ワンオブスリーの存在 4
潮通しといえばわかってもらえるだろうか。
保は血液が体中の血管を光よりも速く加速するのを感じた。
襖ごと床に倒された際に、近所に不審を知らせるに足る音がした。階上を見回る富士の助けを期待したが彼は期待を裏切り、姿を現さない。
覆面のナイフを振り下ろそうとする右手を止めるのが精一杯で、保は是が非でも回避する考えしかない。なぜ、“ここ”に覆面がいるんだ。危機的状況を前に保は憤怒に震えた。
「ふっ・・・ふふ!」
覆面はくぐもった不気味な笑い声をもらし、力を込めて上から保にナイフを突き落とそうとする。その力と保の必死に回避しようとする力がぶつかって押しつ押されつが繰り返される。
ぐっ、と覆面の力が篭り切先が保の喉元に近くなった。
させるものか。
保は右足を疎かになった覆面の右わき腹横に滑り込ませて思いっきり横に薙いだ。一切抵抗することなく覆面は横にごろりと転がった。保は肩で息をして警棒を震える両手の平で構え直した。
「ふっ・・・ふふっ・ふふ!」
本当に気味の悪い笑い方をする。覆面はゆっくりと、転がった身体を起き上がらせるとナイフをおざなりに引き寄せた。その動きは時を噛み締めるようにゆっくりとしてい、まるで保との対峙を楽しんでいるようだった。裏返せばこちらが勝つと自負しているようでもある。確信しているのだ。
「・・・・・」
保は六人の婦女暴行事件を頭に思い描いた。キーワードは覆面、ナイフ、切りかかり、暴行、殺さず、覆面を取り、自分の顔を示す。社の懸念は“顔”の死んだ犯人像。
死んだ顔?わかるか、そんなもの。死んだ顔だと?わかるか、そんなものが!
「あんた・・例の6人の犯人だな・・」
保は間合いを取りつつ問うと相手はふふッと一声もらして応えた。
「そうだよ」
声から察するに、
女か?
いや、男だろうか。なんとも奇妙な声だった。
「なぜ・・。なんでここに居るんだ・・」
「だってお巡りさんが野放しにするからさ」
「なぜ・・犯罪なんかを、どうして襲ったりするんだ」
保は自分が何を言っているのか判然としないまま、ただだらだらと言葉を吐いている自分を冴えない頭で客観的に観察していた。呼吸が不規則で自分のリズムがつかめない。逆にあちらはなれたもので余裕にも腕組している。対峙した保は手のつけようが無いほど動顛しているのに。
「おや。お巡りさん。そんなことを聞いてどうするのさ」
「あんたを捕まえて豚箱にぶち込んでやる…っ」
「ふふふ」
覆面は保と同じくらい小柄だった。よくよく考えてみると女のようだ。複数の犯行としてこちらは女の犯人らしい。
「仲間はどうした?どこに潜んでいる」
「なかま?あはっ!面白いことをいうなあ。ばかにしないでくれる?」
犯人は語尾を強めた。
喋り方はいたって稚拙。
年齢がわからない。
顔さえ見られれば判然とするが、今は不可能であった。これをどう切り抜けるか。
「おや。お巡りさん。あたりをきにしているねえ。暗闇が怖いかい?」
きっ、と保は覆面を睨んだ。しかし相手の両眼が見えない。暗闇が手を貸して、目前の人物の表情をわずかでも曇らしているように感じた。
「それとも、相棒が来ないから不安?」
「もしかして…、おまえっ、おまえの仲間が富士を・・・?」
覆面は、ふふふと笑ったがその声は低く怒気を含んでいた。ただ怒った人が「は行」の“ふ”を三回もらしただけのようだった。
「あんた。いい加減にしないと怒るよ」
「?」
何を怒っているのか、保には分からない。いずれにせよ、奴らの心理など落ち着いて解釈できるものか。
「なかま・なかま・って“ぼく”になかまは必要ないよ。ぜんぶ一人でやってやるんだ!」
だっ、と間髪入れず覆面が襲い掛かってきた。ナイフをぐっと握りそのまま保の胸に突き刺そうと切り出した。そこをやはり交わした保は身軽だった。ナイフは保の胸ではなく、粗い目の壁にぐさりと突き刺さった。埃が鈍く闇を濁した。
「あは!あはは!」
嬉嬉とナイフを引っこ抜いた犯人、後ろを振り向いた覆面の脳天に保の警棒がお見舞いされた。
呆気ない。
それは非常に呆気なく、両膝をついて覆面は畳の上に伸びてしまった。
保は覆面が右手に握ったナイフを蹴って手の届かぬ方へ飛ばした。もしかしたらこの他に凶器を所持しているかもしれない。保はこごんで覆面の身体に手をあててそれらを捜したら、出てくるは出てくる。ナイフの大小問わずあれやこれやと。よくもまあこんなに持ち歩けたものだと半ば驚愕しつつ全てを外し終わると、保は手錠をかけた。がちゃり、と音がするまで保は落ち着けないで居た。やはり呼吸のリズムは荒い。
「ふ・・ふふ」
力なく覆面が笑った。
「何がおかしい。おまえはもう捕まったんだぞ」
保はぐっと覆面の脇に手をいれて立ち上がらせた。後ろ手を手錠に束縛されても覆面は余裕に笑う。
「ふ、ふふふ」
保は落ち着かぬ心持ちで問うた。
「おい、何がいったいおかしいんだ」
無線は通じない。やはり富士はこいつの仲間にやられたんだ。大事無いことを願う事しか出来ない。
「ぼくは捕まるようなヘマはしない!」
「・・・」
「ぼくは一人でもやっていける。なかまなんて要らない。いらないんだ!」
「・・・」
いよいよイカれているな。保が手錠に手をかけて進ませようとした時だ。
「ねえ!」
と覆面がグッと頭をのけぞって保を見た。
「ぼくの顔を見たくない?ねえ、見たくない?」
「・・・うるさい。歩け」
「ぼくは6人も殴った蹴った。傷つけた。ぜんぶこのぼくがやったんだ」
「狂気の頂点をいってさぞかし悦に入っているだろうが、わたしは許さない」
「ふふふ。みんな六人とも殺さないで居たのは、ぼくがあの子達にぼくの顔を見せたかったからなんだよ。ねえ、君は強い。すばしっこい。ぼくはすばしっこいのは苦手だし、それに一発で殴れないなら興味ない。ぼくは勝ちたい。勝てない勝負の延長戦なんて気分が悪い。ぼくはね、全てにおいて単純明快を好むんだよ。次は簡単な子をやる」
「・・・」
覆面は六人ともぼくがやったと供述した。しかし、六人の似顔絵はどれも違った人物だ。
「お前・・なぜ覆面を取りたがる」
「覆面の下にあるぼくを見て驚くみんなの顔がうつくしい」
「変態が」
あまり覆面が動かないものだから保は右足をそいつの足に当てた。
「おい、御託はいい。吐いてもらいたいのはここでじゃあないんだ。警察署でなんだよ」
困った保に犯人は一瞬の隙をついて身をくねらせて手を逃れた。
迂闊だったが、犯人はそれ以上に身軽で軟体のようだ。骨が一瞬、外れたような感触が手を震わせた。ばかな。
「警棒で殴る?またぶつんだね」
「喋りすぎだ!」
と、保が向かった先に覆面の右足が保の頭を捕らえた。一撃で保の意識が朦朧とする。
どっ、と保が壁にぶつかるのを見とめて、覆面は大笑いしだした。
「あはは!初めてなんだろう?ぼくみたいな人と出会うのは。足がガクガクと震えて、声は心の内を綺麗に表している。恐れだ」
ぐっ、と身を起き上がらせようとした保の前にこごんで覆面は頬杖をついた。
莫迦な。
保は思った。かけたはずの手錠が綺麗サッパリ取り払われている。
そして覆面の手が、覆面にかかった。取り払われた覆面の下にあった顔を見て目を見開く保の前で、覆面はこう言った。
「この世には自分と同じ顔をした人が三人いるらしい。一人は君でもう一人はこの世界のどこかに存在する。そして最後の一人がこの“ぼく”だ」
覆面の下にあった顔は保を周章狼狽させるに事足りた。
覆面の下にあったのは、口角をあげてニッとする“保の顔”だった。
ひとつも違ったことがないその顔を見ているとそれは鏡と向かい合っているようだった。
「おどろいた?ぼくは君だ。君はぼくなんだ」
莫迦な、と吐き捨てる余裕も無い保の頭をぽんぽんと叩いてもう一人の保はいう。
「六人の被害者とも違った顔を伝えたらしいね。だから君たちは六人とも違う人物が犯行に及んだとくくったらしいが、ちがうんだな。六人ともなぜ犯人像に一貫性がないのか。それは簡単なことだ」
もう一人の保は、握りこぶしを保の横面にぶつけた。
「なんせ犯人の正体が自分でした、なんて言えないものね」
そいつはそれきりで、気を失う保を後に残して早々にその場から姿を消した。
ドッペルゲンガーはこの世に三人と存在するらしい。
自分と同じ顔と出会うと死ぬ、という話はよく耳にするが、その事実を記述したのは一体誰なのか? 一度自分の顔と鉢合わせした人物が、死んだ後に天国で言い伝えることができるわけでもなし。
ドッペルゲンガーについて大変興味を持っていた時期に書いた作品でした。作者の勝手な想像から出来たドッペルゲンガー像です。