盗まれたトマト
礼拝堂の裏手、菜園に面した壁面に、手作りの簡単な倉庫がある。
その倉庫の中には、ルチアが丹精込めて作り上げた野菜や香草が整然と納められている……はずだった。
が。
「ごめんなさいね、アルトさん」
倉庫へと二人を案内したルチアがそう言った。
「ひ、ひどいです……っ!」
「こいつは……」
アルトと雹夜は、倉庫の惨状を見てうめいた。
ルチアが廃材をもらってきて手ずから作り上げた木造の倉庫の中には、腰から上の高さに二段の木製の棚があり、その下には三つの大きな編み籠があった。
その編み籠のひとつが乱暴に引き倒され、その中身の残骸が周囲に飛び散っている。
それは――
「と、トマトさんが……っ」
そう――アルトが楽しみにやってきたルチア謹製・ブラッディトマトである。
「全部……やられたのか?」
「ええ……ブラッディトマトばかり全部ね」
ルチアがうなずく。
一見するといつも通りのおっとりした態度のようにも見えるが、声に少し力がない。やはり、気落ちしているのだろう。
今朝早く、礼拝堂まわりの掃除を行おうとして、ルチアは倉庫が荒らされていることに気づいたのだという。
あわてて中をのぞけば、収穫したばかりのブラッディトマトがごっそりなくなっていた。
「籠のまわりで潰れちまってるのもあるが、これだけじゃないよな?」
「そうね。籠いっぱいとは言わないけれど、ざっと百玉はあったはずだから」
「となると、ここから持ち去ったわけだな」
「そうなるわね。でも、何だってそんなことをしたのか……」
「だな。たしかに旨いトマトだが、換金も難しいし、仮に自前の販路を持ってたとしてもたいしたカネにもならねーだろ?」
「まあ、ね。この礼拝堂の雑収入としてはありがたいのだけれど、かさばる上に生ものでしょう? 盗んで売りさばくには適さないものであることはたしかよ」
「そんなの、決まってますよ!」
倉庫の地面にひざまずき、トマトの残骸を見つめながら呆然としていたアルトが、突然そう叫んだ。
「決まってる?」
「食べるためです!」
アルトは拳をぐっと握りこんで断言した。
「まあ、おまえならそうなんだろうが……」
雹夜はアルトをジト目で睨むと、再び倉庫内の状況を確認する。
「籠の上にあった棚が壊されてるのは……籠を引き倒した弾みか?」
「でしょうね。でも、そんなに脆い作りにはなってないはずよ。日曜のミサにやってくる信徒さんのなかに大工さんがいて、彼に手伝ってもらって作ったんだもの」
たしかに、壊れた棚の上の無事な棚は、倉庫奥の壁と側面の壁の両方に金具で固定された頑丈そうなものだ。試しに棚をつかんで揺さぶってみたが、びくともしない。
そもそも、たくさんの野菜をこの棚に載せることがあるのだから、それなりの重量に耐えられるようでなければ困るだろう。
無事な棚の上には香草と瓶詰めにされたトマトソースがある。
「……トマトの他は無事だったんだな」
「ええ。隣の籠にあったズッキーニには目もくれず、という感じね」
「単純な野菜泥棒ってわけでもねーのか」
「もちろん、このなかでは比較的お金になるトマトだけを狙ったという見方も、できないわけじゃないけれど」
「しかしそれだったら、礼拝堂の野菜なんて狙わずに、空き巣でもひったくりでもやればよさそうなもんだ」
倉庫を荒らした犯人の目当ては、ルチアの作ったブラッディトマトだけだったわけだ。
「と、待てよ? 犯人は『人』だとばかり思ってたが、後ろの森から野生動物が入ってきたって可能性はないのか?」
浦戸学園は山を後ろに背負った立地で、なかでも高台にある礼拝堂は、ルチアの菜園のすぐ先が山へと続く雑木林になっている。
現場の荒らされ具合から考えると、人がやったというよりは、獣のしわざだと考えた方が、納得はしやすい。
しかし、
「それは考えにくいわね。倉庫の入口の鍵が壊されていたから」
ルチアはそう言って雹夜に大きな南京錠を差し出した。
南京錠は手のひらから零れそうな大きなもので、ずしりと持ち重りがする。
その南京錠の、雹夜の小指くらいの太さのツルが、強引にねじきられていた。
「……なんだこりゃ? いったいどうやったらこんな風になるんだ?」
金属製のツルが、まるで絞った雑巾のようになっている。
「何か特別な器具でも使ったのかしら?」
「こんなことのできる器具なんてあるのか? 万力みたいなもんで、鍵のある部分とツルとを固定してねじ切った、とかか?」
そんな器具があったとしても、持っているのは特殊な職人か、あるいはそれこそプロの窃盗団くらいではないだろうか。
だが、その割には、ねじきられた南京錠にせよ、引き倒された籠にせよ、その際に壊れたとおぼしい棚にせよ――
「ずいぶん乱暴な奴だな」
特殊な工具を持っているようなプロだったら、無闇に物を壊して物音を立てるような真似はしないだろう。
いや、そもそも、そんなプロが、いくらアマチュア離れした味を誇るとはいえ、ただのトマトをごっそり盗んでいくために礼拝堂の倉庫に忍び入ったとも考えにくい。
つまるところ、手口と目的とがちぐはぐで、明確な犯人像が浮かんでこないのだ。
「うーん……」
雹夜は唸りながら腕を組んだ。
ルチアはその後ろで困った表情でたたずみ、再びしゃがみこんだアルトは潰れてしまったブラッディトマトのかけらに手を伸ばそうとしてはやめるということを繰り返している。
そうこうしているうちに、
「あ、やべっ。昼休みが終わっちまう」
雹夜はズボンのポケットから携帯を引っぱりだして画面を見た。
「ルチア、ショックを受けてるところ悪いけど……」
「ええ、アルトさんは責任を持ってお預かりするわ。そうね、ブラッディトマトはやられてしまったけれど、瓶詰めのトマトソースは無事だったから、アルトさんにはトマトソースのパスタでもごちそうしましょう」
「悪いな」
「いいのよ。身体を動かしていた方が気が紛れるわ。それに――」
「それに?」
「わたしは神に身を捧げてるのよ? 人々に奉仕することはわたしの喜びとするところだわ」
「そういやシスター……いや、司祭さまだったっけか」
「そういえばって、失礼ね。わたしはいつでもどこでも、敬虔なクリスチャンなのよ?」
ルチアはそう言っていたずらっぽく微笑んだ。
「じゃ、アルト、俺は授業があるから」
「は、ハイ。ありがとうございました」
「いいって。礼ならむしろルチアに言ってやってくれよ。
……って、昼飯を食いそびれちまったな。俺もルチアのパスタが食いたかったぜ」
「ふふっ。それはまたの機会にしましょう」
「ジュギョウ、がんばってください」
「おう」
雹夜は肩越しに手を振りながら、礼拝堂から校舎の方へと、坂道を駆け下っていった。