夫の幸せを願って離縁を告げたら、なぜか引きとめられました
風に揺れた式典の旗が光を受けてきらめく。
大橋が完成し、人々が集まって声を揃え「ありがとう! 領主様! 奥様!」と叫んだとき、目頭が熱くなった。
誰かの肩から子どもが手を振り、老いた農夫が涙を拭いながら笑っている。
「……やっと、ですね」
私の言葉に、隣でアイヴァン様が小さく頷いた。
あの日、濁流に飲まれた大橋が、今はこうして希望の道になっている。
「ああ。でも、領地が戻ったんじゃない。……領民たちが取り戻したんだ」
声音は穏やかで、私が知っているなかで一番柔らかかった。
彼の横顔を見て、胸が満たされる。暖炉の前で微睡むような安心感だった。
……なのに、胸が苦しい。
喜びと似た疼き。
ここまで復興が進んだなら、私がいなくても、この領地は回る。
崩れないように、笑みだけを整えた。
式典の喧騒はまだ耳の奥で反響しているのに、屋敷に戻った途端、全部遠くなった。
その明るさと温度だけが置き去りになっていく。
私──メイ・ウォルシュは、背筋を伸ばし、真正面から夫──アイヴァン・ウォルシュ侯爵様を見据えた。
言葉はもう決まっている。
戻れないと知りながら、それでも前へ進むために。
「離縁してください、アイヴァン様」
言葉が空気に落ちた瞬間、自分の声ではなかったように感じた。喉の奥が痛む。聞き慣れた自分の声なのに、よそ行きの誰かが勝手に喋っているみたいだった。
言ってしまった──ううん、言わなければならなかったから。
逃げていない、と自分に言い聞かせるように、呼吸を一つ置く。
体は戦場前の兵士みたいに固まってるのに、足だけ逃げ腰で裏切ってくる。
組んだ指先に力を込め、視線を外せば決意まで崩れる気がして正面を見据える。
アイヴァン様はペン先を止め、書類からゆっくりと視線を引き上げた。
「……は?」
三年続いた夫婦生活の中で、一度も向けられたことのない表情だった。
喜びも安堵もない。むしろ、離縁という言葉を理解できず立ち止まっているような、そんな戸惑いの色が浮かんでいる。いつも難題の書類を前にしても眉一つ動かさないのに、離縁にはそこまで驚くのかと、変なところで納得もいかなかった。
その反応が余計に堪えた。
本来なら喜ばれるはずの決断なのに、どうしてそんな顔をするのか。
掴めない反応が、決意の輪郭を揺らす。
羽根ペンは紙の上で止まり、インクの匂いだけが先ほどまでのいつもの日常の名残として漂っている。理解より先に浮かんだのは、呆然とした戸惑いだった。
書斎の空気がじわりと重くなる。
壁掛け時計の針の音がやけに耳に入り、こんなにも音が響く部屋だったのかと、自分の中に冷静な思考を見つけた。
そして、この状況でも礼儀正しく振る舞おうとしている自分が滑稽に思える。
でも、これが最後になるなら、せめてめんどくさくない女と思われておきたい。
嫌な印象では終わらせられない。
ちっぽけな矜持だけど、これくらいは持っていたい。
◇◇◇
私は男爵家の娘だ。長女で、歳の離れた弟と妹がいる。
爵位は由緒あるものではなく、父が働いて得た、努力の証。
貴族として籍はある。なのに、扱われ方は平民と変わらなかった。
一方で、平民からは「お貴族様」と呼ばれ、どっちつかずの線の真ん中にいる気分だった。
家業は薬草と医療用品の商会で、戦場や病院に卸す薬液のおかげで、軍医や薬師にはそれなりに名が通っている。
それでも、古い家柄の貴族からすれば、結局は薬草の匂いが染みついた商人の娘。
そんなふうに見られるのは珍しいことではなく、今さら腹を立てるほどでもなかった。
私と侯爵家嫡男との結婚は、もちろん運命の恋の末に決まったものではない。その裏には、ウォルシュ侯爵領を揺るがした出来事があった。
アイヴァン様が侯爵位を継ぐ少し前、山に築かれていた古い堰が崩れた。
夜のうちに濁流が村を飲み込み、朝には農地も道路も地図ごと削り取られていた。
農地は水没し、道路と倉庫は崩れ、人々の生活は一夜で成り立たなくなった。
被害状況を確かめるため現地へ向かったアイヴァン様のご両親は、崩れた山道で馬車ごと落ちた。
「学院に届いた訃報は短く簡潔だったのに、受け止めるにはあまりにも現実味がなかった」と後に、彼は言った。
そんな状況の中、復興には莫大な資金と医療物資が必要だった。
災害後、怪我人と病の蔓延を防ぐため、職人の手で作られる包帯と薬液が必要とされた。
父の商会はもともと軍や病院と取引があり、資金も流通網も整っていた。
ウォルシュ侯爵家には資金が不足しており、一方で男爵家は商業上の理由から貴族社会との繋がりを求めていた。
周囲は政略だと言った。金と領地、そして名誉を天秤にかけた合理的な判断だと。
それは間違いではない。
けれど私にとっては、それだけではなかった。
彼のことが好きだった。
下世話な言い方をすると、下心である。
私が彼を好きになったのは、父に連れられて出た十六歳の夜会でのこと。
父の卸した薬が国境の小戦争を勝利に貢献したことで国王から王都で行われるパーティーに招待されたのだ。王都でも最古の迎賓館ロイヤル・パヴィリオンに。
薬草商会の娘として紹介されたその場で、私は覚えたてのカーテシーを披露し、心優しい王妃様に大層褒められた。
もちろん世辞だと分かっているが、天上人のようなお方に優しい言葉をかけられて嬉しくないはずがない。
両親も誇らしそうで、私も嬉しくなった。
そして、両親が挨拶回りに行くのを見送り、給仕から綺麗な色の果実水を受け取ったところで背後から小さな笑い声が聞こえてきた。
「くさぁい。何の匂い?」「平民の匂いでなくって?」「ああ、爵位を買った家の娘のことね?」「いやだわぁ、歴史ある迎賓館にこんな臭い娘が入り込むなんてぇ」「身の程を知らないのかしら」
聞こえないふりをして通り過ぎようとしたとき、ふいに近くを歩いていた青年が足を止めた。
「品位を語る者が、人を踏みにじる権利はない。彼女を馬鹿にするものは薬を飲むな」
それだけを告げて、彼は視線を前に戻した。
慰めるでも肩を持つでもなく、ただ線を引いただけの声音だった。
その瞬間、私は恋に落ちた。
自分のチョロさには、少し問題があるのかもしれないが恋は恋である。ピカピカの初恋だった。
だから父から結婚の話を聞かされた際、夢みたいだと思った。
領地が大変だと言うのに、愚かな私は喜んだのだ。
そして、結婚して三年が経った。
私とアイヴァン様のあいだに子どもはいない。
それは仲が悪いわけでも、避けられているわけでもなかった。領地の復興が終わるまでは、新しい命を迎えるべきではない。二人で交わした約束だった。
寝台は別々で、互いの距離だけは慎ましく保たれていた。
寂しくなかったと言えば嘘になる。だけど焦れったさよりも、いつか分かり合える未来への期待の方が勝っていた。
朝食時、無言のまま差し出されたジャム瓶の蓋を開けてくれた仕草。
外出先から戻ったとき、冷えた手を見て黙って暖炉側へ椅子を寄せてくれたこと。
言葉にしない優しさを拾うたび、胸の内側が少しずつ満たされていくのを感じた。
この家の空気に自分の居場所がある。
間違いなく幸せだった。
そう思っていた。
けれど、結婚して三年目の冬──つい一週間前の話だ。
廊下を曲がった先、半開きの客間の扉が目に入った。
軽い笑い声が漏れている。いつもの屋敷の空気とは違った。
覗くつもりはなかったが、視線は自然と扉の隙間へ向いた。
そこにいたのは、アイヴァン様の元婚約者、ブルックリン様。
夫を亡くしたこと、社交界に戻ったこと、子どもはおらず、喪が明けたら再婚を考えてること。そのどれも他人事のように感じていた。
扉越しで距離があるはずなのに、その姿だけは、視界に焼きつくように鮮明だった。
ブルックリン様はアイヴァン様に身を寄せ、片手を彼の肩口へ置いていた。それは礼儀の触れ方ではない。形式として成立する挨拶ではなかった。昔触っていた距離を、そのまま当然の顔でなぞる触れ方だった。
拒んだのか礼儀の範囲だったのか、判断できるほど長くは見ていられなかった。
ほんの一瞬、アイヴァン様がその手を避けようとしたように見えた──いや、違う。そう見たい私の願望だろう。
ああ、そうだったのか、と納得に似た感情が落ちてきた。
あの人の方が似合っている。
私よりも、ずっと。比べることが烏滸がましいほどに。
声をかける選択肢はあった。
でも、しなかった。できなかった。
呼べば振り向く距離だったが、呼ぶ理由を探せなかった。
気づけばその場を離れていた。
一人になりたくて、自分の部屋よりも近い裏庭へ続く石畳を歩きながら、呼吸が荒くなるのをどうにか抑えようとしていた。
誰かに見られる前に、表情だけでも取り繕いたかった。
裏扉に差し掛かったところで、背後から軽い足音が近づいた。
「……まあ。こんな場所にいたの?」
振り返ると、ブルックリン様が立っていた。さっきとは違う笑み。礼儀の仮面ではなく、こちらを見下ろす種類のもの。
視線の先には、裏門に横付けされた馬車が見えた。どうやら、最初から人目につかない出入り口を選んだらしい。
「あなたって思ったより図太いのねえ」
意味を捉える前に指先が冷える。
返せる言葉は見つからない。
「あの人はね、白い肌の女性が好みなの。触れると壊れそうな、華奢で、血が透けるような人。あなたのように健康的で逞しい感じではないのよ。……赤茶色のくせ毛の平民女と金髪蒼瞳の王子様が幸せに暮らす物語ってね、貴族の世界には存在しない物語なのよ」
笑っているのに、目だけが冷たかった。
美しい顔立ちなのに、悪意や憎悪や妬いだ感情が、ぜんぶ一度に浮かんでいるような表情だと思った。
「三年。よく頑張ったと思うわ。でもね、あなたが隣に座るたびに、社交界の誰もが思っているはずよ。『ああ、彼は可哀想だ、あんな妻を持つなんて』って」
「……」
「わたくしたち、学園の卒業パーティーではベストカップル賞を取ったの。当時は品のない賞だと思っていたけれど。あれは投票だったからね、皆の総意なのよねえ」
ゆっくりと距離を詰められる。
「分かってる? 今、社交界では彼は復興の英雄で、わたくしは悲劇の未亡人。昔の恋人同士がまた手を取り合う──それが皆の望む物語なの。だから退いて。あなたでは絵にならない。あなたがそこにいると舞台が崩れるの。あなたは障害なのよ。彼のことを愛しているなら引きなさい。わたくしがアイヴァンを幸せにしてあげるから」
そう言い残し、振り返らずに歩き去った。
残ったのは風と、自分の呼吸だけ。
一言も言い返さなかった。……いや、違う。言い返せなかった。
夕食の味は覚えていない。
寝台に入っても彼女の言葉が頭の中で何度も反芻された。
眠れなかった。考え続けた。
そうして、私は離縁を決めた。
一睡もしないまま考えたけれど、離縁以外、不正解だと思った。
怒りではなかった。悲しみとも違う。もっと淡々とした、事実の確認に近い感覚だった。
そろそろ領地の復興は一つの区切りを迎える。
自分の役目はここまでだと理解した。
それだけ。
もし私が本当に彼の隣に値する存在なら、あの言葉で迷ったりしない。
迷った時点で、もう答えは出ていたのだ。
◇◇◇
アイヴァン様は椅子を押しやり、立ち上がった。
机に置かれた書類がわずかに揺れ、インク壺の影が長く伸びる。
「離縁、と聞こえた……俺の聞き間違いか?」
その声は、静かな水面に石が落ちたようにわずかに歪んでいた。
「いいえ、離縁と申しました」
自分でも驚くほど声は平坦だった。
「理由を聞かせてくれ」
私は視線を落とし、息を一つゆっくり逃した。
「別の幸せを選ぶべきだと思いました」
言いながら、自分の口が勝手に動いている感覚があった。
「別の? ……すまない、意味が分からない」
眉間に刻まれた皺は怒りではなく、答えのない問いを押し留めている形だった。
彼が机を回り込もうと一歩踏み出した瞬間、距離が縮むだけで息が詰まった。
近づかないでほしい、とは、声にはならなかった。だって、本心では近づいてほしいのだから。
「私は、あなたの障害でありたくありません。出自も振る舞いも、ほとんど平民のままの人間です。ふさわしくありません」
言葉にしてしまえば簡単なのに、喉を通るまでに苦いものが挟まる。
横隔膜のあたりが、ぐう、と苦しくなる。
「障害? ふさわしくない? 誰がそんなことを言った? まだそんなことを言う者がいるのか?」
「まだ、とは……? もしかして、アイヴァン様が何か注意を促してくれたのですか?」
「……いや、そういう訳では……と、とにかく、あなたに何かを言った者がいるのだろう? 誰だ。言え」
陰口を言っていた者がいたと言わないで言い淀む彼に、ときめいてしまう。
嫁いだばかりのころ、私付きになったメイドたちが「平民の分際で」「成金女の世話なんて」と、言っていたのを聞いてしまったことを思い出す。
聞いたときは悲しかったけれど、本当のことなので、特に誰かに言うなんてしなかった。
でも、いつの間にかそういう場面は見なくなっていた。
今ではそんな声も視線も感じない。
あれは、私が強くなったからじゃない。アイヴァン様が、私の知らないところで止めていたのだ。
……今になって理解するなんて、間抜けにもほどがある。やはり彼は優しい。
「いいえ、ただ、私ではない方をあなたの隣に置くべきなのだと分かっただけです」
誰かを責めているわけでも、自分を哀れんでいるわけでもない。
選ばれる側ではない人間として納得したというだけの話だ。
「? 意味が分からない」
「ブルックリン様のことです」
口にするまで迷った名だった。
言った瞬間、何かがぱきりと割れた気がした。
理解していたはずなのに、声にした途端、現実として定着してしまう。
「想い合っているお二人の邪魔にはなりたくないのです」
「……何を言ってる?」
「偶然ですが、その、お二人がお会いになっているのを見てしまいまして。あの……ブルックリン様の手が……親しそうで……。私は……あなたを侮辱するつもりはありません。ただ、彼女はあなたにとって特別な方でしょう? 過去を否定する理由はありません」
本当は、あの場面を見た瞬間に全部理解した気になっただけだ。
けれど、その錯覚を否定できるほど強くはなかった。見なければよかった、と思うくせに、記憶の中では何度もその光景が再生される。
「勝手に結論を出すな! ブルックリンの手はすぐに払いのけたし、追い返した!」
「え?」
「くそっ、最悪な場面を切り取られてしまった」
「あ、あの?」
「俺は時間をかけて、少しずつ距離を詰めようとしていたんだ。なのに、よりによって、そんな誤解をさせるなんて……っ」
珍しい、という感情がよぎる。「くそ」だなんて言葉を使う彼を初めて見た。彼が声を荒げる姿など、この三年で一度も見たことがなかった。
そのせいで、彼が何を言っているのかより、初めて見る取り乱した彼ばかりが頭に残った。
「どうしたら信じてもらえる?」
問いかけというより、答えを探す手探りの声だった。
「わ、私は、無作法です。貴族のマナーも付け焼き刃で、他家の奥様のように茶会も開けません」
抑えた声が震える。
本当はもっと欠点を列挙できる。学もないし、家柄も浅いし、華やかさの欠片もない。
そして、貴族の女性のような華奢さもない。日焼けし、そばかす顔の赤毛女だ。
でも、そこまで言えば泣いてしまう気がして、それ以上は口にしなかった。
「はっ。そんなことで俺が離縁に応じると思ったのか?」
「はい。これは、あなたにとって悪い話ではありませんから」
返答に迷いはなかった。
「本気でそう思っているのか?」
「…………はい」
「つまり、俺が今まで支えてくれた妻を放り出すような男だと思っている、ということか?」
「ち、違います! あなたはそんな人ではありません! 優しく、正義感が強く、情が深い方です! だからこそ、私は退きます! あなた様のためなのです!」
「俺のため……?」
「わ、私はあなた様のことが、す……す、好き、なのです。だ、から……っ」
「ますます分からない。俺を好いてくれているのに、なぜだ?」
「ですから、幸せになってほしいのです。真に愛する方を娶り、その方と家族を作ってほしいのです」
「……はあ」
アイヴァン様は深く息を吸い、手で顔を覆った。
そして、ゆっくりと手を下ろし、私をまっすぐ見た。
「メイ。俺は三年間、ずっとあなたに触れることを我慢してきた」
「え」
空気が変わった。
理解より先に痛みが走り、次に熱が押し寄せ、最後に息が止まった。
「領地が落ち着くまでは、軽率な幸福を望むべきではないと。そう言ったのは……あなただったのを覚えているか?」
「は、はい」
確かに言った。
私がさきに言い出して、アイヴァン様が同意した。
「俺だけが焦がれているのかと。だから、言葉にできなかった」
こ、焦がれて……? 聞き間違いだろうか……?
「……アイヴァン様?」
呼んだだけで喉が詰まった。
「ずっと、俺の隣にいてほしい」
彼の声は掠れている。
「ウォルシュ領が天災に見舞われ、両親が亡くなったとき、ブルックリンは俺を捨てたんだ。彼女だけじゃない。今まで秋波を送ってきた者も、擦り寄ってきた者も、皆。だけど、あなただけは違う。あなたは寄り添ってくれた。あなたのお父上もだが、やはり一番俺を支えてくれたのはメイだ」
「わ、私……ごめんなさい」
「……何の謝罪だ?」
「アイヴァン様の気持ちを決めつけて勝手にことを進めようとして、ごめんなさい……」
「いい。言わなかった俺が悪い」
私の謝罪にあからさまな安堵を見せるアイヴァン様に、胸が高鳴る。
「そんな、アイヴァン様は悪くなんか……」
「では、許してくれるか?」
「私こそ許してほしいです……」
勘違いが恥ずかしくて、私は縮こまる。本当に恥ずかしい。穴を掘って三週間ほど籠りたいほど恥ずかしい。
だが、これからも彼と二人で過ごせることは、嬉しい。
「当然だ──と、ああ、大事なことを言い忘れていた」
「はい、何でしょう?」
「俺はメイを愛してる」
また聞き間違いだと思った。
さきほど、聞き間違いだと断じた言葉よりも信じられない言葉である。
なのに、耳はその言葉だけを逃さず拾い上げ、心臓がその意味を理解するより先に跳ねた。体が先に反応し、思考が置いていかれる。
そんな告白の仕方、反則ではないだろうか。
「メイ、あなたの気持ちが分かった以上、遠慮はしない」
何が起きているのか、すぐには理解できなかった。
逃げ道の扉を一枚ずつ閉じていくような……けれど、不思議と怖くなかった。
怖がる理由より、受け止めたい理由の方が、今は先に立っていた。
「え? え、遠慮って……何、を──」
言い終わる前に、指先が私の頬に触れた。
こんなふうに触れられるのは初めてだった。
「……こういうことだよ。こら、まだ全然足りないんだから、これくらいで照れるな」
「ひ、っ……無理です……照れます……は、はなれて──」
「覚悟しろ、メイ。俺がどれくらいあなたを愛してるか思い知らせる」
指先が顎のラインを辿る。
「……お、お手柔らかに……」
私のこの言葉は、聞き入れてもらえなかったし、彼が私を『どれくらい愛してる』かは分からせられたとだけ言っておこう。
そんなわけで、この日、私たちは『形式』じゃなく、本当に夫婦になった。
◇
夜更け、寝台の灯りだけが部屋を照らす中、アイヴァン様の淹れた紅茶に口を付けた。
まだ余韻の熱が体に残っていて、呼吸を落ち着かせながら思った。こんなふうに満たされる幸福があるのだと。
けれど、ずっと喉に引っかかっていた言葉がある。
……私は黙って飲み込めるほど器用ではない。
そういうわけで、ブルックリン様の話を切り出したところ、彼から衝撃の事実が発覚した。
なんとベストカップル賞は四十組の婚約者同士が得た賞だし、お金でブルックリン様が購入したものらしい。
卒業パーティーで生徒会が悪ふざけで催したイベントを彼女は楽しんでいたそうだ。
「──明日、ブルックリンに正式に通知を送る」
アイヴァン様の声は冷たくも粗野でもなく、ただ事実を確認するような静けさがあった。
「もう誤解させる必要も、曖昧にしておく理由もない」
私は瞬きをする。
「……通知、ですか? それは、どのような?」
「ああ。彼女がどれほど過去を語ろうと、今この位置にいるのはメイで、これから隣に立つのもメイという通知だ」
何を誇るでもなく、何を貶すでもなく、ただ淡く穏やかに。
その言葉だけで十分だった。
私が傷つく必要も、争う必要も、比べる必要もない。
もう答えは決まっている。
それを示されたことが、一番の救いだった。
──後になって分かることだが、ブルックリン様の言葉はほとんど虚飾だった。
社交界では「まあ、また始まったのね」と半ば呆れられていたとか。
しかし、このときの私には与り知らぬことで、私はアイヴァン様に「白い肌の女性がお好きなのですか?」などと、頭の悪い質問を繰り出していた。
そして、「俺はあなたの肌の色が好きだ。服の下、日焼けしてない白い肌を暴けるのが俺だけというのもいい。堪らない」と言って私を殺そうとしてきた。
なんてけしからん夫だ。
ああ、色気が天元突破した夫を、私が悩殺できる日は来るのだろうか。
とりあえず、「ひょえー」「うにゃー」と色気のない声を上げるのをやめることから始めようと決意した私である。
【完】




