、それを確かめるのが今日の目的だった。
が――
「……閉店っ?」
昨日訪れたばかりの〈プリマヴェーラ〉が――閉店している。
チョコレート色の両開きの扉は閉ざされ、そこには一枚の張り紙が貼られていた。
当レストラン・大衆食堂〈プリマヴェーラ〉は、
誠に勝手ながら本日より閉店させていただくこととなりました。
当レストランをご贔屓いただきましたお客さまに、スタッフ一同、
長年のご愛顧を心より感謝申し上げます。
オーナーシェフ Carmelo Bellocchio
トモコ・兼澤・ベッロッキオ
そっけないほど簡潔な文句の後に、オーナーシェフのサインが筆記体で記されている。その下にある署名はシェフの妻だろう。
張り紙からは、それなりに繁昌していたはずのレストランが突然閉店された経緯はまったく読み取れない。
「そんな……」
かるらは、この事実をどう解釈したものかわからなかった。
昨日のデートで、あの軽い感じの、いけすかないオーナーシェフがアルトに言っていた。
――今度は彼氏と夜においでよ。うちはディナーコースもやってるからさ。
イタリア語での会話だったから、雹夜にはわからなかっただろうが、ヴァンパイアハンターとして世界各地を巡っていたかるらは、メジャーな言語の日常会話くらいは理解できる。
東欧の暗殺教団にいた頃のかるらは一種の狂信者であり、ハンターとして有用な能力の習得には努力を惜しまなかったし、『神の器』としての特性も、語学の習得にはプラスに働いた。
かるらにとっては過去につながる忌々しい能力ではあるが、役に立つ以上、それを使うことにためらいはない。
その実用主義もまた、ハンター時代の遺産であるのかもしれなかったが、そんなことまで考えていては何もできなくなるし、そんな遺産であれ、それで雹夜の役に立てるのならそれでいいと、今は割り切って考えられる。
ともあれ、かるらは昨日の〈プリマヴェーラ〉でのアルトとシェフの会話を理解していた。
というより、アルトはもちろん、イタリア出身のルチアも当然会話を理解していたはずであり、あの場で話についていけていなかったのは雹夜ひとりだけだったということになる。
シェフは、アルトに『彼氏』――雹夜のことだ、もちろん――とともにまた来てほしいとプロモーションをかけていた。
なぜ雹夜の彼女が自分ではなくアルトだと思ったのか、という疑問はさておくとして、こうして翌日に閉店するというのなら、どうしてそんな誘いをかけたのか。
それに、あのシェフは新作のトマトのデザートを試供品として出してきてもいた。
翌日に閉店の決まっているレストランの新メニューを熱心に開発している、というのはあきらかにおかしい。
また、性格はともかく、シェフの腕前はたしかで、大繁盛とはいわないまでも、常連らしい客はちらほらといたのだから、経営面でいきなり行き詰まるようなことも考えにくい。
「やっぱり……本当に……?」
眉根を寄せて、かるらがつぶやく。
この街で何かが起こっている。
吸血鬼事件――それももちろんある。
かるらは身についてしまった習慣として、その手の事件の気配には敏感だ。
だが、今回のこれは少し毛色がちがうような気がしている。
「……アルトディーテ・ソラーレ」
〈灼魔の天遣〉を擁する地中海の魔王の一族・ソラーレの名は、かるらも耳にしたことがあった。
かるらのかつて所属していた――あるいは所属させられていた東欧の教団は、過去にソラーレの一族とも抗争を経験しているらしかったが、甚大な被害を出したあげくに魔王の支配地域からの撤退を余儀なくされたと聞いている。
それだけ強力なヴァンパイアの一族――それも、魔王の愛娘であるアルトがやってきたのと前後しての吸血鬼事件である。関連を疑わない方がおかしいのだが、肝心の雹夜はアルトのことをすっかり信用しきってしまっている。
だが、かるらは昨夜、見てしまった。
夜半、口を赤く染めて雹夜の家へと入っていくアルトの姿を。
「……友だちになれると、思ったんだけどな」
一瞬のことだったから、かるらの見間違いだったという可能性も否定はできない。
夜明けまで家を見張って、結局何ごとも起きなかったことも事実だ。
それでも今日ここへきたのは、まさかという気持ちがあったからだ。
アルトは、この街に雹夜以外の知り合いがいない。
それでも、もしアルトが吸血鬼なのだとしたら、仲間の手引きがあった可能性を疑うのが筋だ。この街は決して、吸血鬼にとって住みよい街ではないのだから。
とはいえ、アルトがこの街に来たばかりなのは間違いない。そこで、薄い可能性ではあるが、この〈プリマヴェーラ〉のオーナーシェフがアルトと同じくイタリア出身らしかったので、向こうでアルトと接触を持っていたのではないかと疑ってみた。
もちろん、そう思ったのは、かるらがシェフからヴァンパイアの気配を嗅ぎとっていたからであるが、レストランのオーナーシェフとして静かに暮らしているだけのヴァンパイアを、吸血鬼ではないかと疑う根拠はまったくなかった。
それは、疑いというほどのものではない、ひょっとしたら、という思いつきで、今日ここへ足を運んだのは、むしろ、その可能性を潰しておくという意味合いが強かった。
雹夜に送った警告のメールも、念のために、という程度のものにすぎない。
心のどこかで、かるらはアルトを信じたいと思っていた。
雹夜への好意をあけっぴろげに表現するアルトに嫉妬を覚えたことはたしかだが、それ以上に羨ましさの方が大きかった。
自分も彼女のようになれたら、あるいは雹夜も、自分に対して同情以上の感情を持ってくれるのではないか。
昨日一日で、アルトはかるらにとっての目標になっていたのだ。
「ううん……」
それだけではない。
東欧の薄暗い山中の陰鬱な修道院で育った自分とは異なり、地中海の明るい日差しを浴びて育ったアルトは、雹夜のことを抜きにしても魅力的な女の子で、そのくせどこか無防備なところもあって、そばにいて助けてあげたくなる相手だった。
自分の持っていないものを持っているから、羨ましく、妬ましい。
でも、だからこそ魅力的で、もっと相手のことを知りたくなる。
かるらにとってアルトは、アンビバレントな魅力を持った女の子で――もし自分も女の子じゃなかったら、きっとアルトに惚れていたんじゃないかと思う。
自分はアルトに惹かれている――そのこともまた、否定できない事実だった。
雹夜に出会って以来の心躍る出会いだと、そう思っていたのに。
「……どうして……」
かるらの顔が歪む。
昨日の時点では、まさかと思った。
信じようと思った。
でも、疑いをなくすつもりで調べはじめたら――
「……ううん。まだ、わからないよね」
昨日訪れたレストランが潰れていた、というだけでは、何の証拠にもなっていない。
ただ、かるらの心に暗雲が立ちこめてくるのは避けようがない。
アルトへの疑惑が深まるのと同時に、かるらが心の奥底に抑えこんでいた醜い感情が浮かび上がってくる。
今はまだ、首を振って、それを否定することができているが、
「もし……もし、あたしの考えてることが本当だったら……」
許せない。
かるらはアルトの雹夜への想いの強さに打たれたからこそ、雹夜の家に住むなんていう暴挙を、かろうじて認めることができたのだ。
自分の心にうずまく嫉妬や羨望と戦ってでも、アルトと仲良くなりたいと、そう思うことができたのだ。
でも――もし。
「……あいつを騙してたら。あたしたちを愚弄してるんだったら。あたしはあんたを――赦さない。絶対に」
疑惑と怒りとに満ちたかるらの表情は、むしろ、悲しげにも見えた。