眠って候 1
1+1が、分からなくなるくらいに、慌てた。最高に慌てた。
そうなると手がすべる。
ドラム缶の最高に尖った部分で手を切った。
真っ暗闇だったから色を判別できなかったが、俺の体から出たんだ、赤い血が裂けた親指の腹からどっと流れた。
「おい。幾、アセんじゃねえ」
「は、は・・い…」
まるで、
右の目尻で心悸が高鳴るようだった。鬱陶しいったらなかった。
俺の心境とは裏腹に、そばでは余裕しゃくしゃくに穏やかな川のせせらぎが聞こえた。
まだあの時は厳しい冬だった。雪もちらほらと降っていたはずだ。厚いコートを羽織っていたのを覚えている。
しかし、あの時は季節などお構いなく、きたねえ汗がどっと体中から噴出していた。俺の両腕の付け根と、足の付け根から下が恐怖にガクガク震えていたってのに、向かい側ではせっせと“死体”をドラム缶に織り込む大条の姿があった。
奴め、人間じゃねえなと思った。
はっきりと聞こえはしなかったが、大条のガキはたしかに“例の”鼻歌を歌ってやがった。
例の、というのは今やドラム缶にありえない角度に折り曲げられ、綺麗に収まった仲間の死体が、生きてたころによく歌っていた歌だ。
それを奴め歌いやがってる。
完全にふりきっちまった俺の精神を、ゆっくりと口角をあげてあざ笑った。反射的に俺は大条から目をそらしたのは確かにあいつが怖かったからだ。俺は死体を目の前にしたのは初めてだし、無論、新人のあいつだって同じことだった。
目をそらした先に、タバコを吸う“服部さん”の姿があった。
「おい、泉田ひとりに何十分かける気だ。てめえもオロされてえのか」
タバコを静かに吹かす服部さんの横で、“土井さん”がわめいた。幸い、河川敷に人の姿もなければイヌッコロいっぴき居やしなかった。
「早くふたを締めやがれ」
そういって土井さんはイライラとした足取りで河川敷を先に去った。あの人はいつも怒っているが、今日は特に怒っていた。
無理もない。
上からの命令とは言え、自分の一番気に入っていた弟分を殺さなくてはならないとなればどうにかなっちまう。標的は人だ。どんな理由であるにしろ、気はどうにかなる。いや、もう全部ふりきれちまってんだ。
それから俺と大条は二人でドラム缶にふたをする作業に移った。と、ここにたどり着いてから一度も口を開かなかった服部さんがそこで割って入った。
「待て」
そう、一言、低くいった。懐をがさごそとやって、やっと取り出したのが開けられてない小奇麗なタバコだ。そして同じくピン札の束だ。真っ暗闇に沈んだなかでも俺だって目はきく。
いやになるくらいはっきりと見えた。服部さんは、生前、泉田が好き好んで吹かしたタバコと、やつが昨日稼いだぶんの金を一円も違わずドラム缶の中に入れた。大条は短く、あっ、なんて言って、金を惜しがっていた。
それから全て終えた。静めた。鎮まった。沈んだ。
あの時そばに誰もいなかったが、いいや、誰かいるに違いなかった。俺らのほかに、誰か、少なくとも見ているやつが一人はいるはずだとドキドキしてならなかった。できることなら一緒に沈んじまいたかった。こんなの、二度と御免だと拝むように見えない何かに唱えた。
大条の気取ったセダンに乗り込むと、後部座席で服部さんは静かに大きなため息をはいた。この人がため息を吐くことなんて一度も見たことなかったから、俺は居た堪れなくなって寒いのに助手席の窓を全開にして意味もなく夜の曇り空を仰いだ。みんな泉田を好いていたんだ。
「幾さん、寒いすよ。閉めてください」
下手な鼻歌まじりにハンドルを握るこいつ、
大条。
こいつだけは違った。
おれらの誰とも違っていた。