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女が継ぐ工場じゃないと言われ続けた私ですが、実は祖父の技術を唯一受け継いでいたので、もう黙っているのはやめます

作者: ゆうた

「このネジ、不良品です。全ロット回収してください」


大手自動車メーカーの品質管理部長・柳沢俊介は、一本のネジをテーブルに置いた。


乾いた金属音が、会議室に響く。


私——朝倉螺子は、その音を聞きながら、内心で深く息を吐いた。


(……ああ、やっぱりこうなったか)


父の葬儀から、まだ二十四時間も経っていない。喪服のまま呼び出された会議室で、私は創業七十年の町工場・螺旋製作所の三代目として、初めての「仕事」に臨んでいた。


その仕事が、まさか倒産宣告だとは。


「螺旋製作所との取引は、即刻停止とさせていただきます」


柳沢部長の声には、一片の感情もない。当然だろう。彼にとって私は、不良品を納入した町工場の、素人同然の跡継ぎでしかない。


「申し訳ございませんでした」


私は深々と頭を下げた。


声は震えていない。涙も出ない。


だって知っているから。このネジに、問題などないことを。


頭を下げながら、テーブルの上のネジをちらりと見た。M8の六角ボルト。うちの主力製品。祖父が開発した特殊な螺旋構造を持つ、螺旋製作所の誇り。


——あれは、うちの製品じゃない。


0.01ミリの誤差を指先で感じ取れる私には、一目で分かる。ネジ山の角度が微妙に違う。研磨の方向も、うちの機械とは異なる痕跡を残している。


誰かがすり替えたのだ。


そして私には、犯人の目星がついていた。


「こちらが損害賠償の概算です」


柳沢部長が書類を差し出す。


「全ロット回収と検査費用、ラインの停止による損失……合計で、三億円になります」


三億。


うちの年商を超える額だ。払えるわけがない。払えなければ、倒産。七十年の歴史が、ここで終わる。


「……承知いたしました」


私は再び頭を下げた。


だが、その目は笑っていなかった。


(待っていなさい、叔父さん。磯山さん)


心の中で、私は静かに宣戦布告した。


(あなたたちの思い通りには、させない)



会議室を出ると、廊下の窓から夕陽が差し込んでいた。


父が好きだった、茜色の空。


私はポケットの中のネジを握りしめた。父の作業着から見つけた、最後の一本。完璧な螺旋を描く、本物のネジ。


「お父さん」


小さく呟く。


「私、負けないから」


振り返ると、会議室の中で柳沢部長が電話をかけているのが見えた。


「——ええ、鋼島先輩。例の件、お願いできますか。現地調査が必要になりまして」


鋼島。


その名前を、私は心に刻んだ。


新たな敵か、それとも——。


答えは、まだ分からない。



「女が継ぐ工場じゃねえんだよ」


翌日。叔父——朝倉鉄男の声が、工場の天井に響いた。


私は黙って作業台に向かったまま、手を止めなかった。


回収されたネジの山。その一つ一つを、私は指先で確認していた。本物か、偽物か。選別作業は私にしかできない。


「聞いてんのか、螺子」


叔父が作業台を叩く。金属部品がカチャカチャと音を立てた。


「聞いています」


私は顔を上げずに答えた。


「取引先には私から謝罪に伺います。叔父様はどうぞ、ご自宅でお休みください」


(あなたがいると邪魔なので)


本音は、もちろん口にしない。


「……っ、生意気な」


叔父の顔が赤くなる。この人は昔から、私を見ると苛立ちを隠せない。父が生きていた頃は大人しくしていたくせに、今はもう遠慮がない。


「磯山、お前からも言ってやれ」


叔父の後ろに控えていた古参社員、磯山剛造が一歩前に出た。日焼けした顔に、笑みとも嘲りともつかない表情を浮かべている。


「お嬢さん。あんたに工場は無理だ。先代……いや、お父さんとは違うんだよ」


「存じています」


私は淡々と答えた。


「父は経営者でした。私は職人です」


手元のネジを光に透かす。ネジ山の角度、表面の研磨痕、重さ、バランス。すべてが語りかけてくる。


これは——偽物。


選別の山に放り込む。


「職人? あんたが?」


磯山が鼻で笑った。


「事務仕事しかしてこなかったくせに。現場のことなんか、何も知らないだろう」


私は答えなかった。


知っている。現場のことなら、誰よりも。


祖父の膝の上で、初めてネジを握ったのは三歳の時だった。「螺子、お前の名前の由来を教えてやろう」と、祖父は笑った。螺旋。らせん。ネジの命。


以来二十五年、私は祖父の技術を指先に刻んできた。工場の隅で、誰にも見せずに。


「お前みたいな小娘に、先代の技術が分かるもんか」


磯山の言葉に、私は小さく微笑んだ。


「そうですね」


(あなたにも分からなかったでしょう? だから祖父は、あなたではなく私に教えたんです)


「とにかく、明日の株主総会で正式に決める」


叔父が腕を組んだ。


「俺が代表取締役になる。お前は……そうだな、顧問とでも名乗っていろ。給料は払ってやる」


「ご配慮、感謝します」


私は頭を下げた。


深く、深く。


その影で、唇が弧を描いていたことに、二人は気づかなかった。



叔父たちが去った後、工場は静寂に包まれた。


「らせんちゃん」


穏やかな声がした。


振り返ると、食堂を切り盛りしている根津春江さんが、盆を持って立っていた。湯気の立つ湯呑みと、小さく切った羊羹。


「春江さん」


「休憩しなさい。お父さんの葬式の翌日から働き詰めじゃないか」


「でも、この作業は——」


「ネジは逃げないよ」


春江さんは作業台の端に盆を置いた。七十を過ぎた皺だらけの手が、湯呑みを差し出す。


「あの子の指は、先代そっくりだよ」


独り言のように、春江さんは呟いた。


「先代……祖父のことですか?」


「ああ。あの人も、ネジを指で転がすのが好きだった。『春江、ネジは嘘をつかん。人間より、ずっと正直だ』って」


私は熱い茶を一口含んだ。喉を通る温もりに、少しだけ肩の力が抜ける。


「春江さん。祖父は……何か、遺したものはありませんでしたか」


春江さんの目が、一瞬だけ揺れた。


「……さあねえ。私は食堂のおばあちゃんだから、難しいことは分からないよ」


嘘だ。この人は知っている。何かを。


でも、今は聞かない。聞くべき時は、まだ先だと分かっているから。


「ありがとうございます。休憩したら、また作業に戻りますね」


「無理しなさんな。……らせんちゃんは、一人じゃないよ」


春江さんは静かに去っていった。


私は羊羹を一切れ口に運んだ。祖父が好きだった、控えめな甘さ。


「一人じゃない、か」


呟いて、私は再び選別の山に手を伸ばした。


その時だった。


工場の入口に、見知らぬ男が立っていた。


銀縁眼鏡の奥の瞳が、私を見据えている。身長は百八十を超えているだろうか。隙のないスーツ姿に、一分の乱れもない短い黒髪。


冷たい。その印象が、最初に浮かんだ。


「螺旋製作所の朝倉螺子さんですね」


機械のような声だった。感情の一片も感じさせない。


「品質保証エンジニアの鋼島誠一です。本日より、御社の品質調査を担当します」


鋼島。柳沢部長が電話で呼んでいた名前。


「町工場の素人経営者に何がわかるか知りませんが」


彼は冷徹に言い放った。


「私はデータしか信じません。言い訳も、感情論も不要です」


私は静かに立ち上がった。


「かしこまりました、鋼島様」


深々と頭を下げる。


(この人、感じ悪いな)


内心の感想は、もちろん表には出さない。


「何なりとお申し付けください。ただ——」


私は手元のネジを一本取り上げた。


「お時間があれば、こちらをご覧いただけますか」


選別した山から、偽物のネジを五本。本物のネジを五本。並べて差し出す。


「左が回収品、右が当社の在庫品です。品質に違いがあるかどうか、専門家のご意見を伺いたく」


鋼島さんは眉を顰めた。


「肉眼で分かるような差があるとでも?」


「ええ」


私は微笑んだ。


「見る人が見れば、分かります」


彼は無言でネジを手に取った。光に透かし、回転させ、重さを確かめる。


数秒後、その表情が変わった。


「……ネジ山の角度が違う」


「はい」


「研磨の方向も……これは、同じ機械で作られたものじゃない」


「ご明察です」


私は選別の山を指さした。


「回収された五千本のうち、およそ三分の一が『別物』でした。誰かが意図的にすり替えた可能性があります」


鋼島さんは黙って私を見た。


氷のような目が、少しだけ——ほんの少しだけ、温度を変えた気がした。


「……あなたが選別を?」


「はい」


「どうやって見分けたのですか。計測機器は使っていないようですが」


私は自分の指を見た。長年の研磨作業でできた、硬いタコ。祖父譲りの、私だけの道具。


「ネジは嘘をつきませんから」


鋼島さんは何かを言いかけて、口を閉じた。


代わりに、彼は眼鏡のブリッジを押し上げた。


「……明日から、改めて調査を行います」


「はい」


「九時に来ます。資料を準備しておいてください」


「かしこまりました」


彼は踵を返し、工場を出て行った。


私は一人残された作業台で、ネジを指先で転がした。完璧な螺旋が、指の腹に心地よい感触を残す。


「鋼島誠一、か」


敵か、味方か。


(……まだ分からないけど)


私は小さく笑った。


(少なくとも、馬鹿ではなさそうね)



「説明してもらえますか」


翌朝九時。鋼島さんは予告通り、一分の遅れもなく現れた。


隙のないスーツ姿。銀縁眼鏡の奥の目は、相変わらず冷たい。だが昨日とは、どこか違う空気を纏っている。


「何をでしょうか」


「あなたの選別方法を」


私は作業台に向かった。回収されたネジの山から、一本を取り出す。


「まず、目視です」


光に透かす。ネジ山の角度、表面の光沢、研磨の方向。


「当社の製品は、祖父が開発した独自の螺旋構造を持っています。角度は一般的なメートルネジより0.2度浅い。この違いは、光の反射で分かります」


「0.2度……」


鋼島さんが眉を顰めた。


「肉眼で判別できる差ではない」


「ええ。だから、次は触覚です」


私はネジを指先で転がした。親指と人差し指の腹で、螺旋をなぞる。


「ネジ山の頂点を指で感じます。当社の製品は、研磨の最終工程で独特の丸みをつけています。他社製品には、この丸みがありません」


「丸み?」


「0.01ミリ以下の世界です。でも、指先には分かります」


鋼島さんは無言で私の手元を見つめていた。


「……実演してもらえますか」


「はい」


私は山から十本のネジを取り出した。目を閉じ、一本ずつ指先で確認する。


本物。偽物。本物。偽物。偽物。本物。偽物。本物。本物。偽物。


目を開けて、二つの山に分ける。


「左が当社製品、右がすり替えられた製品です」


鋼島さんは黙ってノギスを取り出した。一本ずつ、精密に計測していく。


五分後。


「……全問正解です」


彼の声には、隠しきれない驚きが滲んでいた。


「測定誤差は最大で0.008ミリ。あなたの指は、私のノギスより正確だ」


私は小さく微笑んだ。


「ネジは嘘をつきませんから。問題があれば、必ず原因があります」


鋼島さんは眼鏡を外し、レンズを拭いた。その仕草が、妙に人間らしく見えた。


「……祖父が、町工場を経営していました」


唐突に、彼は言った。


「大手に潰されて、俺が中学の時に廃業しました。それ以来、町工場というものを……避けてきた」


私は黙って聞いていた。


「技術があっても、資本力で負ける。品質が良くても、価格で負ける。町工場なんて、どうせ長くは続かない。そう思っていました」


「今も、そう思っていますか」


鋼島さんは私を見た。


「……分からなくなりました」



「おい、何をしている」


昼過ぎ、叔父が工場に現れた。鋼島さんを見て、露骨に顔を歪める。


「大手の監査官か。うちは忙しいんだ。さっさと帰ってくれ」


「調査が終わるまでは帰れません」


鋼島さんは冷静に答えた。


「ご協力いただけない場合、取引停止ではなく法的措置を検討します」


「な……っ」


叔父が言葉に詰まる。その顔が赤くなり、こめかみに血管が浮き出る。


「螺子、お前が余計なことを言ったのか」


「いいえ、叔父様。私は何も」


私は静かに首を振った。


(本当に、何も言っていない。鋼島さんが自分で気づいたの)


「とにかく、明日の株主総会で全部決める。それまでに出ていけ」


叔父は吐き捨てるように言って、去っていった。


鋼島さんは黙って叔父の背中を見送った。


「あの人が、叔父さんですか」


「はい」


「……あなたを、追い出したがっているように見えましたが」


「ええ。女が継ぐ工場じゃない、と」


私は淡々と答えた。


鋼島さんは何か言いかけて、口を閉じた。代わりに、作業台のネジを手に取った。私が選別した、本物のネジ。


「このネジを、あなたが作ったのですか」


「いいえ。これは父が作りました。私は……まだ、完璧には作れません」


「完璧?」


「祖父の技術を、完全に再現するには……あと十年はかかるでしょう」


鋼島さんは目を見開いた。


「今の技術でも、十分に規格を超えています。これ以上、何を目指すのですか」


私は窓の外を見た。工場裏の桜の木。祖父が植えた、古い桜。まだ蕾は固いが、確かにそこにある。


「祖父は、ネジで世界を変えようとしていました」


「世界を?」


「はい。航空宇宙産業を変える、革新的なネジ。その設計図を、祖父は遺したはずなんです。でも——」


私は言葉を切った。


言いすぎた。まだ、この人を信用するには早い。


「……すみません。独り言です」


鋼島さんは黙って私を見つめていた。


その目に、昨日までとは違う色が浮かんでいる。興味。関心。そして——何か、私には読み取れない感情。


「朝倉さん」


「はい」


「明日の株主総会、俺も出席できますか」


私は驚いて彼を見た。


「……なぜですか」


「品質調査の一環です。この工場の経営体制を確認する必要がある。それだけです」


嘘だ。分かっている。彼は何かを感じ取っている。


でも私は、その嘘を受け入れることにした。


「分かりました。ご案内します」


「ありがとうございます」


鋼島さんは小さく頷いた。


その時、彼が無意識にネクタイを緩めているのに気づいた。袖もいつの間にかまくられている。


(あら)


私は内心で小さく笑った。


(この人、意外と不器用なのかもしれない)



「異議あり」


私は静かに立ち上がった。


株主総会の会議室。長テーブルの上座に叔父。その隣に磯山。そして、数人の親戚たち。


全員の目が、私に向けられている。


「朝倉鉄男を代表取締役とする議案に、異議を申し立てます」


「何だと……?」


叔父が椅子を蹴って立ち上がった。


「お前に発言権はない。株式の過半数は俺が持っている」


「ええ、存じています」


私は書類を取り出した。


「ですが、取締役の選任には適格性の審査が必要です。そして——」


書類をテーブルに置く。


「この三ヶ月間、御社の会計に不正な出金がありました」


「なっ……」


叔父の顔色が変わった。


「会社の口座から、叔父様の個人口座へ。計八回、総額一千二百万円。これは横領に当たります」


「でたらめを言うな!」


「証拠は、すべてここにあります」


私は二枚目の書類を置いた。銀行の取引明細のコピー。税理士が作成した報告書。


「お父さんの書斎から見つけました。お父さんは——全部知っていたんです」


会議室が静まり返った。


親戚たちが顔を見合わせている。叔父の味方だったはずの彼らの目が、じわじわと変わっていく。


「それだけではありません」


私は三枚目の書類を取り出した。


「今回の品質不正——ネジのすり替えについても、証拠があります」


叔父の隣で、磯山の顔が蒼白になった。


「工場内の監視カメラ映像です。深夜、磯山さんが出荷前の製品を入れ替えている様子が記録されています」


映像データを入れたUSBメモリを、テーブルの中央に置く。


「これは、誰の指示ですか? 磯山さん」


磯山が叔父を見た。叔父が磯山を睨んだ。


二人の間に、亀裂が走るのが見えた。


「鋼島さん」


私は会議室の隅に立っていた彼を呼んだ。


「品質調査の結果を、ご報告いただけますか」


「はい」


鋼島さんが前に出た。


「螺旋製作所から回収された五千本のネジのうち、千六百本が他社製品でした。すり替えの時期は、出荷後ではなく出荷前。内部犯行の可能性が極めて高い」


彼は淡々と続けた。


「さらに、すり替えられた製品のロット番号を追跡したところ、興味深い事実が判明しました。すり替えに使用されたネジは、朝倉鉄男氏が個人的に取引している業者から仕入れたものです。取引記録が残っています」


叔父が黙り込んだ。


会議室の空気が、完全に変わった。


「叔父様」


私は静かに言った。


「あなたは、この工場を乗っ取ろうとした。父を追い落とし、私を追い出し、七十年の歴史を——」


「黙れ!」


叔父が叫んだ。


「お前なんかに、何が分かる! 兄貴ばかり可愛がられて、俺は何だった!? 俺だって朝倉の血を引いているのに、工場には入れてもらえなかった!」


「……それは、あなたに技術がなかったからです」


「技術なんか、金で買える! 大事なのは経営だ! この工場を大きくするのは俺の役目だったんだ!」


私は首を振った。


「違います。この工場は——」


一本のネジを取り出す。祖父が作った、最後の試作品。


「技術でしか、守れないんです」


叔父は私の手元を見た。そして、目を見開いた。


「それは……」


「祖父の遺品です。航空宇宙産業向けの、特殊ネジの試作品」


私はネジを光にかざした。


「叔父様。この構造を説明できますか?」


沈黙。


「螺旋の角度、素材の配合、熱処理の条件。全て、祖父が開発した特許技術です。設計図がなければ、誰にも作れない」


私は叔父を真っ直ぐに見た。


「あなたが本当に欲しかったのは、この技術でしょう」


叔父の顔が歪んだ。


「……知っていたのか」


「ええ。祖父の『未完成の設計図』。あなたはずっとそれを探していた」


私は微笑んだ。


「でも残念でした。設計図は、私の頭の中にあります」


祖父の膝の上で過ごした日々。無数のネジを転がしながら、聞かされた技術の話。それは紙には書かれていない。指先と記憶の中にだけ、存在している。


「私がいなければ、この工場は何も作れません」


私は会議室を見回した。


「ずっと黙っていました。女だから。若いから。継ぐべき人間じゃないと言われてきたから」


息を吸う。


「でも、もう黙っているのはやめます」


叔父が崩れ落ちるように座り込んだ。


磯山は既に、顔を手で覆って震えていた。



警察が去った後、会議室には私と鋼島さんだけが残っていた。


「お疲れ様でした」


鋼島さんが湯呑みを差し出した。春江さんが淹れてくれた、熱い緑茶。


「……ありがとうございます」


私は茶を受け取った。手が、少し震えていた。


「緊張していたんですね」


「……当たり前です。あんなに人前で話したの、初めてでしたから」


私は小さく笑った。


「正直、吐きそうでした」


「見えませんでしたよ。堂々としていた」


「演技です」


湯呑みを両手で包む。温もりが、指先に染み込んでいく。


「鋼島さん」


「はい」


「なぜ、協力してくれたんですか」


鋼島さんは窓の外を見た。夜空に、星が瞬いている。


「……祖父の工場が潰れた時、俺は何もできなかった」


「……」


「あの時、誰かが声を上げていれば。証拠を集めていれば。違う結末があったかもしれない」


彼は私を見た。


「あなたを見ていて、思い出したんです。祖父が、最後までネジを磨いていた姿を」


私は黙って聞いていた。


「だから、今度は——俺が、できることをしたいと思った。それだけです」


不器用な言葉だった。でも、嘘ではないと分かった。


「鋼島さん」


「はい」


「明日から、品質調査を再開してください」


「……え?」


「不正は解決しました。でも、この工場にはまだ問題がある。私一人では見えない穴が、きっとある」


私は立ち上がった。


「あなたの目が、必要です」


鋼島さんは目を見開いた。


そして、小さく笑った。


「分かりました。厳しくいきますよ」


「望むところです」


私も笑った。


窓の外で、桜の蕾が夜風に揺れていた。



三ヶ月が過ぎた。


工場には、穏やかな時間が戻っていた。


取引は再開された。それどころか、大手メーカーの柳沢部長から新規大型契約の申し出があった。


「朝倉さんの技術を、もっと広い分野で活かしたい」


そう言って、彼は深々と頭を下げた。あの日、私に倒産を宣告した同じ人物が。


「申し訳ありませんでした。改めて、お取引をお願いできますか」


私は静かに頷いた。


叔父と磯山は逮捕された。横領と品質偽装の容疑。実刑は免れないだろう。


そして——父の死についても、新たな事実が明らかになりつつあった。急性心不全。それが公式の死因だった。でも、父は健康だった。心臓に問題など、なかったはずだ。


叔父の逮捕後、警察は父の死を再調査し始めている。結果が出るのは、もう少し先になるだろう。


私は待つことにした。今は、目の前のことに集中する。



「朝倉さん」


声に振り返ると、鋼島さんが工場の入口に立っていた。


いつものスーツ姿。でも、ネクタイは緩み、袖はまくられている。三ヶ月前とは、別人のようだ。


「鋼島さん。今日は何の用ですか」


「報告です」


彼は私の隣に立った。作業台の上には、試作中の新製品が並んでいる。


「柳沢から連絡がありました。航空宇宙部門との共同開発、正式に決まったそうです」


「……本当ですか」


「ええ。あなたの祖父の技術を基に、新しいネジを開発する。その第一弾のプロジェクトです」


私は手元のネジを見た。祖父の試作品を基に、私が改良を重ねてきたもの。まだ完成には程遠い。でも、形にはなりつつある。


「鋼島さん」


「はい」


「東京の本社に、戻らないんですか」


三ヶ月前、品質調査のために派遣されてきた彼。調査はとっくに終わっている。なのに彼は、まだここにいる。


「戻る気、なくなりました」


鋼島さんは淡々と言った。


「……なぜ?」


「あなたの作るネジを、世界に届けたいと思ったので」


私は彼を見た。


銀縁眼鏡の奥の目。三ヶ月前は氷のように冷たかったそれが、今は——違う色を帯びている。


「それに」


鋼島さんは視線を逸らした。


「あなたの淹れる茶が、うまいので」


「……は?」


「春江さんには負けますが。あなたの淹れた茶は、なぜか断れない」


私は吹き出した。


「何ですか、それ」


「俺にも分からない」


鋼島さんは困ったように眉を寄せた。


「最近、あなたの作業を見ていると、時間を忘れる。あなたの指先の動きを、目で追ってしまう。病気かもしれない」


私は黙った。


(ああ、この人も変わり者だな)


内心で呟いて、小さく笑った。


「鋼島さん」


「はい」


「今、お茶を淹れましょうか」


「……いただきます」


私は立ち上がって、食堂に向かった。鋼島さんが、当然のように後をついてくる。



食堂の窓から、桜が見えた。


祖父が植えた、古い桜。満開の花が、春風に揺れている。


「らせんちゃん」


春江さんが、羊羹を切っていた。


「先代が植えた桜、今年も綺麗だねえ」


「ええ」


私は窓辺に立った。


「祖父は、この桜が好きでした」


「ああ。『螺子が大きくなる頃には、この桜も立派になる』って言ってたよ」


春江さんが湯呑みを差し出した。熱い緑茶の湯気が、立ち上る。


「先代も、お父さんも、きっと喜んでる」


私は茶を受け取った。


「春江さん」


「何だい」


「祖父の設計図——『未完成の設計図』のこと、知っていますか」


春江さんの目が、一瞬だけ揺れた。


「……知ってるよ」


「どこに、あるんですか」


春江さんは桜を見た。


「先代は言ってた。『設計図は、螺子の中にある』って」


「私の、中に?」


「ああ。紙に書いたものは、盗まれる。でも、指先に刻んだものは、誰にも奪えない」


春江さんは微笑んだ。


「らせんちゃん。あんたはもう、設計図を持ってるんだよ。ただ、まだ気づいていないだけで」


私は自分の指を見た。長年の研磨作業でできた、硬いタコ。祖父譲りの、私だけの道具。


「……まだ、分かりません」


「大丈夫。いつか分かる日が来るよ」


春江さんは私の肩を叩いた。


「さ、お茶が冷めるよ。鋼島さんも待ってる」


私は振り返った。


食堂の入口で、鋼島さんが立っていた。ネクタイを直そうとして、また緩めている。


「……何してるんですか」


「いや、その……邪魔かと思って」


「早く座ってください。お茶、淹れますから」


「はい」


鋼島さんは素直に席についた。


私はその隣に座って、茶を注いだ。


「朝倉さん」


「はい」


「その新製品の試作、俺も手伝っていいですか」


「いいですよ。でも、厳しくいきます」


「望むところです」


私たちは顔を見合わせて、笑った。


窓の外で、桜が風に舞っている。祖父が植えた桜。父が愛した桜。そして今、私が受け継いだ桜。


『未完成の設計図』は、まだ私の中で眠っている。


でも、いつか必ず——形にしてみせる。


祖父のネジを。父の夢を。そして、私の未来を。


「さて」


私は立ち上がった。


「作業に戻りましょうか。まだ、やることは山ほどあります」


「はい」


鋼島さんが隣に並んだ。


二人で工場に向かう。肩が触れそうな距離で、作業台に向かう。


春の陽射しが、工場の窓から差し込んでいた。


私はネジを一本取り上げ、指先で転がした。完璧な螺旋が、指の腹に心地よい感触を残す。


「ネジは嘘をつかない」


小さく呟く。


隣で、鋼島さんが微笑んだ気配がした。


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