太月事務所の三兄弟、ふたたび 4
大人たちは皆、六花と老婦の柏木を残して、ハンマーとやらを探しに屋敷の中に散らばった。
それから30分が経った。
そもそも烏兎のいうハンマーがこの屋敷にあるかも疑わしいというのに、彼は「絶対にあります」と言い切ったからすごい。
携帯電話を開くと友人からのメールが三件たまっていた。六花は見もせずに削除した。たちの悪い男子学生もいたものだ。
「あなた、あのかたの弟さんなのね?」
お行儀よくソファに腰掛けていた柏木が、向かいがわに座る六花にむかって満面の笑みを浮かべた。しわが深く刻まれた目元が、彼女が微笑むとよりいっそう深くなる。
「あのかた? ああ・・。 ハンマーがどうとか言った人は、おれの兄貴です。名前は烏兎っていいます」
「まあ、変わった名前なのねえ」
「そう。 変わった名前でしょう、ほんとに」
六花は自分の名前を思って、うなずいた。自分も変わった名をしている、と。
「それは本名なの?」
「本名? おれのは本名らしいんだけど・・」
自信なさげに六花がいうと、柏木は目を丸くした。
「らしい?」
「おれにはアレを含めて兄貴が二人いるんです。 どっちも名前は変わっていて、烏兎のほかに『玉兎』、本名じゃないんだ。 芸名・・・、いや違うな。 あれは偽名か?」
柏木は、変わっているのね、と言って頬に軽く手を当てた。
「あなたのお兄さんたちは名前を偽らなきゃいけないほど、悪いことを、してしまったの?」
六花は屋敷の立派な天井を仰ぎ、赤の他人に身内のことをしゃべりすぎた自分を後悔した。それもこれも、暇すぎた口が勝手に運動したがったのがいけないのだ。
「悪いことはしていないと思います。なぜだか、おれにもわかりません」
本当はなんとなく知っていた。 兄二人は、本名が「相手」に知られると、まるごと喰われてしまう職業についている。そのため、生まれたときから本名を伏せて生きてきた。六花にいたっては、まったくそのような気遣いも手間もいらない。上の兄二人は、特別過ぎるのだ。平凡に生きている六花とは息をしている世界が違う。
「お兄さんたちの本名はご存知なの?」
やけに知りたがるばあさんだな、と思いつつも、六花は言った。
「知らないです。 あの人たちは兄弟のおれにさえぬかりないから、教えてくれません。おれだって、知ったところで手におえる話じゃないようですし・・」
この先、ずっとこの知りたがりで冒険好きそうな老婦の話し相手をしなくてはならないのか、と六花が目を回しそうになったときだ。
「奥様。」
と、若いスーツ姿の男が入り口から顔を出した。手には立派な杖を持っている。
「あら。 見つかったの?」
「ええ。見つかりました。奥様には大変わずらわしいことと存じますが、一晩さんが奥様をぜひ連れてきてほしいとのことでして」
まあ、と柏木はよろよろした足つきで若い男のところまで歩いていった。きょとん、とする六花にふんわりと手招きし、部屋を出る。
「いったいどこのお部屋にいらっしゃるの?」
「はい。来てくれたらわかる部屋、とのことでしたが・・」
若い男が導いた部屋の前にたどり着くと、柏木は言葉を無くした。ちらり、と六花が彼女の顔を盗み見すると、柏木の唇が震えていた。その震えが恐れからくるものか、はたまた悲しみ・歓喜からくるのか、六花にわかるはずもなかった。ただ六花は、さきほどから鳴り止まない携帯電話のバイブレーションを感じていた。
「奥様にはるばる来ていただきましたよ」
大仰に若い男はそういって、入室した柏木の背中に厳かな一礼をした。
「それで、烏兎さん! 俺にいったいなにができるっていうんです?!」
しっかり固定された三脚にまたがり、大きな頭をしたハンマーを両手に高々と掲げた大空の姿は、今から何か悪いことをしでかしてくれそうな悪漢に見えた。六花は少しニヤリとしてしまう。
その場に集まった者たちは、烏兎を除いてすべてが不思議そうな顔をしている。大空は特に不思議でたまらないらしく、三脚にまたがる自分がこれから何をすればいいのかと不安でたまらないらしかった。
「まあ・まあ。 大空さん、あなた、ハンマーなんか握らされて・・。一晩さんとやら、いまから何をわたしたちに見せてくれるというのですか? まさか、大空さんにハンマーでぶたせたりしませんよね?」
若い男は、三脚のそばに立つ烏兎をにらんだ。隅田は途方にくれた顔で天を仰いでいた。
「それでは皆さんが集まりましたので、話をはじめます」
烏兎は完全に彼を無視した。
若い男は屈辱に満ち、下唇を噛んだまま押し黙ってしまった。
「ご覧のとおり、今から大空さんには手にするハンマーで天井を破っていただきます」
「な、なんと・・!」
「まあ・・」
隅田も柏木も気が気でない。 天井を打ち破る? そんなことしてもらっては困る、と隅田がここになって初めて顔を紅潮させて怒鳴った。
「なんてことを言い出すんだ、あなたは! ここは私の家だ。私の家を壊してみろ、け、警察を呼んでやる!!」
ハンマーを握る本人は蒼白な面持ちで、烏兎を見下ろしている。こんなこと、できればしたくない、のが本音だ。加えて恩人の隅田に仇に熨斗をかけて返している状況を作り出してしまったようで何とも居心地が悪い。三脚の上であるし。
だが、天井をぶち破ることで、今回の奇怪な事件は止むのだというから信じたかった。
「あなたのお兄さんはいつも奇抜なかたなの?」
と柏木は傍らの六花にたずねた。
「今日は特別疲れているんだろうと思います。 兄も壁の一枚や二枚、打ち破りたくもなります」
適当なことをいう、と烏兎はちらりと三男をにらんだ。
「大空さん、お願いします」
「ちょっ、ちょっと待て! 家主の了承も得ないであなたは勝手なことをしようとするのか。天井にいったい何があるというんだ。 うん? 金なんて一銭も見つかりはしないぞ…っ!」
怒りに荒れ狂う隅田を残して、柏木が穏やかに微笑んだ。
「いいじゃないですか」
「なんですって…!?」
「天井の一枚や二枚。 ねえ、六花さん」
うん、と六花はここも適当に頷いておいた。あまり言葉数を多くしないほうが良いのは隅田の怒りに指一本も触れたくないからだ。
「困りますよ、柏木さん。 あなたが決めていいことじゃない」
「天井ならこちらが弁償させていただきます。 ええ、喜んでね。 この方は、天井に何かがあるからそうされているのでしょう? 理由のない行動は、この世に何一つありませんことよ」
ですが、と隅田が悔しそうに声をかみ締める。しかし、ここで諦めたのか脱力した足取りで部屋の隅にある椅子に倒れるように腰掛けた。
「大空さん、あなたはいつも夢をみると仰いましたね」
ええ、と大空は大きく頷いた。 ハンマーを掲げた手をゆっくりと下ろす。
「ここにいる私達にもう一度お話してくださいますか」
「はい。 俺はこの屋敷に働かせてもらうようになってから、変な夢を見るようになったんです。まさに、この部屋を見下ろす夢なんです。この天井から、このベッドを見下ろす、という夢です」
柏木は興味深そうに耳を傾けている。目は、部屋をくまなく眺めている。この一瞬一瞬を逃すものかと大切そうに部屋中を見回しているのだ。
「不思議な夢ね・・」
柏木はクスクスと笑った。だが大空は真剣に話を続けた。しゃべり終わった頃には興奮しきっていた。例のクマの話になると柏木はさらに微笑んだ。彼女の理由不明なその懐かしそうな笑顔を、六花は見逃せなかった。
「それで、この部屋の天井から見下ろす夢を彼が見るから、あなたは天井を破壊しようとお考えなのですか」
若い男が、胡散臭そうに烏兎を見ると、見られるほうは大空にハンマーを構えるように指示し、
「はい。 ここを破れば、大空さんの夢はたちまち止みますし、クマの姿を見るお客の数も皆無になります。ただ、天井が落ちるだけです」
といった。
「大空さん、お願いします」
大空はごくりと唾を飲み下し、天井に狙いを定める。しかして、家主に許可をとるのを忘れない。
「隅田さん、天井を打ち破っていいですか?」
声が心なしか震えている。
「・・ああ・気が済むまで、勝手にしてくれ」
よし、と六花が場違いにも声を張り上げる。この中で一番エキサイトしているのは彼くらいだ。天井を打ち破ることをパーティーとでも考えているのだろうか。何が飛び出すのかわからないビックリ箱を覗き込むように、六花は天井をじっと見つめる。
大きくハンマーが振りかぶられた。
せつな、六花は耳にした。
烏兎がつぶやいた言葉を。
「むごい」
・・・と。