4.
なぜか千咲は呉服店にいた。
ほんの数時間前、蓮司から結婚を申し込まれたばかりだというのに、紅梅家の本家を出て蓮司と共に蒼井家へ向かっている。その途中で呉服店に寄って、千咲の着物をいくつか見繕い、それを今、着付けてもらった。さらに髪の毛もおろして編み込まれ、まるでどこかの令嬢のようだ。
「お似合いです」と声をかけられたはいいが、こういうときどのように返したらいいかがわからない。
「あぁ、悪くはないな。支払いはいつものように」
千咲が何も言えぬ間に、とんとん拍子にすべてが決められていく。
蒼井蓮司と結婚すること。すぐに蒼井家で暮らすこと。そして、千咲の荷物を見た蓮司が顔をしかめ、呉服店に立ち寄ったところで着物を着せられたこと。
だからって一連の流れに不満があるわけではない。不安が胸の奥に渦巻いているだけで。
「帰るぞ」
有無を言わさぬ勢いの蓮司に、千咲はただ従うだけ。
呉服店から蒼井家の屋敷までは歩いて五分程度だった。どうやら、先ほどの店は蒼井家の御用達店らしい。
蒼井家の屋敷は、平屋の造りでとにかく広い。華やかな紅梅家とは異なり、趣ある屋敷である。
「ただいま帰った」
がらがらと引き戸の玄関を開けると、バタバタと元気な足音が聞こえてきた。
「おかえりなさい、父さま……と?」
「廊下は走らないと言っているだろう」
朔也の頭をくしゃっとなでる蓮司だが、朔也はそれを気にせず千咲をじっと見つめてくる。
「父さま、この人。誰?」
疑うような朔也の声色は、子どもながらにも警戒しているのだろう。父親が見慣れぬ女性を連れて帰ってきたのだから、朔也が不審がるのも理解できる。
もう一つ、パタパタとかわいらしい足音が聞こえたと思ったら、その子はひしっと千咲に抱きついてきた。
「久しぶり、琴葉ちゃん」
琴葉の頭に手を添えると、朔也も「え? 千咲お姉ちゃん?」と驚きを隠せない。
先日は紙漉きで汚れてもいいような地味な着物だったが、今は華やかな着物姿で、千咲自身も別人ではないかと、鏡に映る自分を凝視したくらいだ。
「ああ。彼女と結婚することにした。だから今日から、千咲お姉ちゃんではなく、母さまと呼べ」
「え?」
朔也は呆然と立ち、餌を求める鯉のように口を開け閉めする。母親が恋しいような年頃の子に向かって、いきなり千咲を「母親と呼べ」というのは酷だろう。もしかしたら、実の母を思っているのかもしれない。
だが、朔也の顔は次第に緩み、目を大きく開いた。
「父さま、千咲お姉ちゃんと結婚するの? 千咲お姉ちゃんが僕の母さまになるの? やった~、嬉しい! ね、琴葉!」
琴葉はさっきから千咲にしがみついたままだが、それは千咲を逃がさないという意味のようだ。
「朔也。だから、お姉ちゃんではなく、母さまだ」
「は~い、千咲母さま」
朔也の母さま呼びに慣れず、千咲の頬はまた熱くなってきた。
「朔也、先におばあさまに紹介する。案内してあげなさい」
「はい。千咲母さま、こっちだよ」
おばあさまとは誰なのかを確認したいと思っている間に、右手は朔也、左手を琴葉がしっかり握ってきた。
「子どもたちがこれほどまで懐くとは、珍しいな」
ぼそりと呟いた蓮司の声が聞こえたが、それを問いただす暇もない。子どもたちにずんずんと手を引っ張られ、屋敷の奥へと進んでいく。
「朔也くん、おばあさまって?」
「おばあさまは、おばあさま。父さまの母さま」
つまり千咲にとって義母と呼ぶべき人物。いきなりの対面に心の準備が追いつかない。
「おばあさまね。ずっと寝ていたんだけど、千咲お姉ちゃんの紙を形代にしたら、よくなったんだよ」
子どもの話というのは、ところどころ言葉が飛ぶのですぐに理解はできない。
どうやら蓮司の母親は体調を崩して寝込んでいたらしい。そこで千咲が漉いた紙を形代として使ったというのであれば、「邪」を封じたのだろう。結果、彼女の体調がよくなったというのであれば、「邪」にとりつかれていたことになる。
なぜ蒼井家先代当主の妻が、「邪」にとりつかれていたのか。どうして長い間、蓮司はそれに気がつかなかったのか。
「おばあさま、朔也です」
祖母の部屋に入るのに、きちんと名乗る朔也はよくできた子だ。
畳敷きの部屋には、布団の上で身体を起こし、本を読んでいる女性がいた。朔也は彼女の顔がよく見える位置に座り、千咲も彼の隣で正座をする。そこへ、琴葉がぽんと飛び込んできて、千咲の膝の上に座った。
「朔也ちゃん、琴葉ちゃん、どうしたの? それにそちらの女性は……?」
顔を上げた女性から、まるで値踏みするかのようなじっとりした視線を向けられ、千咲は怯む。
「父さま、結婚するんだって。だから僕の母さま」
「あ、はい。千咲と申します」
「まぁ、かわいらしいお嬢さんね。私はこの子たちの祖母、菫と言います」
「おばあさま、千咲お姉ちゃんがあの紙を漉いたんだよ。千咲お姉ちゃん、おばあさまはずっと動けなかったんだけど、千咲お姉ちゃんのおかげでよくなったんだよ」
一気にまくしたてる朔也に、菫も「落ち着きなさい」と笑いながら声をかけた。
「しっかりしたお嬢さんなのね。子どもたちからも好かれ、漉姫としての技量も申し分ない。蓮司さんにしては、良いお嬢さんと出会えたのではなくて?」
菫の視線が千咲の背後をとらえると「母さん……」という蓮司のぼやきが聞こえた。
間に挟まれた千咲は、蓮司と菫の顔を交互に見やる。
「彼女との結婚を認めていただけるというわけですね?」
「認めるも何も。あなたの選んだ女性なのだから、何も問題はないでしょう」
「では、結婚の手続きを行いますので」
事務的な口調で告げた蓮司が部屋を出ていこうとすれば「お待ちなさい」と菫が呼び止める。
「お式はどうする予定なの?」
「必要ないでしょう? 」
これ以上の会話は不要だとでも言うように、蓮司はさっさと部屋を出ていった。
「あのっ……」
千咲はどうしたものかとまごまごし始めたが、菫がやんわりと口を開いた。
「千咲さん。私はまだ、身体が思うように動かなくて。迷惑をかけるかもしれないけれど、よろしくお願いします」
「あ、いいえ。こちらこそふつつかものですが、どうぞよろしくお願いします」
琴葉を抱っこしているため、軽く畳に手をついて頭を下げる千咲に、菫は「無愛想な息子でごめんなさいね」と笑顔で返す。
「千咲さんは、蒼井の者ではないわね? 園遊会でもお会いしたこともないわよね?」
「はい。私は紅梅一族の者です。園遊会は……参加できるような身分ではなかったもので。それなのに、このような縁をいただき恐縮しております」
相手は蓮司の母親なのだ。自分の出自について変に隠したところで、いつかは知られてしまう。だったら、今のうちに包み隠さず伝えていたほうがいい。
「そうなのね。紅梅も蒼井も、漉姫の仕事は大して変わりはないと思うのだけれど。私がもう少し動けたらよかったのに……」
身体の不自由さに歯がゆい思いをしているのだろう。
そのとき、琴葉が千咲の膝からおりて、身振り手振りで何かを訴えようとし始めた。菫を指差し、そして琴葉自身の口元を指差した後、口をぱくぱくと開ける。しかし気持ちが通じないもどかしさのせいか、今度はその場で地団駄を踏む。
そこで千咲は、はたと気がついた。
「琴葉はしゃべれない」と朔也が言っていたが、彼女は本当に一言も何もしゃべらないのだ。今だって、じれったい思いを全身で表現しながらも、口からは「あ」も「う」も聞こえてこない。
「朔也くん。琴葉ちゃんがしゃべれないのは、病気か何か?」
「違うよ。突然、声が出なくなったんだよ」
「それって、いつから?」
「琴葉が二歳になったときかなぁ?」
「あら? そう言われると、琴葉ちゃん、最近はおしゃべりしていないわね」
今、気がつきましたと言わんばかりの菫が、琴葉の顔をまじまじと見つめている。菫もまた、ここ一年、意識が曖昧だったようで、記憶のなかの琴葉は拙いながら言葉を発していたようだ。
「菫さんが体調を崩したのと、琴葉ちゃんがしゃべれなくなったのは、同じ時期?」
千咲が確認すれば、朔也から「あ~そうかも。あの人がいなくなってからだから」と答えが返ってきた、そのとき。
「先ほどから、何を騒いでいる。君がいるから、俺は席を外したが」
千咲との婚姻手続きを進めるために部屋を出ていったはずの蓮司が、騒ぎを聞きつけて戻ってきたらしい。
「父さま。千咲お姉ちゃんを怒らないでよ」
「お姉ちゃんではなく、母さまだ。君も、この子たちの母親になるという自覚をもってほしい」
蓮司に鋭く指摘され、千咲は「申し訳ありません」と、頭を下げる。
「父さま。だから千咲母さまを怒らないで。あのね、おばあさまが倒れたのと、琴葉がしゃべれなくなったのは、同じときじゃないかって。千咲母さまが」
「ん?」
蓮司が片眉をあげつつ、千咲を見下ろしてきだ。
「どういうことだ?」
「あ、はい。今、朔也くんが言ったように、菫さんが倒れたのと琴葉ちゃんがしゃべらなくなったのが、同じ時期だというのが気になっただけです。三歳では、ほとんどの子がおしゃべりするようになりますが、まれに成長がゆっくりだとおしゃべりができない子もいます。だけど、そういう子どもだって『あ~』とか『う~』とか、何かしら発語しているんです。琴葉ちゃんは、まったく声を出していませんよね?」
「何が言いたい?」
「琴葉ちゃんがしゃべれないのは、成長がゆっくりだからだと思っていたんです。でも、本当に何も言わないから、それは意図的に声を封じられているのでは? 言わないのではなく、言えない状況とか……?」
すると琴葉が千咲に抱きつき、大きく頷いた。その通り、とでも言うかのように。
「そうなの? 琴葉」
朔也も琴葉の気持ちをすぐに読み取ったようだ。
「おしゃべりができなくても、私たちの言葉は理解できているんです。だから琴葉ちゃんは、何か伝えたいことがあるみたいで……」
「それが、声を封じられたと。そういうことか? 琴葉」
蓮司が確認すれば、琴葉は千咲に抱きついたまま何度も頷いた。
「仮にそうだったとしても、いったいなんで琴葉ちゃんが?」
菫も心当たりがないようで、不安そうに目尻を下げる。
「あの人だよ、あの人が琴葉の声を封じたんだ。あの人に決まってる」
朔也が悔しそうに声を絞り出した。




