門前で、待つ 2
五時間目の授業は英語。まだ雨が降っている。
「昨日くばったプリントの訳はしてきましたね。あれは宿題でした」
壮年の女教師はシャーロッキアンだった。度々、新しく習った文法をドイルの著したシャーロックホームズのシリーズから抜き出してくる。今回もそれだった。五行程度の英文の中に、昨日習ったばかりの文法が潜んでいるわけだが、僕は訳を書き殴ったノートを見て、改めて自分の字の汚さに嘆息してしまった。
「今日は6月17日ね。そうねえ、6+1+7で…出席番号17番の鈴木くんに訳してもらいましょう」
鈴木とは僕の隣りの席に座る男子生徒だ。彼は英語は毎時間、睡眠をとる時間だと決めているようで、このような宿題が出たことなど、彼が知るわけもなかった。腕の中に顔を埋めて眠っていた彼を後ろの席の男子生徒が揺さ振り起こした。彼はがばっ、と起き上がるとクラスの失笑をかった。
可愛そうな鈴木くんだ。
女教師は簡単な足し算を間違えて何の関係もない17番に白羽の矢を立てた。これもまた、鈴木君に知る由もない。
「じゃあ、昨日宿題に出していた訳を全部読んでちょうだい」
女教師はわくわくとした顔で、眠気眼の鈴木くんを見つめていたが、すぐにこちらに背を向けて真新しいチョークを片手にスタンバイをした。
鈴木君はよろりと席から立ち上がると、一二度辺りをきょろきょろと見渡して、教師が見ていないことを良いことに手短な僕のノートを引っつかんだ。
あっ、という間もなければ、目を丸くする暇さえ十分に与えられなかった。
彼は寝癖のついた頭をぼりぼりと掻くと、僕の顔を瞥見した。その顔はまさに、字が汚ねえ、と物語っていた。僕は知らん振りをかました。
「さあ、読んでちょうだい」
先生が押す。鈴木君は汚いノートの字を前に、最高に目を細めて読み始める。どことなく片言を喋っているようだが、先生は彼が他人の宿題を棒読みしているなど気づかない。もうどうにでもなれ、と僕は心の中で匙をぶん投げて窓の外に視線を落としていた。
訳が最後に差し掛かったときだ。ホームズが口を開く場面がある。そのときだ。
鈴木くんは言った。
「“さて、これから向かうとしよう、ワトリン君”」
クラス中が水を打ったような静けさの中に一瞬どっと落ち込み、すぐさま笑いが噴出した。壮年の女教師は呆れ顔で、
「鈴木君。ワトリンじゃないわ。ワト“ソ”ンと読むのよ。どうやったら間違うのかしらね」
鈴木君は顔を真っ赤にして席に沈み込み、教師が再び黒板に向いたときに、僕にむかってノートを放った。その横顔は苦い顔をしていた。
「ごめん。字、汚かったね」
なぜか僕が謝る体になっていた。
放課後の靴箱で、靴をおざなりに引っかけた彼は僕をチラリと見ると、ふっと乾いた笑い方をした。
「いーや。俺がわるかった。勝手にノートを奪ってスマン」
と、彼は未だに雨が降り続ける外を見て長嘆した。
「雨、降るなー」
「うん・・」
「まあ。いずれにせよ、字は綺麗にかかないとな」
「・・うん。ごめん」
だから、なぜぼくが謝っているんだよ。
僕は、彼がおざなりに傘立てのなかから傘を引っこ抜いたのを見逃さなかった。ピンクの地に色とりどりのドットがちりばめられた柄の傘は、絶対に彼の傘じゃない。だけど彼は気にした風がなく、ばっと傘を開くと、おおーと一声漏らしてドット柄にある種の感動を覚えていた。絶対に、彼のじゃない。
「それ、可愛い傘だね」
「おお、お前もそうおもうか。だよなー」
と、我が道を行く。
呆れた僕だけど、彼の悠然とした雰囲気が気になった。青葉高校に入学してから二ヶ月が経ったが、僕にはそれといった友達もいなかった。たしか鈴木君もそうだったはずだ。なにせ終日眠っている彼の姿しか見たことがなかったからだ。
「馬上って家どこ?」
ここから歩いて15分のところだと答えると、
「へえー。俺もそっちだけど、一度も見かけたことがねえな。今から用事があるのか?」
「ううん、特にない」
「じゃあ一緒に帰ろうぜ」
という事で、鈴木君といっしょに帰ることになった。生徒達のまばらに帰る流れにのって、僕らも鬱陶しい雨足の強くなるなか、歩を進めた。
そして必然的に、あの赤い屋根の家へと近づく。僕の心悸が強く速く打たれたのは、まだ、そこにあの女性の姿を見つけたからだった。
彼女は―――終日、雨に打たれて立っていたというのだろうか。
僕は生唾を飲み込み、鈴木君に話し掛けた。
「ねえ。あそこに立っている女性が見える?」
鈴木君は目が悪いのだろうか?
目を細めて、僕の指差した方を目を凝らしてじっと見た。
「ああ」
彼はやっとわかったといいた気に声をあげた。
「あの人か?」
「うん。誰だか知ってる?」
「しらねえなあ」
「そう・・・」
「おれ、ここに越してきたの今から五ヶ月くらい前だから、ここの地の利は得てないの」
「へえ・・」
「だけど、今日の朝は見かけたような気がする。おれさあ、目が悪くてさあまり周りがぼやけて見えない」
そうだったのか。
「それで、最悪なことに今日はコンタクト片方なくしちゃってさ。片方つけて途中まで学校に行っていたのはいいんだけど、途中で気分が悪くなってさ。完全にノーコンタクトで来たってわけ。片方だけ見えてて、もう片方はぼやけてるのって案外つらいなあ」
鈴木君がしみじみと言うや否や、僕はどきっとした。
先ほどまでじっと赤い屋根の家の門を見ていた女性が、今は僕ら二人をじっと見ている。あの野望に満ちた双眸に見つめられていると思うと、ぞっとした。
彼女は雨に打たれたまま、その場を一歩も動かずに僕らを手招いた。
行かないわけには、いかなかった。