見てろ 1
社 瑞希。20歳。
この名前だけでオレを女だと勘違いして勝手にがっかりする奴がいる。
まあ、オレの名前なんかこの際どうだっていいんだ。
この話には関係のないことだからな。
「おなべの中が白いよっ!?げっ、カビじゃん。どうやったらお鍋にカビを繁殖させられるのよ」
くどくどと文句をたれながら、妹の海が台所で忙しく掃除をしている。
まさか。妹と一緒に住んでいるわけじゃない。
三つ離れた妹の海は母さんに似てお節介をやくのが趣味で月に1,2回オレの家に来ては掃除をして帰っていくのだ。帰り際に母さん顔負けの小言を残す。
「きゃっ、ゴキでた!お兄ちゃんっ、退治して!!きゃーっ」
「あ〜…。ほっとけほっとけ。ゴキブリは古きよき隣人だ」
ラジオからdeep purpleの名曲が流れてくる。
その太く抗う事の出来ない圧倒的なリズムに合わせて真っ白な紙の上にペンを走らせた。まるで正反対な絵が紙上に出来上がりつつある。
小学校に上がるまでお巡りさんになるのが夢だった。
小1から小6までの夢は漫画家で、中学の夢はイラストレーター、高校に上がる頃には将来のきらきらした夢がさっぱり消失していた。
挫折。
当時、高校生だったオレには壁が見えたんだろうな。要は目の前に立ちはだかる限界という名の壁によじ登ることなく諦めてしまった。
それで、いま一体なにをしているのかと言うと、気ままに絵を描いていろんな所に送っている。お偉いさんたちの脈があるか、無いか。本当は脈があったほうが喜ばしいのだろうが、このフリーター生活も気ままで悪くない。食っていけないこともないし、煙草を吸っていけない事も無い。本気になって夢を追いかけるのは中学生で卒業した。
「ねえ、お兄ちゃん」
「んー?」
「どうして人間って煙草なんか吸うの?吸ってると見た目がカッコいいから?」
「恰好よく見えるからか・・。 なに、そんなに恰好よく見える?」
海に向かって煙草を吸う真似をしてみせた。かわりに台所の海は肩をすくめて頭を捻って見せた。
「別に。オレは恰好よく見られたいから吸ってるんじゃない。ただ、吸っている間はストレスがぶっ飛ぶんだよ。吸っている間はどんなに嫌な事も、どんなに手におえない事もオレは忘れられるんだ」
「ふぅん。なんだかウソみたい。ストレスが消えちゃうなんて魔法みたい。ね、そう思わない?」
オレは生返事をして済ませた。妹と煙草で盛り上がるってのも無いだろ。
「わたしもタバコ吸ってみたい」
「ジョン・コンスタンティンになるぞ」
「は?」
いよいよ絵が佳境に入った。海が台所周辺の掃除を終えたのと同時にオレも絵を書き終えた。
出来上がった絵を覗き込んで、感嘆の声があがる。
「わっ・・綺麗なひと〜!だれ?その人」
「ん?うん…、まあね」
曖昧に返事をしたのが悪かった。海が奇妙な声を上げてオレをからかった。
「は・は・は!」
「なんだよ・・気味悪いな」
「さては瑞希くん。新しい彼女だね!?」
「違うよ」
「でしょうね。 だってこんな汚い部屋になんか誰もあがりたいとは思わないもの」
海は一気に冷めたように長嘆する。
「想像上の人?」
「いや。よく見かけるんだよ」
「どこで?」
「うん、近くのマンションで」
「やだ。その人、お兄ちゃんの何なの?」
「見かける人」
お兄ちゃんリアルに気持ち悪い、と海が立ち上がって絵を取り上げた。失礼な奴だ。
「あ・・!!」
刹那、海が叫んだ。なんだ・なんだと海を見上げると、
「私、この人、知ってる」
「えっ。本当か!?」
海は目を瞬かせて、次の瞬間には口角をニッと上げ、意地の悪い笑顔を浮かべていた。こりゃあ、まるで悪役の笑みだぞ。
「う〜そぉだぁーよぉー!」
あっはっはっは、と海は何がおかしいのか、正に頭が悪そうな馬鹿笑いをして玄関まで大股で歩いていった。それからヒールの高い靴を履き終えると側にあったバックを肩にかけた。
「ウソか本当か分からない絵ばかり描いていないで、すこしは真面目に働いたら?」
オレは、海に不興だったタバコを吸う真似をして追っ払った。
海が帰ったあとは、再び絵に没頭した。
長い黒髪に、愁いを帯びた面。
紺のソックスに、清潔感の漂うセーラー服。
ふと目を合わせると力なく微笑むその儚さ。
きっと触れてしまえば粉々に砕けてしまうほど、彼女は繊細なんだ。
触れてはいけない。
触れたら、きっと・・
あの子は砕けてしまう。