鬼の一振り 1
キーワード:辻きり
草履の鼻緒が切れた。
人の行き来が絶えない往来の真ん中で、立ち止まることもできない。
“麟之介”はびっこをひいて、道のすみに寄った。麟之介は膨れっ面の顔を上げ、目前でいそいそと新しい草履を取り出す“喜助”に言った。喜助は、麟之介と同い年で、麟之介の乳母の息子であった。二人はこの13年間ともに大きくなった。仲も良い。
「喜助。俺の歩き方が悪いと思うか?」
喜助は柔和な顔をさらに柔らかくし、ちょっと小首を傾げた。彼の癖である。何かと問われれば、ひとまず首を傾げて見せる。
「いいや。そうは思いません」
「なあ、喜助。敬語はよそうぜ」
「うん、そうだね」
見たところ、明らかに二人の服装には差異がみられたが、だからといって喜助の着物が貧相というわけではなく、麟之介の行為で喜助のような身分でもちゃんとした服を着せてもらい、今のように一緒に往来を歩いている。はたから見れば身分は違うように見えるが、彼らは同い年の朋友のようだ。
「だけど、こりゃあ酷すぎるぜ。今日一日で、草履を三足も潰しちまったことになる。ったく、面倒だなあ」
麟之介は生まれがいい。
家の者たちから若と呼ばれて育っただけもあって、それなりに金持ちの風格がある。しかし、麟之介の実母が頭を悩ませているのはその口調だった。いささか上品とは言えないのである。
「しっかし・・・」
と、麟太郎は辺りを見回した。
往来の行き交いは絶えず、ただ日のほうが暮れかかっている。橙色の夕日が西の大地で溶け出した。日が沈んでしまえば後はどっぷり暮れるまでにそう時間はかからない。
喜助は鼻緒のちぎれた草履を懐に押し込むと、荷をよいしょと背負いなおした。二人はお使いの帰りなのである。
といっても、お使いは喜助に頼まれたのだが、幼少の頃から喜助をしたっている麟之介は側を離れない。俺もついて行くといって家を飛び出した。
「さて、麟之介。帰ろう」
喜助は、敬語はよそうと言われてからそうした。やはり身分という壁は分厚く高い。越えるようなことも、打ち破ることも出来ない。しかしそれは世間の目が向いている時と家の中に居る場合のはなしだ。二人でいるときは束縛は、ただの薄っぺらい言葉のつらなりでしかない。
巳の刻に屋敷に家を出て、気づけば夜だ。二人はひたすら町の中を進んだ。気づけば今回のお使いは結構遠かったと二人は思った。
麟之介が大きな欠伸を漏らし、左腰をちらりと見下ろしてニヤリとした。
「おい喜助」
「うん?」
「俺はいつか人を斬るぞ」
「また怖いことをいってる」
「でなきゃあ刀なんて持たないぜ。いいか。俺はいつか人斬りになるために家を出るんだ」
喜助はくすくすと笑ったが、すぐに真顔になって、
「その時はお供いたします」
喜助は麟之介の言葉を少し笑ってしまったが、理由がどうであれ、彼がいつか家を出るということは知っていた。その時は自分もお供する、と誓っていた。
「ちょいと若いの。水を恵んでは下さらないか」
びくっ、と二人は文字通り飛び上がって立ち止まった。
「咽が渇いて死にそうじゃ」
軒の並んだ店の並びから外れた一つの袋小路。そこは光とは無縁で、暗闇に沈んだように何も見えなかった。だが、確かにそこから老婆のしわがれた声が聞こえた。
気味が悪い。
姿は見えねど、声は聞こえた。
「おい。どうした」
麟之介は袋小路に向かって言った。
「水が欲しいなら出て来い」
そういうと、ざっざっと片足で地をひく音がして、一人のたいそう老いた老婆が出てきた。
みすぼらしい恰好に、乱れた白髪。
着物から飛び出た四肢は骨と皮だけが張り付いたように頼りない。
麟之介から竹筒に入った水をあてがってもらうと、老婆は水を得た魚のように元気を取り戻した。その顔が大きく笑っている。二人に向かって深く頭をさげると、老婆は横目で喜助の荷を見てにやりとした。
「腹がへって倒れそうだ。食い物を恵んでくだされまいか」
「やらんといったら倒れるんだろう。じゃあ、やる」
と、はたから見ればつっけんどんに言い放った麟之介だが、言い終わった顔がにやにやとしている。老婆に興味を持ったらしい。
「握り飯が二つとある。まあ、食え」
包まれた握り飯を手渡されると、むしゃむしゃとまるで飯を喰らう獣のように、老婆はぺろりと平らげた。それを見届けて、二人は家路につこうと足を通りに向けたが、それを老婆が
「これこれ、お待ちなさい」
と呼び止めた。
もう時間が時間だ。
二人は早く家に着きたかった。急ぎの使いだと言われたのを忘れた二人ではない。
「婆さん、俺たちはこう見えて急いでる。次はいったいなんだ。着物をよこせと言うまいな」
「言わん言わん」
老婆は存外に親切にしてくれた二人を気に入ったようで目元が孫をみるような目つきになっていた。
「ひとついいことを教えてあげよう」
「なんだ」
「ここらは辻きりが出る。知っていたかえ?」
「へえ。出るのか。ついぞ知らなかった」
麟之介は少し目を丸くし、後方に立っている喜助を見た。喜助は首を傾げて知らないの意を見せた。
「だが、ただの辻きりじゃあない。こいつは、また厄介なのさ」
「辻きりはすべて厄介だよ、おばあさん」
と喜助は呆れた顔をしていった。この老婆は可笑しい。
まあ黙って聞こう、と麟之介がにやにやした。喜助は正直、このようなところで道草をくっている暇など全くないと思っていた。
だから、
「麟之介、帰ろう。もう日も暮れてしまったよ」
「ちょっとくらいいいじゃないか。もはや暮れてしまったのだ。一刻違ったくらいじゃあ咎めもせんよ」
「麟之介様がそういうのでしたら」
と、喜助は背筋を伸ばして彼の側でひかえた。
「それで、その辻きりのどこが厄介なんだ」
「まあ、お聞きなさい。そこに座るがよかろ」
老婆は適当にそこら辺の地面を指した。言われたとおり、麟之介も喜助も胡座をかいて座る。
「その辻きりの名は、羽田真平。農家の出だよ」
真平はね、と老婆は続けた。