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死に身が二つ 3

いつもの朝日が某喫茶店の二階に差し込んだ。

店の主人はタバコを切らしたことに、悲しさを覚えつつ、二階の部屋にノックもせずに入った。そこに、あるはずの友人の姿はないが変わりに長い金髪を梳かす妹の姿があった。

「りか」

「なに?」

「あいつはどこにいった」

「あいつ?おじさんなら、夜中に出て行ったよ」

「おい、なぜ止めなかった。あいつは少々キてるんだぜ」

「キテル?なにが?」

兄は、妹の顔を一瞥してからソファについた。今、初めて妹の顔がこちらに向いたのだ。

「おまえ、たまには外に出ろ」

「いやだ」

「でないと、ここから放り出すぞ。ガキのお守りをいつまで兄貴にさせるつもりだ」

「私は、私で、おとなしくしているつもりだよ。お兄ちゃんは、なにもお守りなんかしていないじゃない」

ふくれっ面の妹は、兄の横顔に自嘲が浮かんだのを、しっかり見逃していた。

「まあ、いい。あいつはどこに行ったか知らないか」

「仕事だって、言ってたよ」

「ふうん」

彼はソファから立ち上がり、残りの仕事を終わらせようと階下に向かった。しかし、妹がそれを止めた。

「おにいちゃん!」

なんだ、とも言わず、ただ振り向くと、いつになく妹の顔に恐ろしさの色が浮かんでいた。きょうだい、というのは、色濃く血のつながった者の異変には、いち早く気づくものだ。

「どうした」

「おじさんが、変なの。おじさん、黒い影に怯えている・・」

彼は下りかけた階段を上がることなく、その場で立ち止まったまま、少々考えた。彼があれこれ考えている間に、妹は切に願った。

「お兄ちゃん。どうか、おじさんを助けてあげて」

両手を組み合わせる妹の姿を見て、彼は頭を掻いた。








仕事もそこそこに、どこかへ逃げよう。

逃げるといっても、同じ場所に長いこと留まることはしないつもりだ。せいぜい1時間が限度ってところだ。さもなければ、「やつ」に殺される。やつは、もうすぐそこまで来ている。やつに、距離なんて関係ないんだ。あいつは距離の疎ましさも越え、気配や音もなく現れ、俺に恐怖心を与える。あいつには、人間がうとましく思う物事の過程など、いっさい存在しないのだろう。表情ひとつ見せないが無表情の裏で楽しんでいるんだ。俺を、最高にいかれさせようとして、いかれていく俺を見て最高に楽しんでいるんだ。ぜったいにそうだ。今に俺はだめにされる。死よりも怖い何かを、あいつが隠し持っている。俺はそれを見せられるのが、こわい。


「おい」

常連客は、メガネの奥にある両眼を細め、俺をヘンな者をみるように見つめた。その目はいつもと変わらず、正常だった。しかし、俺をいぶかしむ色が強い。

「だいじょうぶか?あんた、顔色が悪いよ」

「そりゃあ、あなたと比べられたら・・勝てないよ」

ちがいない、とメガネの常連客は懐を優しくたたいた。そこに隠れているものが確かにそこにあるのを、確かめるような仕草を、彼は決まってする。個人の七癖のひとつだ。

「それで次の土曜なんだが・・」

「次はない」

「え?」

「俺はしばらく休むことにしたんだ」

「休むって、どのくらいだ?」

「さあ・・」

「さあ、って・・。そりゃあ困るぜ。俺だって趣味で仕事してるわけじゃないんだぜ。俺にも待ってる客はいるんだから。それじゃあ、あんたがいない間は・・」

と、メガネの彼は言いさして、ぐっと言葉を飲み込んだ。ついで俺の顔を急いで覗き込む。

「ほんとだいじょうぶかよ。汗が滝みたいに噴出してるぞ」

「大丈夫だ。それより俺の代わりはちゃんといるから、心配しないでくれ」

「なんだよ。先に言えよ。ややこしくしちゃってよお」

メガネの彼は急に顔を明るくした。その明るさがうらやましい。俺にも、昔はその明るさがあったっけ。

「それより、俺は急いでいるからこれで失礼するよ」

「あっ」

人ごみも疎らな路地に入るのが危険か、あるいは大勢の中にまじるのが危険か。

この3日間で学んだのは、どちらもやつには関係ないということだった。

ならば、とにかく歩くしかない。あいつに、追いつかれる前に逃げてやる。なんせ、俺は寝なくても大丈夫だからな。

 


どのくらい歩いただろう、という疑問は、この際、無意味だ。言っただろう? あいつには、距離は関係ない。俺がいくら歩いたって、あいつが俺に近づきさえすれば、その距離は無と化し、残されるのは俺がいかに逃げ切れるかという課題だけだ。


人通りの絶えた路地を歩いているときだ。背中に、例の氷を感じた。


来た


歩みを止めたらおいつかれる。そうなれば俺が殺されてしまう。

俺は必死に走った。全速力で走っているつもりなのに、両側の景色がさほど速く通り過ぎていかない。こう、走っているともがいている様な気がした。思い通りに四肢が機能しないどころか、息が苦しくなってきた。やつが、呪いをかけているんだ。俺に、解けない呪いをかけているに違いない。

走って、走って、走って。

やっと行き着いた場所が公園だった。途中で俺を追いかけるのを「やめた」らしい。おかしいな。やつは、人間のように疲れるはずがないのだけど。

ほがらかに遊ぶ子供たちの姿は見とめられないが、青いビニールシートで囲まれた箱型の家が何個か目に付いた。今日が何曜日の何日なのか、判然としなかったが、確かに太陽は上がっていた。東の高い空に月を残して、太陽が俺の背を照らした。蛇口をひねって水を飲んだ。喉を降下していく水の塊が、一晩中走り続けて酷使された喉にこたえる。

身体が、ほんの少しわからない程度に軽くなったような気がするのは、うそだろうか。

駅前の公園だからか、出勤するスーツ姿の男たちが公園のよこを通り過ぎていく。冷え切った公園の隅の、ビニールシートの家から長いひげを蓄えた爺さんたちが顔をのぞかせた。実際、じいさん、といっても、どれも長いひげをお揃いで生やしているので、老いているのかそうでないのかわからなかった。彼らは俺を見て、驚きもせず、また無表情でこちらを見ていた。じいさん、といえば、「やつ」も老人の顔をしていたな。

 しばらくベンチに腰掛ければ、上がっていた息も下がったが、急激に疲れが襲ってきた。眠くは無い。ただ、楽になりたい気がしてならない。

「うう・・」

公衆便所に向かった。用を足そうと入れば先客がいた。そいつを見た瞬間、俺は忘れかけていた俺の目的を思い出した。


(逃げなくては)


「う、うああ・・」

情けないかすれた声を出し、俺はまろぶように公園を駆け出した。

そいつは、恐怖に支配され、逃げることしかできない俺を見て、

しまった、というような顔をしていた。


おい、なんであんな顔をするんだ?


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