死に身が二つ 4
とにかく「やつ」の魔手から逃れる、一所懸命に朝の駅前を駆け抜けた。途中、何度か人の波とぶつかり、罵詈を飛ばされたかもしれない。かもしれない、というのは薬が切れてもう耳さえ聴こえなかったからだ。
無音の中で追いかけられる苦しみ。
俺は人の波を死に物狂いでかき分け、荒れる視界をめちゃくちゃに揺さぶってひたすら走った。
悪夢ならここで終わってほしい。ここで、夢だったか、とふかふかの布団の上で大の字になって笑ってみたい。という、そんな考えはいっさい浮かんでこない。
言ったはずだ。そんな余裕は俺にはなかった。
すぐ近くの曲がり角を曲がったときだ。少し離れた場所に、なんと「やつ」が先回りして立っていた。
たっぷり蓄えられたひげは、絶望の白色をしていた。やつは、真っ黒なスーツを着た無表情の老人だ。
「・・・・!」
俺は、すぐに気がつくべきだった。逃げている間にも背中には確かに例の氷が張り付いていたという事実に。
人間ではないやつを目の前にしたら、もはやこれまで、と誰もが思うことだろう。無論、俺こそ、そう思ったのだが、疲れきったはずの両足は一息つく前にきびすを返していた。ちんたらしている俺の叫び声を残して、体は今まさにやつを避けようと曲がり角を引き返した。
走っている間、何度も後ろを振り向いたがやつはしばらく俺を追いかけずに、道の奥に引っ込んでいる。きっと走り疲れた俺を享楽の名のもとにつぶすに違いない。潰されてたまるか、と俺は・・
空を引っ掻き、
自分が出せる限りの全速力で駅前を駆けた。人の波が衰えない駅前で、俺は何かに躓き、豪快に転んでしまった。前に倒れこんだ際に一人の歩行者を巻き添えにしてしまったらしい。俺の下敷きになった人の性別や年は分からなかった。下にしたその人に謝るべきなのだが、その余裕のない俺だ。
今だからこそ、落ち着いて、あのときの俺を語っていられるんだ。申し訳ないが、そのときの俺に余裕などなかった。
とにかく、もうすぐそこまで追いついてしまったやつから、俺は逃げなければならない。俺はその人を踏み台にして身を起こし、ばらばらになった体勢をまろぶようにたてなおし、目の前にあった野次馬の壁をかき分けた。そしたらば、なんと、やつが人壁の向こうに立っているではないか。
「くるな!」
スーツ姿の白いひげを蓄えた老人は、無表情のまま俺に手を伸ばした。その手が俺の右肩に触れようとしたところで、俺は最後の力を振り絞って、オフィス街のビルが立ち並ぶ方角に走った。人の波はそっちのほうに飲み込まれるべくして流れていく。その波の流れに乗じて、俺はやつから逃げた。後ろを振り返るとやつの姿があった。
やつは、ゆっくりと、まるで時間の束縛がない、優雅な散歩をするような足取りでこちらに向かってきていた。
刹那、俺の両足は今まで走ることしか欲しなかったのに、歩調をゆるめた。
つまり、逃げることに飽いてしまったらしいのだ。
まるで俺の意思は、頭に備わっているのではなく、両足に息衝いているかのようだ。走る事に飽いたが、生きることに飽いたわけじゃない。やつの魔手から逃れることが出来ずにいたその時だ。徐々に、聴力が戻ってきた。何か機械音がする。これは、重機が出す音だぞ。
老人は、今や俺の真っ向に立ち、そのしわがれた右手を俺の右肩に乗せた。
その手は、重くも無く軽くも無かった。
「寄るな・・!」
目をかっ、と見開いた。
そこで、三日ぶりに本当の自分が帰ってきたような心持になれた。
晴れ晴れしい気持ちになれたのに、
やっと、逃亡の束縛から解放されたと思ったのに、天から降ってきたのは鉄筋だった。