ワンオブスリーの存在 3
勝手口から入るとすぐ右手に台所があった。前を歩いていた富士が振り向いて、保に廊下の右を差した。
(おれは右から周る。櫻庭は左から攻めていってくれ)
うん、と頷いて保は愈愈左へと歩みを進めた。
目がだいぶ暗闇に慣れてきたところで保はできる範囲で辺りを隈なく見渡した。見たところ空家はこちらにとって親切のようで、家財道具は忘れられたように置かれているが、辺りを見回すにはもってこいで部屋の襖と言う襖はすべて開け放たれている。しかし、逆にいうと相手もこっちの動きを安易に見れるということだ。もし本当にこの家に不審者が潜り込んでいるとすればあちらからこの家に居たんだ。地の利を得てるのは当然あちらだ。だから保も迂闊に動けないで居た。やはり慎重になってしまう。
台所を出て左を壁ずたいに進んでいくと、前方に和室らしき部屋が三部屋連なっているようだった。和室がはっきりと見えるところまでたどり着くと同時に、道が二つに分かれた。一方は和室に続く廊下と、もう片方は…
(風呂場か?)
暗闇のなかに遠めで古い型の洗濯機が見えた。脱衣所をへて浴室に繋がるようだ。保は迷った。どちらにいくべきだろうか、と。
この家は案外広いようで和室は一部屋で十畳はありそうだ。どちらに行くべきか迷っていると向こうの廊下からヒョイと富士の顔が覗いた。
富士は人差し指で自分を指し、次に浴室に向けた。自分が行く、の意だ。ふと彼の手をみると何かが握られていた。警棒だ。
(じゃあ任せた)
と、保は右の壁づたいに和室の連なりへと足を運んでいった。廊下の左手にはカーテンが閉められてい、おまけに大きな箪笥が廊下のスペースを縦に陣取っていて非常に歩きにくそうだ。
こうも静かな夜で、人気のない空家になれば聞こえてくるのは自分の呼吸と間断ない心音くらいだ。耳を打って聞こえるような心悸を頼りに保は足の歩みを進めた。
まず最初に一番目の和室に差し掛かる。
青臭くなった畳みの上に転がっていたものは、おかっぱ頭の日本人形。
保はそれをみて口角をあげた。わざわざそこに寝転がっていなくてもいいものを。
日本人形が入っていたであろう硝子箱は人形の側で横に倒れていた。しかもひびが入って今にも割れそうだ。それはまるで日本人形が勝手に這い出たような形である。ぞっとするといえばそうかもしれないが、保は畳みの上でなく和室をくまなく見回した。八畳の上に日本人形と畳がある以上ほかに物というものはない。保は静かに、日本人形を見下ろした。ぴくり、とも動かないそれが今にも顔をあげそうな気がする。ありえないことが有り得る瞬間がくると信じているようなものだった。
疑い始めると全てが怪しく思えるのも酷だな、と彼女は和室の死角――四隅――を確かめた。いきものの気配は感ぜられない以上この部屋に要はない。
次は二つ目の和室だ。そこまで辿り付くのにあのお厄介な箪笥が前を阻む。
(うーん。小さい奴はこういうときに楽するな)
と、保はするするとその横を通り過ぎようとした。
その刹那だった。
箪笥の横を通り過ぎる刹那に、足元に“いきもの”の気配を感じた。はっ、としたがもう遅い。すぐ足元にあるそれに足を取られるか命をとられるか。
しかし、
「にゃ〜」
箪笥の側で蹲っていたのは二つ目をぎらつかせた野良猫だった。
保は引きつった顔で猫を見下ろし、ふうと溜息をついたのちに猫を抱き上げた。
(驚かせやがって)
猫を反対側の廊下にパッと放すと、猫は一度こちらを見たきり一番初めの和室に入っていった。
(もしかしたらあの猫が怪しい影の正体だったりしてな。あながち富士君は間違いじゃないのかもしれない)
不幸なことに、そこで保の懸念は消えつつあり、慎重さも徐徐に薄れていった。
二つ目の和室は何も無い。あるのは虚無だけ。
三つ目の和室にさしかかったとき、保は歩みを止めた。三つ目は物置と化してい、人の踏み入る間などなく、そこは物が占拠したあとだった。さすがにここには人も入れまい、ともと来た道を引き返しだした。
二つ目の和室を通るとき、またあの箪笥を横切った。本当に不愉快なところに置かれているものだ、と保は一つ目の和室に差し掛かる。
ひょいと頭を突き出し覗き込むと先ほどの野良猫が日本人形の頭に爪を立てて遊んでいる。不気味なシーンに保は目を皿にしていた。
(……ったく。なんてこった。猫のいっぴきにこんなに慎重になっていたのか、わたしは)
やれやれ、と保の足取りが疎かになっていることに本人はいっかな気づくよしもない。足音は立てるわ廊下をずんずん歩くわでもう何を気にしたのか判然としていない。
「おい富士くん」
(おお)
と富士は浴室にずっといた。
もう喋ってもいいのか?と訝しげに保を見てくる。
「きみ、君が当たっていたよ。怪しい影の正体は猫だったさ」
浴室のほうから出てくると、富士は納得いかないように
「ふうん」
と一声もらしたきりだった。何か君おかしいな、と問いただすと、
「いやあ、さ。おかしいんだよ。偶然かとは思うけど、この家の鏡という鏡が割られているんだ」
保は首をかしげて浴室と脱衣所を見とめて頷けた。
脱衣所の鏡は物をぶつけられてヒビが入っていた。まるでくもの巣がパッと広がったようだ。浴室の大きな鏡もそれと同じく粉々である。
「へんだな」
「おれが周ってきた廊下にも一枚鏡がかけてあったんだが、それもこういうふうで。しかもさっき回った茶の間なんかはわざわざ手鏡が箪笥から引っ掻きだされた後があって、割られていた。鏡台なんかは粉々だったぜ」
お前も見なかったか、と問われた保は首をかしげた。
「鏡はみなかったな。ただ、日本人形と割られた硝子箱だけだ」
げ、と富士は身を反らした。
「日本人形?」
「あとは箪笥に、物置部屋とかした和室だけだ。見る限り猫が犯人であることは明らかだ。明らかとなった以上ここにいるのも酷だ。さあ、帰ろうか」
と、一番初めにここにたどり着いた富士のような楽観性でいる。その側で彼は鏡のことがどうにも気がかりらしく首を捻っては納得しないでいる。
「鏡がなあ・・・。どうにも不思議でならないな」
「鏡くらいなんだ。ここは空家だったんだぞ?持ち主が物をおいて姿をくらましたくらいだ。何が起こっていてもおかしくないし、気にし出したら仕様が無いだろう」
「でもなあ・・。おい、櫻庭。まだ二階が残っているぞ」
富士は二階につづく階下で上を指差した。ああ、と保はおざなりに返事をした。
「おいお前。どうしたんだ?正義のつもりじゃあなかったのか?いいかげんな返事をしやがって、もっと慎重になったらどうだ」
「君、いうけどね、割られた鏡をみたくらいで怖気づいてどうするんだい」
「…ばかいえ。怖気づいてなんかいねえ」
ずんずん、と先に富士が二階に続く階段をあがり始めたのを確認し、やれやれと保が続こうとしたそのときだった。
先ほどの猫の鳴き声が和室の方から聞こえてきた。
階下で動かないでいる保を見やって富士がもどかしそうにいった。
「おい、どうした?」
「猫が鳴いてる」
「まどろっこしいな。お前捕まえて外に放してこいよ」
「うん。そうしよう」
二階は富士に任せて、保は浴室の横を横切りもときた道を引き返し始めた。
そのあいだも猫がにゃーにゃーと忙しく鳴いている。一つ目の和室に差し掛かったとき、そこに居ると思っていた保だ。そこに猫がいないのは明らかで隣りの方から泣き声がしている。
まったく、と口を開いて一つ目の和室の畳を見てぎょっとした。
「・・・・・」
絶句。
猫が転がして遊んでいた日本人形の首と胴が離れて、それぞれ四方に飛んでいる。また派手に暴れてくれたもので、人形はもとの形を忘れたようにしんと転がっている。
さっきまでヒビの入っていた硝子箱は今や粉々に崩れていた。大方猫が暴れた時にぶつかって壊れたのだろう。
二つ目の部屋にさしかかるとき、やっぱりそこに箪笥がある。二つ目の部屋から猫の鳴き声が聞こえているのだと思っていたが、それはどうやら間違いらしく、鳴声はさきほどと同じく箪笥の横で聞こえる。ほんとうに箪笥の横が好きらしい。
保は身体を横にして、襖づたいに箪笥の横を蟹歩きをして進んだ。
猫は忙しくにゃーにゃーと箪笥の横で鳴いている。鳴声はほんとうにすぐ側だ。
「お前ねえ、外に出してやるから待ってな…」
言いさして、保は心臓が飛び出す思いにかられた。
「にゃー」
猫の鳴声はそこにあっても箪笥の横に“猫”は居ない。壁づたいに歩いた保とばったり対峙したのは、
「にゃー」
と猫の鳴声を真似る、覆面を被った“あいつ”だった。
やばい、と気づいたときにはもう遅く、嬉嬉として覆面は闇夜に鈍い光を放つナイフを手に保に襲い掛かってきた。足が地面に吸着したように動かない保はナイフを避けようと肩を一方に捻るのが精一杯で、あとは襖と一緒に二つ目の和室に倒れこんでしまった