赤子を抱いた女
電柱の上に翕然と並んだ雀が囀る。早朝、夏にしてはやけに肌寒い。片原裕二が部屋着姿のまま、ゴミステーションへ向かっていた時のことだ。
まだ辺りを出歩く者は見当たらない。彼一人、ゴミ袋の結び目を指に引っ掛けて持ち歩いている。
住宅街の狭くも広くもない中途半端な道の白線内、サンダルのカパカパという独特の足音を鳴らしながら、裕二は進む。
ポケットに手を突っ込んで煙草を触る。ソフトのさらさらとした質感が、指に優しい。
裕二はゴミステーションに到達し、網の中へゴミ袋をぶち込んだ。
帰宅するために後ろを顧みる。すると電柱の影、そこに奴がいた。
赤子を抱えた女だ。雨は降っていないのに、全身が濡れている。ぼさぼさの髪、赤黒い染みがまばらに付いた白いワンピース。赤子は裸で、臍の緒の痕がまだ綺麗に残っている。産まれたばかりなのだろうか、全体的に皮膚が赤っぽい。
子が産声を上げた。おぎゃああという泣き声が、辺りに響いた。
異常だ。女の肌の白さは生気を感じさせない。幽霊。そんな言葉が似合う。
裕二はその場に固まって動けなかった。思考は目の前の女に汚染され、手足は小さく震えて竦んでいる。蹙まった様子の裕二を、女はその黒い瞳でじっと見つめている。
「なんなんだよ・・・」
裕二がぼそりと呟く。
女は赤子を抱えたままこちらを見つめているだけで、動かない。裕二は恐る恐る足を踏み出して、女のいる電柱の横を通った。女の側を通ると、卵の腐ったような生臭いにおいがした。
後ろを振り返る。女はこちらをじっと見つめていたが、やはり動いた形跡は見られない。
すると突如として女が手を動かした。指を動かし、裕二の近くを指す。そこには猫がいた。猫は足早に道路を横断していく。
裕二は半ば逃げるように歩調を早めた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
翌日の早朝、裕二はコンビニの喫煙スペースで煙草を吸っていた。ゴミステーションまでの道を経由してこのコンビニに行ったが、昨日遭遇した謎の女はいなかった。
きっと昨日は朝早かったから寝惚けていたのだろうと、裕二は無理やり片付ける。
煙草を吸い終えた。吸い殻を灰皿の中へ放って、コンビニの屋根の下から一歩出る。それと同時だった。
突然雨が降り始めたのだ。
急雨に見舞われた裕二は走り出す。傘は持ってきていない。体が雨で濡れていく。
ゴミステーションが視界の端に映る。あの女がいた電柱もまた、見える。
「最悪だ・・・」
裕二は舌打ちする。
直後、雷が鳴った。雨が勢いを増していく。
家まではまだ距離がある。幸いなことに今日は休日。濡れても家で風呂に入れば、なんとかなる。
――ミャアオ。
猫の鳴き声が聞こえた。するといつの間にか、目の前に猫がいる。裕二は足を止められず、また猫も避けなかったため、蹴り飛ばしてしまった。
猫を蹴り飛ばした衝撃で足がもつれた裕二は思い切り転ぶ。鈍痛が頭に広がる。顔の右半分を地面に強打したようで、血が地面に流れている。
蹴り飛ばされた猫も倒れていた。昨日、あの女が指をさした猫だった。
弱々しく横たわったその猫の腹が、ふと、膨らんでいることに気付く。
だから避け切れなかったのだと裕二は理解した。同時に、猫に対する罪悪感が沸き起こった。
痛みの残る頭を上げ、濡れた地面に両手をついて立ち上がる。猫の方へ歩み寄る。金色の瞳が、裕二を捉えていた。
――おぎゃああ。
赤子の声がどこからか聞こえてきた。辺りを急いで確認してみるも、赤子の姿など見当たらない。
何を見つけようとしていたのか。この声は、猫の声だ。倒れた猫の腹の中で、泣いているのだ。裕二はその膨らんだ腹を凝視する。
濡れて毳だった白い体毛、膨らみ。間違いない。やはり、この声は猫の腹の中から聞こえる。
裕二は猫を拾い上げた。そして腹を耳元へ寄せる。
猫はやけに大人しく、呼吸以外の動作を見せなかった。
声が聞こえる。おぎゃああ、おぎゃああと、泣き叫ぶ声が。
裕二の思考は不思議と冷静だった。猫を車に轢かれないよう、道の隅へ運ぶ。猫がゆっくりと立ち上がり、のそのそと道路を横断し始める。
これでは裕二が車に轢かれないように道の隅へやった意味がない。
次の瞬間だった。車が猫へ迫ってくる。
裕二はただ呆然とその光景を眺めていた。凄まじい衝突音。猫は遠くまで吹っ飛ばされていった。
音に驚いたのか、運転手が車を停めて降りて来る。中年の男だった。男は猫を轢いたのだと知ると、露骨に嫌な顔をした。
猫は道の隅へ吹き飛んでいた。これでもう車に轢かれる心配はないが、死んだ今それに意味はない。
裕二は猫の死体へ歩み寄る。猫は頭が砕けて、口からだらしなく舌を垂らしている。血が、雨と混ざって水溜まりを作っている。内臓が破けた腹から飛び出していて、生まれるはずだった赤い皮膚の子猫が、頭を覗かせていた。子猫もまた死んでしまっていた。
裕二はどことなく気が鬱がった。
「帰るか」
アスファルトのにおいが鼻を刺激する。
雨のことなどもう気にしていなかった彼は、ゆっくりと、猫の死を噛み締めるように歩いて行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
数週間後、早朝。裕二は仕事だったため駅まで向かった。通勤ラッシュが発生する少し手前の時間、裕二は目的の電車に乗る。
車掌がアナウンスを出す。鼻にかかった声が、耳障りだった。
「はら!!!!」
早朝から、電車内には騒ぐ老人がいた。長い髭を生やした禿頭の男。男は吊り革を掴んだまま、視線をキョロキョロと動かしては大声を上げる。
この地域ではこういう気の狂った人物は珍しくない。裕二は何度も出くわしたことがある。
すると男の視線が裕二を向いた。その瞬間、男はぎょっとした様子で目を見開く。
「はらのこ!!!」
男が唾を飛ばして叫ぶ。裕二の着たスーツに、唾が付着した。泡が、スーツの生地に染み込んでいく。
「はらのこじゃ、『胎の子』!!」
男がまた唾を飛ばして大声を上げる。電車が次の駅に到着したようで、停まった。男は電車を降りて行く。
『胎の子』。一体あの男は何を言っていたのだろうか。
この車両にはもう裕二しか乗っていないようで、静寂が訪れた。電車が発進する。車掌のアナウンスが、また耳障りに鳴る。
裕二は先ほど男の唾が飛んできた箇所を目にした。すでに乾いたようで、跡は残っていない。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
仕事を終えて、帰宅した。家に帰ると共に、妻が作る料理の良い香りがした。
「ただいま」
裕二がスーツ姿のままリビングへ行き、声をかける。
「あら、おかえり。今日は早かったね」
「ああ。今日はたまたま残業がなかったからな」
自室へ向かい、ネクタイを外す。スーツを脱ぎ、消臭スプレーを振りかけて部屋に干す。風呂に入ろうと思い、裕二は着替えの下着を持って脱衣所へ向かった。
身に着けている物を脱いで、洗濯機の中へ投げ入れる。風呂場の扉を開けると、湯気が顔に直撃した。どうやら今日は風呂を溜めているらしい。
裕二は風呂の時間を満喫した後、脱衣所へ出た。脱衣所にある棚の中からバスタオルを取り出して、体を拭く。不意に洗面台の鏡を見た。湯気で曇ってはいるが、自分の姿が窺える。
――おぎゃああ。
赤子の声がした。裕二は思わず風呂場の扉を開け、確認する。赤子などどこにもいない。それならば一体どこから聞こえているのか。
裕二とその妻の間に、子供はいない。
結局、声の出所は掴めないまま時間だけが過ぎて行った。
あの日見た謎の女と、轢かれた猫の光景が頭を過る。どれも鮮明に記憶している。
自室のベッドに寝転がり、スマートフォンを開いた。体を包む柔らかな感触が心地良い。
スマートフォンをいじるのにしばらく夢中になっていると、
――おぎゃあああ。
また赤子の声が聞こえた。今度は外から聞こえた気がした。ここは二階建ての一軒家で、裕二の部屋は二階。ゆっくりと窓辺へ向かい、カーテンを開いた。
外、電柱の側にあの女が立っていた。女は相変わらず全身が濡れている。黒い瞳が、じっとこちらを見ている。
彼女の腕の中で赤子が頻りに泣き声を上げている。このままでは耳に残って一生離れないのではないかと、思うくらいに。
すると、突然女が指をさした。指先は裕二の後ろを指している。
「――」
女が何かを言葉にした。声は聞こえないが、確かに女は何かを言ったのだ。
すると、部屋のドアがノックされた。裕二は肩を跳ねさせ、おずおずと振り返る。
「あなたー、ご飯食べないの? もうとっくにできてるよー」
「すまん、今行くから」
言い終わってから、もう一度窓の外を見た。女の姿はどこにも見当たらなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
今日はやけに晴れていた。目を覚ましてからカーテンを開き、朝日を浴びると、裕二は一階のリビングの方へ降りて行った。
「おはよう」
「おはよう、朝食できてるわよ」
「ありがとう」
朝食に手を付けようとした途端だった。
「あなた、実は私――」
そう、妻が話を切り出した。
「――妊娠したみたい。月経が来ないからなんだと思ったけれど、やっぱりそうだったのね」
裕二は喜びたくなる。だが、どうしてもあの女のことが頭を過った。赤子、車に轢かれた猫。何か不吉な兆しなのではないかと、裕二は思った。
「そうか・・・それは良かった。ああ、とても」
裕二は妻を抱きしめた。彼女の体温が、裕二の心に芽生えた不安を溶かしていく気がした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
妻は子を産んですぐ亡くなった。裕二の心にはぽっかりと穴が開いてしまった。なんとか、子は生まれたのが救いだった。
生まれた子は元気な男の子だった。
裕二は一人、我が子の世話をしながら、ふと考える。
あの女はあれからもう出てきていない。一体、何だったのだろうか。
あの女が出てきた後に猫は死に、妻は死んだ。あの女が死でも呼び寄せているのだろうか。
ふと、我が子が泣いた。裕二は子をあやしてやる。
なんとしてでも妻が遺したこの子を、裕二は大切に育ててやると誓った。誓った矢先、またもやあの女が姿を現した。
早朝、ゴミステーションにゴミ袋を投入した後の帰り道だった。また、あの女が立っていたのだ。
しかし、あの女は赤子を抱いていなかった。
女が指をさす。指先は、丁度裕二を向いていた。




