ワンオブスリーの存在 1
『おい、瑞希くん。起きろ』
『あ・・?ああっ。すみません』
似顔絵捜査官の社瑞希は、涎を垂らした何とも情けない寝起き顔を慌ててあげた。
『あ・・ああ、櫻庭か。なんだ?』
社はまだ寝ぼけた顔を正せないのか、机上に放られていた眼鏡をかけて目を瞬かせた。声をかけてきた人物が自分よりも年下の後輩と見たらすぐに体を崩す。
『なんだ。残業なのか』
『うん?ああ、まあね。例の婦女暴行事件の犯人像が厄介でね。有り得ない話なんだな、これが』
と、社は机をはさんで向かい側に座った人物に似顔絵を差し出した。
櫻庭保は胡乱な者でも眺めるように社からそれを受け取った。幾多の似顔絵を眺めることしばし、保は開口一番に言う。
『なんだ。複数の犯行か?』
『さあ…』
曖昧に、確かな返答は避けて、社は今や冷え切ったコーヒーに手を伸ばした。
『なんで違う顔が六つもあるんだよ』
『さてね。しかし、今回の事件は奇怪なんだ。というのは、暴行された被害者に犯人は覆面を取ってわざと顔を見せるんだそうだ。しかも、覆面から現われた顔はどれも違う顔。だから複数の犯行だと考えられる、と上層部は言っていたな』
『へえ…』
保はまるで六枚の似顔絵を全て読み込む機械のように視線を紙上に走らせて犯人像を覚えようとした。
『なんでまた老婆に老爺なんかが…?あ。こりゃあまたどうして…』
息を飲んだ保は次いで大きな嘆息をした。その側で驚く保をサポートするように社は大仰しい苦笑をその顔いっぱいにたたえた。
『じいさん、ばあさん、まだ20にも満たないような青少年もいれば、30代前半のキャリアウーマンも犯行に及んだ。かと思えば体躯のいい坊主頭の大男もいる。さて今回の事件は複数の犯行か…それとも被害者の驚愕が生みだした幻か。一定性を欠いている。こうなると上層部はお手上げだ』
はっ、と保は官服のポケットに手を突っ込んだまま失笑した。
社は返してもらった似顔絵を見比べて今度は一段と大きく溜息をデスクの上に落とした。
『被害者が6人の今、何の痕跡も残さない犯人を上層部が血眼になってさがしてる。いつ殺人に移るか分からんからな』
『まあ、よく勉強してるね。一介の巡査にしてはたいしたもんだよ。誉めてやろう』
『だてにそう何度も“ここ”に忍び込んじゃいないさ。なれたもんだよ』
澄ました顔をする保を見やって社が白々しくもこういった。
『…ああ。言い忘れていたがもうすぐ警部が飯から戻ってくるよ。だいたい刑事はここを出て小15分程度で帰ってくるんだ』
『へえ。そりゃあ初耳だ。じゃあお暇させてもらうよ』
ああ、と頷いた社は、ちゃっかりと出口に向かう保に手をひらひらと振った。
『櫻庭、あんまり出すぎた真似はするなよ。今は自分の地を固めるのに専念したほうがいい』
振り返った保は呆れた顔で、
『よく言うよ』
といって、いよいよ部屋を後にした。
後に残された社はふうと溜息をつき、改めて自分が描いた似顔絵を見つめて思った。
(ううむ。おかしい)
何かが、おかしい。
その何かとは似顔絵捜査官の社にとって明確なることだった。
〈どの顔も死んでる〉
顔が死んでる=(イコール)人間じゃない者には結びつかないが、
〈うん、こりゃあ、いよいよやばくなってきたな〉
机の上にひしと広げられた計6枚の似顔絵は、被害者6人の記憶による犯人像であると同時に、警察の手元にある唯一の手がかりであった。
(どの顔も人間さまの顔をしているが“ほとけ”とは違って、また別の死んだ顔をしてる)
要は、
(全ての顔が作られた顔に見えるということだ。おれは被害者から言われた犯人の顔を描くだけであって、自らの私情を似顔絵にすることはない。むしろ今まで何枚も描いてきたが、これほどまでに違和感を覚えた事はない)
これは、
(なんか臭いな)
事件はいつも臭い。
臭く、そして残虐だ。
グロさも残虐さも、いつも“赤”をもってなされる卑劣なこと。
何が好きで赤が流れるのを好むのか、人間のグロの真理の深さとは底なし沼か奈落であるに違いない。底がないに決まっている。
始まりがなければ終わりも無い。
どこから生まれていつ参入してきたかも分からぬ。そして今回の婦女暴行事件は残酷でかつ掴み所の無い事件である。犯人は夜道を歩いている女性だけを狙って、六回にも及ぶ暴行を続けた。それは現在も進行中であるに違いない。犯人が捕まるまでは事件は勝手に一人歩きできる上、多大な可能性が生まれる。可能性とはこっちにとっては悪い意味で、あっちにとっては嬉嬉なるものだ。
犯人が犯行に及ぶ場所は六件とも某公園周辺且つ住宅地である。一件、二件と同じ場所の犯行でなくとも警察官がそこら一帯に張ることは火を見るよりも明らかであるのに、どうやってか六件とも同じような場所で起こり、犯人は燃えカスも残さず姿を消すのに成功している。
正義を掲げる人間にも一瞬の隙とは存在するようで、犯人はそこを突くのが厭に上手かった。そして何より痕跡を一つも残さないというパーフェクト主義者だった。
「顔を六つ持つオバケでもあるまいしなあ」
と、社は一人ごちて似顔絵をまとめた。
彼には彼なりに懸念があった。
被害者の言う通りに犯人像を六人と描いてきた。
こういった場合、被害者の誰もがショックを受けていてもおかしくない。実際、六人の被害者はかなりの精神的衝撃と怪我を負っていた。メンタルとフィジカルの両面をひどく害されていた彼女らが多少あいまいな犯人像を言ってもおかしくない。
しかし、
(物事を考える時の人間の両眼は意識せずとも自然と上を向く。そして思い出す時はある方向へ向くのだが・・)
六人の被害者はどれもが考える体をとった。
そう。
どの視線も上を指していた。まるで聴取されている正に今、考え出したような風であった。中にはまるで、ここに来る前に犯人像をちゃんと覚えてきたんですよ、と言いかねないほどはっきりと間断なく説明してくれた者も居た。まるで暗記のように社には聞こえた。
しかし、何れにしても『考える』と『思い出す』は断然に違うことだ。
だからといってこれは一似顔絵捜査官の懸念であって本来の事件と結びつくかどうかも知れない。悪ければ上層部に笑い飛ばされて虚しく終わるのが落ちだ。
ここで自分の懸念を保に教えても差し支えあるまい。どうせ保はまだ新米の巡査だ。上層に席を取ってどっしり構えるような位にまで達していないのだ。
社は徐に携帯電話を取り出した。
「もしもし?櫻庭、お前におれの考えを聞いてもらいたい。例の六件の婦女暴行事件についてなんだがな」
『なんだ?早くしてくれよ、瑞希くん。今から周らなきゃならないんだから』
『うんうん。まあ、黙って聞いてくれよ。すぐ終わるからさ』
社は思っていること全てを保に吐き出した。