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見てろ 2

その子は近所のマンションの5階に住んでいる。

ベランダの手すりに頬杖をついて、彼女はいつも眼下にある小さな公園を見下ろしている。だいたい昼下がりに彼女はベランダに現われる。

時々、重たらしい溜息を落としては長い髪を風に任せて彼方を途方も無く眺めている。

オレが公園のベンチに腰掛けてスケッチブックを開けば、こちらから意識して見上げなくても彼女から強い視線を送ってくる。

こう言ったらのぼせた奴だと思われても仕方ないだろうなあ。

だが、彼女は確かに“オレ”を見下ろしてくるんだ。そしてオレも少し離れた頭上を見上げて彼女に力なく微笑む。それに応えるかのように、彼女は不浄の一欠けらもない清い微笑を返してくれる。

それからのオレは午後の公園のベンチに座ってひたすらスケッチブックに彼女の姿を描き出す。側で近所の子ども達がかしましく騒ぎ立てていようが、大工事があってようが、空でヘリコプターが爆音を立てていようが、なに一つ気にならない。

ちょっと前までは人気の多いところでスケッチブックを開くことに躊躇いを覚えていた。なにせいい年した男が天気のいい昼下がりに働かず、タバコを加えてスケッチブックを広げているんだぞ。しかも、ガキたちの聖域である公園の汚点となってマンションの高嶺の花を見上げてるんだ。その姿はきっと上手く形容できない。まあ、海の言うとおりオレは気持ち悪いんだろう。


「・・よし」


出来上がったスケッチブックを見て一瞬、よし、と素直に思えたがやっぱりだめだ。オレは静かに五階を仰ぐと彼女の表情をまじまじとみた。彼女は少し小首をかしげてオレを見下ろしてくる。その表情は儚げで美しい。

しかし、オレが描く彼女はどこか本人と何かが極端に違う。

その雲泥の差が一体なんなのかオレはペンを走らせ終わっても分からないでいる。こうして彼女がいるマンションの側にある公園まで出向いて、毎日のように写生するがオレが描く彼女はどれも本当の彼女とかけ離れていた。


「・・いったい、なにが違うというんだ・・?」


スケッチブックを裏返して大きくマンションにかざして見せた。いつも出来上がったら彼女にその日の出来を見せる。

ふと彼女を見ると、泣いていた。

ポロポロと朝露のような儚い涙の粒が彼女のつぶらな瞳から零れている。



またか。



この頃、彼女はオレの絵を見て泣くようになった。ひとつも言葉を交わしたことの無いオレだが、彼女がなにか本気で悩んでいることが分かっていた。

だが、

きっと触れてしまえば粉々に砕けてしまうほど繊細なんだ。


触れてはいけない。

触れたら、きっと・・

あの子は砕けてしまう。


オレなんかが触れたら、きっと彼女は粉々になる。



気がつくとオレは公園のベンチで爆睡していた。横臥していた半身を起き上がらせ公園の時計を斜視すると短針は6時をさしていた。

やばい、と思ったと同時に子ども特有の弾んだ声が側で三つ聞こえた。

見るとその子たちはオレのスケッチブックを勝手に開いて見ている。


「すげ〜。うめえ〜」

「かわいい〜」

「このひとだれぇ?」


泥だらけになった手でスケッチブックを逆様にしたり真正面から見たりして、小学校低学年らしき子たちはオレが起きたことに無頓着で喋っている。

「あー・・・。こら、君たち。それお兄さんのだから返してちょうだい」

こういうときのお子さんの扱いには慣れていないもんで、なんと言えば良いのやら。まだ覚めやらぬ眠気のなかでボーっとしたまま五階を見上げると、もちろん彼女がそこにいるわけでもない。西の空に夕日が溶け込んでいる時分だ。

「ね。これ、お兄ちゃんが描いたの?」

「うん・・まあね」

適当に頷いてベンチに起き上がると、髪の毛を二つに結った女の子がさらに話し掛けてきた。

「このお姉ちゃん、わたし知ってるよ〜」

「へえ・・」

「わたしのお隣りによく来るの〜。お隣りさんはお兄さんひとりで住んでるのよー」

「へ・・え・・」

お隣りさん、か・・。

じゃあ、彼女が決してあそこに住んでいるわけではないのか。

にしても、午後からセーラー服を着てベランダに出るなんて、学校はいったいどうしているんだろうか?

さぼり?

・・いや、でも、今は長期の休みの季節ではないだろうからなあ。やっぱりさぼりか。

「お兄ちゃん、このひとのこと好きなの〜?」

「・・・・・」

ポケットから煙草を取り出して加えたところまでは良かった。三人のうちの一人の保護者らしきひとが、大声でこの子らをマンションのベランダから呼んでいる。まるでオレが危険人物のような物言いで早く帰って来いといっている。その視線が刃物のようにするどい。

「それじゃあばいばい〜」

「こんどぼくの絵をかいてよー」

「ドラ○もん描いて・描いて!!」

はいはい、と頷いてオレも人気の無い公園をおいとましようとした時だった。


公園の入口前をもの凄い爆音を立てていかついスポーツカーが通り過ぎていった。

あともう少し車の登場が早ければあの子達三人は完全に轢かれていた。

三人は無事道路を渡りきってオレに向かって元気に手を振った。ホッと胸を撫で下ろしつつ、オレはゆっくり手を振り返した。


「あははは!」


高い笑い声がスポーツカーから出てきた。何気なくそっちを瞥見したつもりが、目が釘付けになってしまったのは言うまでもない。

「また今度も連れて行ってよ。部活なんか止めちゃうからさ。いっそのこと学校もやめちゃおうかなあ〜」

酔いどれよろしくあのセーラー服の“彼女”だった。

まさか、とは思ったが、彼女に相違ない。

酒のたくさん積み込まれた袋を抱えて車から出てきたのはスーツ姿の三十代前半の見たことも無い男だった。そいつは千鳥足の彼女を支えながらマンションに連れ込むように誘っていった。

きっとオレの視線に気づいたんだろう。

へべれけの彼女は肩越しにオレをちらりと見て、眉根をしかめてすぐに前を見た。

あの視線はまるで最高に汚いものを見てしまって後悔したような顔付きだった。


彼女。 彼女。 彼女だ。 まちがいない。 彼女だ。


だっ、と公園まで戻って、いつものように五階のベランダを仰ぐと。

しばらくしてその五階の部屋の電気がついたのがわかった。


間違いない。 彼女だった。 あの、子だった。


オレがいつも愛おしさを覚える彼女なのだが、スポーツカーから出てきた彼女はまったく違う人物のように見えた。

まるで、オレがスケッチブックに描く、彼女そのものだった。


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