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予兆

「一足遅かったか」


 つぶやいたのは黒ずくめの人影だった。

 

 身に纏った大きなフードとゆるやかな外套のために、黒ずくめのシルエットはさながら悪魔崇拝の儀式を執り行う邪教徒といったありさまである。

 つぶやいた声の調子やシルエットの輪郭から、かろうじてその人影が女だということがわかる。

 

 黒ずくめの女が立っているのは、照明の落ちた部屋の中。

 誰かの私室なのだろう、家具チェーン店で買ったらしいパイプベッドとワードローブ、小さめのデスクの置かれた六畳ほどの部屋だ。家具の趣味から、部屋の主は若い男性であろうと推測できる。

 部屋の天井の三分の一ほどが斜めになっているところを見ると、屋根裏部屋なのだろう。

 傾いた天井が壁と接する場所に出窓が設けられているが、その出窓は開け放たれ、インテリアの中でそこだけ少女趣味なレースのカーテンが、ばたばたと、夜風を受けてはためいている。

 窓からは月の光が差し込み、ベッドの上に窓の形の影を落としている。

 

 黒ずくめの女の目は、そのベッドの上に注がれていた。

 ベッドの上には部屋の主らしい男性が伏せっている。

 

 いや――死んでいるのだ。

 

 窓から差し込む月の光に照らされた男の首元には、二つの鋭い穿刺痕があった。

 鋭利な牙によって穿たれた深く小さなその穴からは、血がゆっくりと溢れ出し、男の首を、肩を、枕を朱に染めていく。

 

 黒ずくめの女は、外套の裾から白い指先を伸ばし、見開かれたままの男の瞳を閉じさせる。

 

「必ず……倒す」


 女はすばやく十字を切ると、部屋の中、何もない空間をじっと睨んだ。

 そこに、倒すべき何者かがいるかのように。

 

「逃げ切れると思うな……吸血鬼」


 憎々しげにつぶやく黒ずくめの女のフードが風に揺れた。

 窓から差し込む月光が、窓ガラスに反射して、女の顔を――

 

    †

 

 目を開くと、見慣れたベッドの天蓋があった。

 

「えっと……」


 アルトはしばらく、今自分がどこにいるのかわからなかった。

 

「夢……ですか」


 そう。自分は父に言われて、昨日雹夜の住む浦戸市にやってきたのだ。

 

 ひさしぶりに再会した雹夜は、以前の面影を残したままぐっとかっこよくなっていた。

 白皙の美貌と女性のように長いつややかな黒髪。

 それこそフィクションに出てくる「吸血鬼」のような容貌の幼友達は、父が手紙で書いていたとおり、夜空に輝く銀月を連想させる。

 太陽の一族・ソラーレ家の宗主である父や、その娘であるアルトとは対照的だが、だからこそ、アルトの父も、アルト自身も、雹夜に心惹かれてやまないのかもしれない。

 

「なんだか……怖い夢を見ましたね……」


 月光の差し込む屋根裏部屋、夜風にはためくカーテン、安物のパイプベッドの上には、首筋から血を流す若い男。

 そして――

 

「ぞっとする声でした……」


 一瞬だけ、フードの奥で輝く赤い瞳が見えたような気がする。

 その目は何もかもを見通しているようで、今夜にもあの黒ずくめの人影がアルトの部屋に忍び入ってきそうな、そんな錯覚にとらわれてしまった。

 

 身体がぶるりと震えた。

 アルトは思わず顔を両手で覆おうとして、気づいた。



 アルトの手が……朱に染まっていた。



「きゃあああああっ!」


 思わず悲鳴を上げる。

 

「どうした!?」


 雹夜の声と前後して、扉が激しく叩かれる。

 

「な、なんでもない……です」

「すごい声がしたぞ?」

「へ、変な夢を見てたみたいです」

「そうか……環境が変わって疲れてるのかもしれねーな。体調は?」

「だ、大丈夫……です」

「なら、いいが。アルトに病気でもされたらおやっさんに申し訳が立たねえ。あのおっさん、昔からアルトのこととなると心配性だからな。調子悪いときは早めに言ってくれよ」

「わ、わかりました……」

「じゃあ、俺、ちょっとコンビニ行ってくるわ。冷蔵庫見たら、朝食うもんが何もないでやんの」


 アルトは知らないことだが、朝に弱い雹夜は普段は朝食を抜いてしまうことが多い。

 だが、客であるアルトにまでそれを強いるわけにはいかないので、急遽朝食を買いに行くことにしたのだ。

 

「あ、ハイ……いってらっしゃい」

「食いたいものとかあるか?」

「ペペロンチーノ!」

「…………」


 雹夜が沈黙する。

 扉の向こうで顔をしかめている様子が想像できて、アルトはくすりと笑ってしまった。

 

「ったく、ほんとに好きなんだな。ま、あったら買ってくるよ」


 その言葉に続いて、雹夜の気配が扉の向こうから離れた。

 階段を下りる足音、玄関の扉が閉まる音。

 雹夜はもう行ったらしい。

 

 アルトは念のためもう少しだけ様子を見てからベッドを抜け出し、洗面所へと向かう。

 鏡を覗くと、朱に染まっているのは手だけではなかった。

 アルトの口から喉もと、さらにはネグリジェの襟もとにかけて、べっとりと赤い飛沫が飛び散っている。

 

「いったい、どうして……」


 顔を青白くしながら、アルトは呆然とつぶやく。

 

 だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。

 雹夜がどこまで出かけたのかはわからないが、すぐに戻ってくることはまちがいない。

 今日は月曜で、雹夜には学校があるのだ。

 

「こんなカッコウ、見せられないですよ……」


 アルトは、見慣れないノブに苦労しながらお湯を出し、顔と首とを洗い、ネグリジェを脱いで、身体に赤い飛沫が残っていないことを確認する。

 夢で味わった恐怖と後ろめたさとが手伝って、見落としがないことを何度も何度も確認してしまう。

 

「昔から、寝ながら動くこと、たまにありましたが……」


 アルトには小さい頃から夢遊病癖があった。

 夜中に出歩いて城の厨房にあるケーキを食べてしまったり、いつのまにかジュリオンのベッドに潜り込んでいたり。果ては、知らない野良猫を捕まえたまま中庭の芝生の上で眠っていたことまであった。

 

「でも、こんなこと、これまでなかったですね」


 やはり、環境が大きく変化したからだろうか。

 長いあいだ望んでいたはずの変化でさえ、知らず知らずのうちに大きなストレスとなってしまうこともあるという。

 

 雹夜の元で暮らすというのは、手紙ではジュリオンの着想だということになっているが、もともとアルト自身が望んでいたことでもあった。

 

 幼い頃、アルトが雹夜に抱いていたのは、漠然としたものながらも恋心だったと思う。

 実際、浦戸市から南イタリアの居城へと引っ越してからしばらくのあいだ、アルトは泣きわめいたり、逆に塞ぎこんでしまったり、情緒が不安定な状態が続いたのだという。

 

 ジュリオンもこれには困り果て、いっそのこと雹夜とその家族を居城に招いてしまおうとすら考えたらしい。

 時間が経つにつれてアルトは落ち着きを取り戻し、その計画は立ち消えになったが、アルトの心の中に刻まれた、遠く極東の島国に暮らす美貌の少年の像が消えてなくなることはなかった。

 

 とはいえ――

 

「自信……なかったです」


 自分の中の『雹夜』は、現実の雹夜と同じものなのだろうか?

 幼い日の思い出を、自分にとって都合よく美化しただけなのではないのか?

 同年代の少女が夢に描くような『白馬の王子様』となにがちがうのか?

 遠く離れた土地に暮らす、手の届かない存在だからこそ、素晴らしいもののように思いこんでいるだけなのではないのか?

 つまるところ――自分の中にある雹夜への想いは、はたして本物なのか?

 そんな疑問が、次から次へと頭に浮かんできて、離れなかった。

 

 悲嘆からは立ち直り、元通りの生活を送れるようになった後も、アルトは時折、遠い目で空を眺めていることがあった。

 泣き虫なところはあるが、明るく活発な子どもだったアルトの顔貌に、憂愁の影が宿るようになった。そのことに、父であるジュリオンも気がついた。

 

『おまえはまちがいなく俺の娘だよ』


 ジュリオンはそう言った。

 

 満月の夜だったと思う。高台に築かれた城のバルコニーからは、領民たちの素朴な暮らしの成果であるのどかな田園風景が一望できた。冷たい夜風に吹かれながらでもながめていられるのは、その風景の持つあたたかさのおかげだろう。

 

『あいつのことが忘れられないなら、会いに行けばいい』


 父の言葉に、アルトはぱっとふりかえった。

 雹夜と別れてから三年――アルトはまだまだ幼いが、顔つきや体つきは次第に女のそれへと近づこうとしていた。

 

『だが、おまえの歳ではまだ、男女の機微はわかるまい。そうだな……あと七年。おまえが少女としての花盛りを迎えたとき、それでもまだあいつへの想いが変わらなかったら。あいつに会いに行くがいい』


 七年――幼い少女にとっては果てしなく長く感じられる年月だ。

 アルトの表情が曇ったのがわかったのだろう、ジュリオンは、

 

『……大丈夫だ。おまえは、俺と同じで、一度惚れてしまえば一生惚れ抜いてしまう性質(たち)だ。ただ、それがあまりに早すぎたもので、親としては平静ではいられぬのだ。それに、あの年頃の少年は、男として、まだおまえを受け入れるだけの準備ができていないのだよ』


 慈愛に満ちた父の言葉に、決してジュリオンが意地悪でそんなことを言っているのではないことがわかった。

 

 そして七年の月日が経ち、アルトは今こうして、雹夜の元にいる。

 

 七年の月日は少女の美貌に磨きをかけ、男ならふりかえらずにはいられない、一輪の大きな花と化した。

 

 アルトは洗面台の鏡をのぞきこむ。

 ゆるくウェーブのかかった金髪、青みがかったエメラルドの瞳、白く透き通る頬、みずみずしい桜色の唇。

 ネグリジェを脱いだためにむきだしの上半身は、男ならば見惚れ、女ならばうらやまずにはいられない、均整の取れた美しいラインを描いている。

 首のチョーカーから下がった金色の十字架が、鎖骨にかかってなまめかしい。

 自分でも、ちょっとしたものだと思う。


 だが――

「……ヒョウヤ……」


 つぶやく。

 肝心の相手がふりむいてくれなければ、いくら綺麗だろうと意味がないのだ。

 

 と、

 

「――呼んだか?」


「っひゃう!」


 いつのまに帰っていたのか、廊下から雹夜の声が聞こえた。

 

「悪い悪い、近くのコンビニ、ペペロンチーノなかったからさ、少し遠くのコンビニま…で……」


 洗面所の戸口から顔を覗かせた雹夜が固まった。

 アルトは雹夜の視線を追い――



「っき、きゃあああああっ!!」

 

 

「どわっ! す、すまんっ、着替え中だなんて思わなくて……!」

「い、いいからアッチ行っててください!」

「わ、悪かった……」


 雹夜があわてて廊下へとひっこむ。

 

「と、とにかく……朝飯、買ってきたぞ。ペペロンチーノはペペロンチーノだが、コンビニ飯だからな。おまえの口に合うかはわかんねー」

「い、いえ、いいです……。ワタシこそ朝から無理言いました」

「明日からは朝飯のことも考えておかねーとだな。じゃ、リビングで待ってるから」

「ハイ……」


 廊下から雹夜の気配がなくなった。

 

「も、もう……」


 アルトは着ていたネグリジェを胸もとに抱きながら、頬をぷくっとふくらませた。

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