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ディサルト辺境伯の眠り薬

 分不相応なほど豪奢な部屋に押し込まれたロレッタは、その中央で途方に暮れた顔をして立ち竦んでいた。

 使用人の恭しい態度、下にも置かない扱いが慣れなくて、どうにも落ち着かない気分になる。

 湯上がりに差し出された寝間着は絹地で、その肌を滑る感触に覚えたのは申し訳なさだった。

 自分なんかが、とついうっかり思ってしまって、ロレッタはぶんぶんと首を振る。

 自分は大切なお役目のためにここまで来たのだ。それを成し遂げなければ面目が立てられないし、いつまで経っても役立たずのままだ。

 ロレッタはぎゅっと拳を握りしめると、義務を果たすべく新床に潜り込んだ。



「……婚姻、ですか?」

 思わず言葉を発してしまったのは、それがあまりに意表を突いたものだったからだ。許しを得る前のそれに、ロレッタの父は顔をしかめ、不愉快さを隠しもせずに溜め息を吐いた。

 火のついた葉巻を手に、父はうんざりとした声で言った。

「そうだ。おまえとシンクレア家当主、ヒース・シンクレアとの婚姻が決まった。我がアディントンの恥であるおまえを、シンクレア家が引き受けてくれるそうだ。シンクレアの所領であるディサルトは北の国境だからな。子を産める健康な娘であれば、例え能無しの出来損ないであっても喉から手が出るほど欲しいらしい」

 ディサルト、とロレッタは口の中で呟く。

 北の国境に面するかの領地は、異国からの侵略者だけでなく、熊や狼などの獣が跋扈する、寒さ厳しく過酷な場所だ。そしてそんな土地に生きるのは、心身ともに猛々しい屈強な者たちばかりだった。

 昨今の令嬢たちが好むのは線の細い優美な男性で、つまりディサルトの住人たちはその対極にあると言って良いだろう。眼光は鋭く顔つきは厳しく、鍛え上げた身体は隆々と逞しい。暮らすのに厳しい環境も相俟って、令嬢の嫁ぎ先の候補から真っ先に除外されるのがディサルトだった。

 その当主の元へ嫁げ、と言うのだ。これが体のいい厄介払いであることは分かっていたが、ロレッタは力いっぱいに頷いてみせた。

「おまかせください、お父さま。このロレッタ、必ずやシンクレア家との子を成し、アディントンのお役に立ってみせます!」

 ロレッタが生まれてからというもの、父が彼女に向けた感情はと言えば、蔑みと嫌悪のようなものばかりで、それ以外は存在しなかった。その父が内実は厄介払いとは言え、ことを成せと期待をかけてくれたのだ。それに応えない訳にはいかないだろう。

 そもそもロレッタがアディントンの恥であることも、能無しであることも、否定の余地のない歴然とした事実でなのだ。

 アディントン家は魔法伯として名高く、アディントンに生まれた者は例外なく魔力に恵まれ、傷や病を癒やす希少な才を有している。アディントンが癒やしの大家、と言われる所以である。

 ロレッタのふたつ年上の姉はその最たる例で、彼女は施療院いっぱいの怪我人を容易く癒やすことができた。そして三つ下の弟は、力の向きを絞れば不治の病すら癒やせるのだ。彼らの元には救いを求める病人たちが列をなし、癒やしを受けた者たちはアディントンの素晴らしさを口々に語る。おかげで民から信望は篤く、王家の覚えもめでたい父は国の要職にもついていた。使用人の噂話によれば、近々姉は第三王子の元へ嫁ぐことになるらしい。ところがロレッタはと言えば、掠り傷ひとつ癒やすこともできなかった。

 魔力がない訳ではないのだ。

 治癒魔法の詠唱は叩き込まれているし、魔力の動かし方も分かっている。それなのに癒やしの力はぴくりとも発動せず、行き場を失った魔力はいたずらに霧散するばかりだった。

 そんな有り様なのだから父や家族に能無し、と言われ蔑まれるのも当然だろう。ロレッタは文字通り、タダ飯喰らいの役立たずなのだ。そんな不甲斐ないばかりの彼女を、アディントンは十八の齢まで、食うに困らず育ててくれたのだ。その恩を返すことができるなら、ディサルトへの嫁入りなど問題にもならない。むしろ癒やしの力以外を望まれているのだから、願ったり叶ったりだろう。

 そうひとり意気込むロレッタだったが、そんな彼女に冷えた眼差しを向けて、父は吐き捨てるように言った。

「……せいぜいシンクレアの当主に気に入られて、追い出されないようにすることだ」

「はいっ!」

 かくしてシンクレア家との婚姻は結ばれ、ロレッタは雪が溶け切るのを待たずにディサルトへと旅立ったのだった。

 アディントン家の住まいがある王都中心部から、国境のディサルトへは馬車を使ってひと月ほどの距離がある。北に進むにつれ道は険しくなり、山を越えるごとに気温は徐々に徐々に低くなった。

 隙間風の入り込む馬車の中で、ロレッタは冷える手を擦り合わせながら小さく息を吐いた。

 曲がりなりにも貴族の輿入れなのだが、ロレッタに用意されたのは移動手段と、少数の護衛と必要最低限の着替えのみだった。付き添いは父の従者がひとりいるが、これはロレッタが逃げ出すのを防ぐ見張り役である。メイドなどの世話を焼いてくれる者はおらず、それで身の回りのことはロレッタが自分でこなさなければならなかった。

 もっともロレッタにとってそれは、いつもどおりのことだ。

 幼少期を除けばメイドなど付けられたことがなく、それでロレッタはさして不便も感じず、護衛たちが驚いた様子で見てくるの横目に、自分で荷から薄手のケープを引っ張り出した。

 家族から無いものとして扱われ、それでも逞しく生きてきたロレッタだったが、それは貴族の令嬢の枠を超えるようなものではない。身体を鍛えていた訳ではないし、体力はごくごく平均的な令嬢のそれだった。そんな彼女が初めての長旅と、春先とも思えない寒さに体力を奪われるのは当然の帰結だろう。ロレッタは旅程の半分を越えた辺りで、不覚にも体調を崩してしまった。

 これでロレッタが能無しではない普通の令嬢であれば、途中の村に立ち寄るなりして休息を取った違いない。だが父の従者は熱で朦朧とするロレッタを一瞥すると、休息を取るどころか御者に命じて馬車を急がせた。

 きっと彼は能無しなどディサルトに置いて、さっさと王都に戻りたかったのだろう。

 父の従者が、ディサルト行きを嫌がっていたのは知っている。ましてや、じきにアディントンの者でなくなる相手に、気遣う意味を見い出せないだろうことは十分に理解できた。そもそもロレッタが能無しでなければ、父の従者がディサルトに行くこともなかったのだ。

 すべてロレッタが悪い。だがそうと理解していても、さすがに今回ばかりは心がぽきりと折れてしまいそうだった。

 泣けば体力を失うだけなのに、それでも流れる涙を止めることはできなかった。下がらない熱と咳に苦しみながら、寝ては起きてを繰り返しているうちに、気づけば馬車はディサルトに入っていたらしい。だが寝付いていたせいで、ロレッタは町並みを眺めることも、ディサルトに暮らす人々の様子を見ることも叶わなかった。どころか領主館に着いたときには、ロレッタはすっかり意識を失っていて、ディサルト当主に挨拶をしないまま領主館に通されたらしかった。

 ふと気づいた時には寝台に横たわっていて、ロレッタは朦朧としたまま視線だけを巡らせた。

 なにがどうなっているのかさっぱりだ。ロレッタは身を起こそうとして、だがそれを押し留める力強い手があった。

「どうか無理はなさらず、お休みになってください。まだ熱が下がっていないんです。今は安静に、身体を労らないとだめですよ」

 そう女性の優しげな声が言う。そしてひんやりと冷たい、大きな手がロレッタの額に触れて、それから目蓋をすっかり覆ってしまった。

 与えられた小さな暗闇に、不思議とほっとする。ロレッタは静かに目を閉じると、また眠りに落ちていった。

 それからはふと目が覚めては、また眠るの繰り返しだった。室内には優しい声をした女性と、その他にも時折訪れる誰かいるようだった。

 眠るロレッタから離れた位置から、ぽつり、ぽつりと静かに話す声が聞こえてくる。

「……熱は、下がったのか?」

「ええ、今朝にようやく。ですが、長く床についてらしたので、ずいぶんとお痩せになってしまいました。これから少しずつ食べて、体力をつけていただかないと。……床離れできるまでには、まだかかると思いますよ」

「そうか……。ともあれ、ひと山越えたようで安心した。馬車から降ろされた時の様子は、あまりに酷いものだったからな」

「まったくです。あのような薄着で旅をさせるなんて、あちらはなにを考えてらしたのか。ディサルトでは夏の格好ですよ。持ってらした荷も拝見しましたが、ここではとても暮らしていけません。一刻も早く、お衣装を仕立てて差し上げるべきです。それと――」

 なるほど王都とディサルトでは、季節ひとつぶんのずれがあるらしい。優しい声をした女性が言うように、ロレッタが持参した衣装では防寒にならなくて当然だろう。

 王都の冬と思えば、色々と得心が行く。室内は燃える薪の匂いと音がするし、ロレッタがくるまっている寝具はおそらく羽毛のそれだ。彼女がアディントン家で使っていた薄いキルトと毛布とは、暖かさも快適さも全然違う。

 暖められた部屋に居心地の良い寝床。こんな贅沢をして良い身ではないのに、と思ったが、ロレッタは身を起こすこともできず、引きずられるようにまた眠り込んでしまった。

 そして次にぱかりと目を覚ましたロレッタは、見覚えのない辺りの様子に睫毛をまばたかせた。

 一瞬の混乱はだがすぐに去って、じわじわとなにがあったのか記憶に蘇ってくる。すぐに状況と自分の立場を思い出して、ロレッタは慌てて身を起こした。

 その途端、頭がくらりとする。

「っあ……」

 手を伸ばしたが身体は支えられず、ロレッタは音を立てて寝台に倒れ込んだ。するとすぐに扉が開いて、誰かが慌てた様子で駆け寄ってくる。親切なその人はロレッタの身体を支え、丁寧な手付きで寝台に押し込んでから、安堵の息を吐いた。

 見ればロレッタの母と同年代の女性だった。少しふくよかな身体つきをしていて、眦にある皺が優しげに見える。

 彼女はおっとりとした笑みを浮かべたまま、穏やかな口調で言った。

「お目覚めになられて良うございました……。ですが無理は禁物ですよ。身体を起こしになるのでしたら、クッションをお持ちしましょう。少々お待ちくださいね」

 明るい髪色をした彼女は、てきぱきと動いてロレッタの身の回りを整えてくれた。

 ふかふかとしたクッションを背に当てて、それでようやく身体を起こすことができたロレッタは、面倒を見てくれた彼女に向かって小さく頭を下げた。

「お手数をおかけして、申し訳ありませんでした。嫁いできたというのに、シンクレアのご当主さまに挨拶もできず、それどころか寝込んでしまうなんて……。ご面倒をおかけして、なんとお詫びを言えば良いのか……」

「あら、まあ、ご丁寧に。でも私はただの使用人ですから、ロレッタさまに謝っていただく必要なんてないんですよ。旦那さまへの挨拶は……ロレッタさまが元気なってからにいたしましょうね。今回のことは迎えに出られなかった、旦那さまにも責任がありますから、ロレッタさまは少しも気にしなくて大丈夫ですよ」

 彼女はそうしかつめらしく言ってから、からりと笑ってみせた。

「申し遅れました。私はマルティナといいます。今は屋敷内の細々したことを任されてますが、元々は旦那さまの乳母だったんですよ」

「……マルティナさん。私は、ロレッタ・アディントンと申します。……あの、寝込んでいる間、面倒を見てくださったのはマルティナさんですよね? 本当に助かりました。今も、色々とありがとうございます」

「いえいえ、お礼なんて良いんですよ。病気の人の面倒を見るのは、当然のことなんですからね。ましてやロレッタさまは、旦那さまのところへ嫁いでくださった方です。しっかりお世話させて貰わないとなりません。それから、私にさんづけも敬語も必要ありませんよ。どうぞマルティナ、とお呼びくださいませ」

 にこりと微笑んで言ってから、マルティナはロレッタに気遣わしげな目を向けた。

「……王都からここまで、大変でしたでしょう?」

「いいえ、そんな……。ディサルトの寒さにはちょっと驚いたけど、旅自体は全然問題なかったんです。それに私は、元々は頑丈なたちで」

 風邪をひいたのだって、ずいぶんと久しぶりのことだったのだ。ロレッタは健康なのが唯一の取り柄で、だからこそディサルトに嫁ぐという役目を任されたのに、これでは能無しどころかなんの役にも立っていない。

 一刻も早くシンクレア家当主に挨拶をして、妻としての大任をはたさなければ。

 ロレッタは勢い込んで寝台から降りようとして、だがそれより先にマルティナに押し留められてしまった。

 乱れてしまった寝具を整えながら、マルティナが言い聞かせる口調で言う。

「いくらお身体が頑丈だからと言って、今は無理はいけませんよ。体調が戻るまで、旦那さまのことは気にせずゆっくり養生なさってくださいね」

 そう告げる声は穏やかだが、なぜか不思議と逆らえないものがある。

 ロレッタは驚きに睫毛を瞬かせ、それからこくりと頷いたのだった。

 元々細く華奢な身体つきのロレッタだったが、寝込んでいる間にずいぶんと肉が落ちてしまったらしい。

 目が覚めて三日後、マルティナから湯を使う許可が出たロレッタは、浴室の鏡に映った自分の姿を見て驚いてしまった。

 元々豊かではなかった胸はぺたんとして、腰は括れているというより抉れている。肋はくっきり浮いているし、腰骨のあたりも骨がごつごつしている。これでは持参した衣装が合わないのでは、と思ったとおり、試しに着てみたそれらは、見るもみっともないことになってしまった。

 余った分を詰めようにも、ロレッタの裁縫の腕は貴族令嬢の平均だ。つまりハンカチやシャツに刺繍をするのがせいぜいで、衣服となるとお手上げである。

 それでロレッタはひとまず部屋着に袖を通し、シーツを取り替えに来たマルティナに声をかけた。

「マルティナ、あの……ひとつ聞いても良い?」

「ええ、なんでしょう。――ああ、そうだ。お湯は問題ございませんでしたか?」

「大丈夫、ありがとう。おかげで、さっぱりできました。それで……悪いのだけど、針仕事の得意な人を誰か知らない?」

「針仕事、ですか?」

 うん、と頷く。

「寝込んでいたせいで、なんだかずいぶんと体型が変わってしまったみたいなんです。だから衣装を直したいのだけど、私はあまり針仕事が得意じゃなくて……」

「ああ、そのことでしたら、心配要りませんよ。ロレッタさまがお休みになられている間に、新しく衣装を仕立てておりますから」

「あ、新しく、ですか?」

 びっくりして返したロレッタに、マルティナが頷く。

「ロレッタさまがお持ちになったものは、ディサルトでは夏に着るようなお衣装でしたからね。それで僭越かと思いましたが、こちらで時期の良いものを用意させていただきました。起きられるようでしたら、今ご用意いたしますよ」

 お願いします、とロレッタが言うと、マルティナはクローゼットから衣装のいくつかを取りだした。

 どれもこれもが、華やかな織模様が素敵なデイドレスだった。触れてみると、しっかりと織られているのがよく分かる。裏地の付いた生地は見るからに暖かそうで、なるほど王都ならば冬に着て丁度良いかもしれない。

 ドレスを新しく仕立てるなんて、役立たずの身に恐れ多いのに、だがそう思う一方で、真新しいドレスを見ると心が浮き立たずにはいられなかった。

 そもそも今まで能無しのロレッタが着るものと言えば、姉のお下がりか、誰かのお古が当たり前だったのだ。輿入れに父が手配した衣装でさえ姉のお古で、婚礼衣装は端から用意されていなかった。

 それなのにいま目の前にあるのは、ロレッタのために用意された、ロレッタのためのドレスなのだ。

 嬉しく思う気持ちが面に出てしまっていたのか、マルティナが、さあさあ、と着替えを急かしてくる。その勢いに押されるまま、ロレッタはドレスに袖を通した。

 ディサルトの流行りの形だと言う襟は高く詰まっていて、おかげでとても暖かい。肩口は膨らませずすとんと落ちて、肘から袖口がゆったりと優雅に広がっていた。

 腰はコルセットに似た帯で締めて、前に紐を通して身幅を調整できる作りだ。細く絞った腰のラインから、ペチコートで膨らませたスカートがふんわりと広がっている。足元は靴ではなくふくらはぎまで覆う編み上げのブーツで、内側は毛皮張りの防寒仕様だ。革が柔らかく履き心地が良いのに、水も雪も通さないのだと言う。

 病み上がりのロレッタにはありがたいばかりだった。

 嬉しくてドレスのあちらこちらを眺めていたロレッタは、はたと我に返って居ずまいを正した。にこにこしているマルティナに向かって微笑みかけた。

「マルティナ、素敵なドレスをありがとう。こんなに良くしてもらって、なんてお礼を言ったら良いのか分からないくらい」

「どういたしまして。ですが手配をしたのはヒース坊っちゃん――旦那さまですから、お礼は旦那さまにも言ってあげてくださいね。ああ、そうだ。体調がよろしいのなら、旦那さまに挨拶へ行かれますか? 今は仕事も落ち着かれているようですし、少しくらいならお邪魔しても問題ないと思いますよ」

「……っ」

 ロレッタは思わず声を上げそうになったのを、すんでのところで飲み込んだ。

 マルティナに心尽くしの世話をされて、うっかり忘れかけていたが、自分がここに来たのは婚姻し、子供を産むためなのだ。熱を出して寝込んだことは不可抗力とは言え、結婚相手の顔も見ていないどころか、挨拶すらしていないのは失態にもほどがある。

 ざっと顔を青くしたロレッタは、内心あわあわしながら言った。

「ぜ、ぜひとも、よろしくお願いします。あの、マルティナ。ヒースさまは、どのような方なの? お会いする前に、心構えと言うか、失礼のないように振る舞えるようにしておきたくて」

「旦那さまですか? 至って普通の方だと思いますよ。真面目でお優しいですし。ただ……」

「ただ?」

「いえ、そんな大したことじゃないんですけどね。王都からいらした方は、体格が立派だとおっしゃいますよ。顔立ちは……一応整ってはいるのですが……どちらかと言えば強面ですかねえ。子供に泣かれたことも多々ございますし。ああ、それと少々口下手なところがあるので、会話が続かなくても気にしなくて大丈夫ですよ」

 むくつけき男性が多いと聞くディサルトだが、やはり領主である彼も同様であるらしい。

 子供に泣かれるような怖い顔、というのはちょっと想像がつかないが、婚姻の申し出を受けてくれて、風邪に倒れたロレッタを迷惑がったり、叩き返したりはしなかったのだから、きっと良い人に違いない。

 失礼な態度は取らないようにしなくては。

 ロレッタは内心で気合いを入れて、先導するマルティナの後に続いて部屋を出た。

 窓を大きく取った廊下は、真冬のように空気ひんやりしている。もしロレッタが手持ちの衣装で部屋を出ていたら、間違いなく風邪がぶり返していたことだろう。

 改めてマルティナの気遣いに感謝しながら、ロレッタは廊下をしずしずと進む。

 ディサルトの領主館は、寒いことを除けばずいぶんと立派な建物だった。石造りの壁が長い歴史を感じさせる。

 ただそのぶん冷えるんですよ、とはマルティナの談で、いわく古い建物がゆえに暖房用の配管を通せずにいるらしい。室内だけは寒さ避けのまじないがかけられていて、おかげで少量の薪でも十分な暖かさを保てるのだそうだ。

 浴室の湯が豊富に使えるのも、そのまじないの一種だと言うのだから驚きである。

 出来損ないで能無しのロレッタだが、だからこそ、それを補おうと魔導書は山ほど読んだし、癒やし以外の魔法に関する知識も蓄えてある。温度に関する魔法はとても繊細で、しかも永続性をもたせるとなると、その構成の複雑さは、考えただけでも目眩がしそうだった。

 遠くからでも良いから、魔法の根幹部分を見せてもらえないだろうか。

 そんなことを考えているうちに、どうやら目的地に到着したらしい。マルティナが足を止めたのは重々しい雰囲気の扉の前で、その先にあるのが当主の執務室だ。

 マルティナは気負うふうもなくノックして、中からの応えを待たずに扉を開けた。

「旦那さま、マルティナです。お伝えしていたとおり、ロレッタさまをお連れしましたよ」

 軽い調子の声で言ってから、マルティナがロレッタを振り返る。彼女は扉を抑えたまま半歩下がると、ロレッタに室内へ入るよう促した。

「し、失礼します」

 旦那さまとの初対面だ。

 どきどきしながら執務室に入る。

 ロレッタの知る執務室は父のそれだけだが、比べるとずいぶんと雰囲気が違っている。陽の光が射し込む室内は明るく、まじないのおかげでふんわりと暖かい。石壁には分厚いタペストリーが掛けられていて、調度品は書架の他には執務机があるばかりだった。

 深い飴色の机の上には、綴られた紙の束と、丸めたものとが山のように積まれている。その向こう側にいるのが、ロレッタの旦那さまであるディサルト当主、ヒース・シンクレアその人だった。

 座っていても、そうと分かるくらいに背が高い。明るい色の金髪は長く、凝ったかたちに編み込まれて、高い位置でひとつに括られている。落ち窪んだ眼窩に、冴え冴えと冷たい眼差し。薄い唇はむっつりと引き結ばれていて、顎には無精髭が生えていた。

 強面、と言われれば、たしかにそのとおりかもしれない。

 思わずしげしげと見つめてしまったロレッタは、氷のような薄い水色の目で見つめられて、慌ててスカートを摘み、膝を折って礼を取った。

「お初にお目にかかります。ロレッタ・アディントンと申します。婚姻のために来たにもかかわらず、風邪で寝込んでしまうという失態を犯し、大変申し訳ありませんでした」

「いや……」

 お腹の奥に響くような低音だ。思わず目を瞬かせたロレッタに、ディサルト当主は短く言った。

「身体は大事ないか?」

「は、はい。もうすっかり良くなりました。この暖かくて素敵な衣装も、旦那さまが手配くださったと聞きました。衣装の不手際は、私が物を知らないせいだったのに、こんなに良くしてくださって本当にありがとうございます」

 少し前のめりになって言う。

 口先だけでなく、本当に心から感謝しているのだ。能無しの自分にこんなにも良くしてくれたのだから、その恩を返せるならなんでもするつもりだった。もし命じてくれれば、下働きだって辞さないくらいだ。

 勢いこんでそう言い募ったロレッタに、ディサルト当主は僅かに目を瞠った。そうすると冷たい眼差しに温度が感じられて、見た目の印象がぐっと変わる。

 厳しい外見からは想像できないが、きっと優しい人なのだろう。そしてロレッタがそう思ったとおり、ディサルト当主は真摯な声で言った。

「……きみを受け入れると決めたのは私だ。ならば最大限のもてなしをして当然だろう。きみが気に病むことではない。それと……私のことは、ヒースと呼びなさい。敬称は必要ない」

「は、はい。では、ヒース。ひとつ聞いても良いですか?」

 ヒースがこくりと頷いたのを見て、ロレッタは後を続けた。

「父から婚姻に関して、出立前に色々と聞かされております。多忙なディサルト当主を煩わせないよう、花嫁の出迎えは不要、婚姻に関する手続きは当主の署名のみで済ませ、挙式や披露宴は行わない。であれば私がディサルトに来た時点で、婚姻は結ばれていると思うのですが、初夜はいつになるのでしょうか?」

 ぶはっ、と背後で吹き出す音がする。反射的に背後を振り返ると、マルティナが顔を背けて肩を震わせていた。

 ぶしつけな質問をした自覚はあったが、そこまで笑われることだっただろか。

 思わず内心で首を傾げてしまう。なにせ初夜がいつになるのか、はロレッタにとって死活問題なのだ。

 男女のあれこれは医療書を読んで把握済みだが、それをするとなると色々と準備が必要だし、体格差があると、とても大変思いをすることになると聞いている。

 ヒースは見るからに上背がありそうだし、一方ロレッタは小柄で、しかも長く寝付いていたせいで、身体の厚みがずいぶんと減ってしまった。体重を元に戻さないまでも、もう少し太れるくらいの時間的余裕がほしい。

 そう思っての問いだったのだが、ヒースは眉間に深い皺を刻んで、苦さをたっぷり含んだ声で言った。

「……私は病み上がりの女性に、無体を働く気はない。たしかに書類上では、きみはすでに私の妻ではあるが……そういうことは気にせず、今は体力の回復に努めなさい」

「お気遣いには感謝します。ですが、私が嫁いできたのはディサルトの跡継ぎとなる子を産み、立派に育てるためです。ヒース、あなたが婚姻の条件に真っ先に上げたのもそれだと聞いています。それなのに気にするな、と言われても無理です。せめて、いつになるかは教えてくださいませんか?」

 声だけでなく表情まで苦くしたヒースが、ロレッタの背後に視線を向ける。

「……マルティナ」

 低く呼びかけられたマルティナが、可笑しそうな声音で言った。

「風邪をお召になった以外は、ロレッタさまは健康でいらっしゃいますからね。半月もあれば体力もお戻りになるでしょう。……旦那さま。奥方さまにここまで言わせておいて、逃げ出すのはみっともないですよ。良いからさっさと覚悟をお決めください」

 ぴしゃりと言ったマルティナの勢いに押されるようにして、ロレッタとヒースの初夜は二十日後に決定した



 世にありふれた物語のように、来たるべき初夜に向けて身体の隅々まで磨き上げられる、なんていうことはなかった。

 そもそも病み上がりである。優先されたのは体力づくりで、ロレッタはマルティナから世話を焼かれながら、食べて休んでを繰り返さざるを得なかった。

 そんなふうに二十日は瞬く間に過ぎて、ついに念願の初夜である。

 湯上がりに用意されていたのは、普段よりも質の良い寝間着で、マルティナに案内されたのも、普段とは異なる寝室だった。

 旦那さまをお待ちくださいね、と言ってから、マルティナはロレッタを置いて使用人の控え室に下がっていった。

 見届け人の風習はなくなって久しいが、それでも夜通しの番をする慣習は未だ残っている。その役を買って出てくれたのはマルティナで、もしなにかあった時は、ロレッタが叫べば彼女が助けに来てくれるらしい。

 既に覚悟を決めているロレッタが叫ぶことはないだろうが、マルティナのその気遣いに思わず微笑んでしまう。

 もっとも彼女の気遣いも当然で、ヒースとは初めましての挨拶以来、ほとんどまともに会話をしたことがなかったのだ。食事の席を何度か一緒にしたのみで、交わした言葉といえば挨拶と天気の話くらいだろうか。

 打ち解けるより先に夫婦になることについて、マルティナは相当に気を揉んでいるようだった。

 ロレッタとしても、初対面同然の相手と夫婦となることに、まったく不安がないと言えば嘘になる。だがロレッタにとってなにより重要なのは、自分に課された義務を果たすことなのだ。それを成し遂げなければ面目が立てられないし、いつまで経っても役立たずのままである。

 ロレッタはぎゅっと拳を握りしめると、義務を果たすべく新床に潜り込んだ。

 寝具の暖かな羽毛と、ふかふかした毛布の感触に、そういう状況ではないと分かっているのにほっとしてしまう。

 このまま和んで、うっかり眠らないようにしなければ。

 廊下に繋がる扉が開いたのは、ロレッタがそう思った時のことだった。

 はっとして視線を向けると、入り口に立っていたのはヒースだった。

 湯を使ったからだろう。編んでいた髪は解かれていて、豊かな金の波を作って肩に流れかかっている。鋭い眼差しは以前に見たままだが、無精髭は綺麗に当たられていた。

 髭がないというだけで、ずいぶんと印象が違って見える。思わずまじまじと見つめてしまったロレッタに、ヒースがちらと微苦笑を浮かべた。

 体格を感じさせない静かな足音で近づいた彼は、ロレッタから少し離れた位置に腰を下ろした。

 ロレッタが慌てて身を起こすと、ヒースは手の動作でそれを押し留めた。迷ったロレッタが枕に背を預けて、するとヒースが口を開いた。

「……今夜、きみを抱くつもりはない」

 前置きもなしに告げられたそれに、ロレッタはぽかんと口を開けてしまった。

 淑女の、それも今から初夜に臨もうとする女性としてはなしの行動だったが、しかし告げられたことが告げられたことだけに、その反応も仕方がないと言える。なにせ覚悟を決めてのこれだ。唖然とするな、という方が無理があるだろう。

 ロレッタは口を開け閉めしてから、そっと慎重に問いかけた。

「それは……つまり、私に魅力がないということですか? もしくはヒースの男性としての機能に問題がある、とかそういう……」

「そうではない」

 予想外に否定されて、また驚いてしまう。ではなぜ、とロレッタが思ったのを見透かしたかのように、ヒースが深く溜め息を吐いた。

 苦い声で言う。

「きみはなにも悪くないし、私自身にも問題はない。ただ……我々は夫婦となるには、あまりに時間が足りていない。そもこの婚姻は、あまりに急な話だったのだ」

「……そうなのですか?」

 ロレッタが父に婚姻を命じたのは、なにもかもが決まった後のことだった。考えてみれば、いつその話が持ち上がったかは聞かされていない。

 そもそも貴族同士の婚姻は普通、打診から決定までおおよそ一年はかかる。よほどの事情で時期を早めたとしても、半年がせいぜいだろう。それなのに急な話、とヒースが言うのは違和感がある。

 どういうことなのか、と首を傾げたロレッタに、ヒースが淡々と続けた。

「私が婚姻相手を探していることは、貴族であれば誰もが知っていた話だ。だが危険で暮らしにくい辺境に、大事な娘を嫁がせようとする者は皆無だった。であればディサルトを離れ、社交に勤しむのなど無駄なことだろう。それで今シーズンは陛下に挨拶を済ませた後、早々にディサルトへ戻った」

 思い切りが良いと言うべきか、諦めが早いと言うべきか。なんとも判断に迷う話である。

 ロレッタは唖然とするしかなかったが、それを気にしたふうもなくヒースが言った。

「そうこうする内にシーズンは終わり、そうするとディサルトは冬支度で慌ただしくなる。十全に備えくては、命に関わるからだ。アディントン魔法伯から、きみが嫁ぐことになったと知らされたのは、その忙しい最中のことだった」

「え、あの……婚姻の打診もなく、婚約という話すらなく、いきなり、ですか?」

 ヒースがこくりと頷く。

「理解しがたい話ではあったが、しかし陛下の許可は得ている、と言われ、実際にその直後に陛下から書状が届いたのだから、こちらとしては受け入れるしかない。それに……ディサルトが花嫁を欲していたのは確かだ」

「……私の父が、大変な失礼をいたしました。これではヒースが怒るのも当然です。私を妻として受け入れられないのも当然でしょう。ですが」

 言ってロレッタは顔を上げてヒースをまっすぐに見つめた。きっぱりと言う。

「ヒースにはヒースの事情があるように、私にも私の事情があります。夫婦として打ち解ける時間が欲しいと言うなら、それは夫婦となってからでも問題ないのではありませんか? 世の中には身体から始まる、という関係もあるそうですし」

「……は?」

 厳しい表情を崩して、ヒースがぽかんと口を開ける。隙だらけのそれに、ロレッタは今だと素早く手を伸ばした。

 がっしりとした肩を掴み、思い切って押し倒す。上手く意表を突くことができたのか、ヒースが寝台にころりと転がった。その上に、えいやっと跨がってしまう。

 ロレッタは頭の中で医学書のあれこれを思い描きながら、ヒースが着ている寝間着に手をかけた。首元を絞める紐を解きながら、ロレッタはにっこり微笑んでみせた。

「心配しないでください。どうすれば良いかは書物ですべて予習済みです。私は比較的痛みに強いですし、ヒースはそのまま寝転がっていてもらえれば十分ですよ」

「は? ……い、いや、待ってくれ。頼むから、少し待ちなさい……!」

 もの凄く苦い顔をしたヒースが、ロレッタの肩を掴む。それからなにをどうしたのか、あれよあれよという間に寝台に転がり返されて、仰向けのロレッタは驚いて目を瞬かせた。

 ロレッタをやんわり押さえつけたまま、ヒースが表情同様に苦い声で言う。

「……きみにも事情があるだろうことは、もちろん分かっている。だからこそ、きみに手を出すわけにはいかない。もう少し時間を――」

 最後まで聞かずに肩を押さえつけた手を振り解き、ロレッタはヒースの腕をがっしと掴んだ。もう一度押し倒そうとしたが、頑健な身体はびくともしない。

 先ほどのように、なにかで油断を誘えないことには難しそうだ。

 ここは口づけでもして驚かせるのが定石だろうか。そう思いながら上体を起こし、ヒースの首に腕を投げかけた時だった。

 ロレッタの指が首筋に触れた途端、ヒースが小さく息を飲んだのが分かった。

 彼は戸惑うように瞬きをして、なにかを振り払うように頭を振る。それから何ごとかを言おうと口を開き、だが声を発するより先に、がくんと頭が大きく揺れた。

 次の瞬間、ヒースの大きな身体が、ずっしり伸し掛かってくる。ようやくその気になってくれたのかと思いきや、しかし耳元で聴こえてきたのは、なんとも心地よさそうな寝息だった。

「……え?」

 伸し掛かる重さに苦心しながら、ロレッタは身をよじってヒースの横顔を覗き込んだ。

 濃く長い睫毛が頬に影を落とし、閉じた目蓋はぴくりともしない。よくよく見れば目の下には隈ができていて、辺境伯として多忙な彼の苦労のほどが知れた。

 とは言え、初夜のさなかにこの状況はいただけない。

 ヒースには新床の夫として、義務を果たしてもらわなければならないのだ。寝てもらっては困る。

 だがヒースの肩を揺すってみたり、声をかけて背を軽く叩いたり、脇腹を突いてもみたが、深く寝入ったヒースが目を覚ます気配はなかった。完全な熟睡である。これではロレッタが頑張っても、どうすることもできなかった。

 ロレッタは諦めて溜め息を吐くと、もぞもぞと藻掻いてヒースの身体の下から抜け出した。

 眠るヒースに寝具を掛けてから、そっと寝台から下りる。

 ロレッタが向かったのは使用人の控え室に続く扉の前で、少し迷ってから小さくノックした。

「……あの、マルティナ。ちょっと相談があるのだけど、ここを開けてくれる?」

 言うとすぐに扉が開いて、慌てたふうのマルティナが顔を出した。

 困惑と同情とが入り混じったその表情に、マルティナがこの状況になにを思ったのかがよく分かる。ロレッタは苦笑して、声を落として言った。

「ええと、その。話をしていたら、いきなりヒースが眠ってしまったの。あの寝台で一緒に眠るのは難しそうだから、毛布を貸してもらえないかしら」

 ロレッタひとりなら悠々と眠れる寝台も、ヒースと一緒だとかなり窮屈だ。ましてやヒースは今、寝台の真ん中で寝入ってしまっている。つまり空いているのは端ばかりで、そんなところで眠れば寝台から転げ落ちるのは火を見るより明らかだった。

 それならば長椅子で、毛布に包まって眠った方がよほど安全だろう。

 そう思ってヒースが来てからの経緯をざっくり説明していると、マルティナが額に手を当てて呻くような声音で言った。

「ちょ、ちょっとお待ちください。今、なんとおっしゃいました? ……旦那さまが眠った? 声を掛けても、揺すっても起きない? あの旦那さまが、ですか?」

 マルティナが何に動揺しているのかが分からず、ロレッタは首を傾げる。

 よく分からないまま視線で寝台を指すと、マルティナが小さく息を呑んだ。

 失礼します、と言って寝台に近づいていく。彼女はヒースを覗き込み、それから困惑しきった表情でロレッタを見た。

 なにか良くないことでもあるのだろうか。ロレッタが近づくと、マルティナは戸惑う声音で言った。

「……大変、失礼なことをお訊きしますが、旦那さまはここでなにか口になさいましたか?」

「いいえ、なにも……。ヒースとは話をしただけで、そしたら、急に……」

 マルティナが小さく息を吐く。

「ロレッタさま。申し訳ありませんが、一度お部屋に戻っていただいてもよろしいですか?」

「え、ええ。はい、もちろん」

 マルティナから手渡された上着を羽織り、ロレッタは半ば追い出されるようにして寝室を後にした。

 いつもの部屋に戻ったロレッタは、途方に暮れるしかなかった。

 ロレッタがヒースに対して、なにか良くないことをしたのだ、と疑われているだろうことは分かる。そうとしか思えない状況だ。世の中には人を昏倒させる薬は存在するし、どころかロレッタはその精製方法も知っている。

 だが一刻も早く世継ぎを儲けたいロレッタに、そんなものは不要である。むしろ初夜を避けられたのはロレッタの方だったのだ。あの状況から考えれば仕方がないとは言え、疑われたのは理不尽という思いがする。

 しかし今はなにを言っても無意味であることも分かっていた。それでロレッタは上着を脱いで寝台に潜り込み、もやもやしたものを抱えたまま目を閉じた。

 状況が状況だけになかなか寝付けず、うとうとしたのは夜明けの時分で、ようやく訪れた眠りを破ったのは、慌ただしいノックの音だった。

 はっと起きたロレッタが身を起こすと同時に扉が開く。現れたのは昨夜寝落ちしたヒースで、彼は大股に歩み寄って来ると、寝起きのロレッタに構う様子もなく言った。

「ロレッタ、きみは……一体、なにをした?」

「……なにを、と私に言われても困ります。それを言うならヒースこそ、なにもせずに寝てしまったではないですか」

 いくらロレッタが無能で役立たずだからと言って、初夜になにもせず眠られるのはさすがに堪えるものがある。

 思わず拗ねた口調になったロレッタに、ヒースが一瞬虚を突かれたような顔になった。

 だが彼はすぐに表情を取り繕うと、生真面目な声の調子で言った。

「そのことだが……マルティナや他の者は、きみが私になにかしたのではないかと疑っている。でなければ、私がああも眠りに落ちることなど有り得ないからだ」

「……昨夜のマルティナの態度を見たら、私が疑われていることは分かります。でも私がなにもしていなかったことは、ヒースが一番分かっているのでは?」

「確かに、昨晩のきみの様子に不審な点は見当たらなかった。だが……私は重度の不眠症なんだ。なにもせずに、眠るなんてことは絶対に有り得ない。であれば、きみが他に知られていない何某かの方法で、私を眠らせたと考えるのが自然だろう」

 あまりに予想外のことを言われて、ロレッタは唖然としてしまう。

 ヒースはいったいなにを言っているのだろう、と思いながら口を開いた。

「ええと、私がなんの力も持っていないことは……?」

「それは魔法伯から聞いている。だが、きみはアディントンだ。傷を癒やすことはできなくとも、魔力は有しているだろう」

「それは、そうですけど……でも、どれだけ調べてみても、私はなんの力も発動させられなかったんです。それに……誰かを眠らせる魔法なんて、見たことも聞いたこともありません」

「見たことや聞いたことがないからと言って、存在しないとは限らないだろう。そもそも魔法がそれと系統立てされたのは、ここ百年のことだ。未知のものが新たに見つかることは、十分に有り得る」

 そう言われてしまうと、返す言葉がない。

「きみへの疑いを晴らすためにも、ここは試してみるのが一番だと思う」

「試す……? どうやって、ですか?」

「昨夜の状況を再現すれば良い。そうだな、きみが私を押し倒したところから始めようか」

 言ってヒースは上着を脱いでから、寝台に腰を下ろした。

 ぎし、と大きく木の軋む音がする。

 ヒースがブーツの紐を緩めるのをただ眺めていたロレッタは、ふと思いついて口を開いた。

「……あの、ヒース。それなら、私にも提案があります。昨夜の再現をするのは構いませんが、それだけでは私にはなんの利点もありません。ですから、試してみて、やっぱり私になにもないと分かったら、そのまま私をあなたの妻にしてくれませんか?」

 振り返ったヒースが、不思議そうに首を傾げた。

「……それが、きみの利点なのか?」

「はい。私がディサルトに嫁いできたのは、そのためですから」

 きっぱり言い切ったロレッタに、ヒースは短い沈黙の後で、こくりと頷いてみせた。

 これでアディントンの役に立つことができる。

 ほっとしたロレッタは気合いたっぷりに昨夜の行動をなぞり、そして昨夜と同じく、すこんと眠りに落ちたヒースを前に、頭を抱えることになった。

 悶々とするロレッタを他所に、小一時間ほど眠って目覚めたヒースが、そこはかとなくすっきりした顔で言った。

「やはり、きみには眠りに関する力があるようだな……。発動の切っ掛けは……肌の接触だろうか。昨夜は気づかなかったが、思い返してみれば、きみが触れると、不思議と寛ぐと言うか……妙に落ち着く感じがする。それに薬とは違って、とても眠りに落ちるのが緩やかだ。目覚めも良い」

 なにやら分析を始めているが、ロレッタにとって聞き捨てならないことばかりだ。

 色々言いたいのに思考が追いつかず、ロレッタはくらくらする頭を押さえながら言った。

「ちょ、ちょっと待ってください。それって、つまり、私が触ると眠くなるってことですか……?」

「そういうことだな。できることなら、今夜もきみと枕を共にしたいものだ」

 聞きようによっては艶っぽい口説き文句だが、そうでないことはロレッタが一番良く分かっている。

 思わずヒースの袖口を掴んで言った。

「そ、そんなの駄目です……! ただ同衾するだけでは、子を成せないではありませんか。それでは私は役立たずのままです!」

「……ずいぶんと、そこにこだわるな。ディサルトに世継ぎが必要なのは否定しないが、しかし今すぐに子を儲ける必要はない。それに役に立つかどうかで言えば、不眠を解消してくれる方がよほどありがたい。久しぶりに眠って気づいたが、頭の働きがずいぶん違うからな。これなら仕事の効率も上がるだろう」

「で、ですが……それだと、困ります……」

「なぜだ? ……一応言っておくが、子を儲けたからと言って、それが後継になるとは限らんぞ」

「……そう、なのですか?」

 びっくりして問い返す。ヒースはじっとロレッタを見つめてから、小さく溜め息を吐いた。

「ディサルトは過酷な土地だ。敵は国外からの侵入者だけでなく、他の土地から流れてきた賊たちに、凶暴な獣たちもいる。それらと戦う猛者たちを、ディサルトの当主は統率せねばならないのだ。血筋だけでは到底務まるものではない。……実際、私の父は、祖父が愛人に産ませた子だった」

 驚くべき秘密をさらりと打ち明けて、ヒースは微苦笑を浮かべる。

「もちろん、きみとの間に生まれた子が、私の後を継いでくれれば言うことはない。だが子が絶対に必要という訳ではない、ということだけは覚えておいてくれ。それに私は……きみが本当は、ディサルトに嫁ぎたくなかったことも分かっている」

「……え?」

「別に驚くことではないだろう。ディサルトが嫁取りに苦労することは、私が一番、身に沁みて理解している。それを鑑みれば、きみが子を儲けることに妙なこだわりを見せる理由も、なんとなく予想がつく」

 そう苦笑含みに言って、ヒースはそっと手を伸ばした。

 ロレッタの頭を優しく撫でて言う。

「だからしばらくは、私の眠り薬でいなさい。きみが望む限り離縁はしないし、決してここを追い出しはしない。女主人としての立場も守ろう。それに……家族としてともに暮らしていれば、情が湧くこともあるかもしれない。その頃には私の不眠症も解消されて、きみに触れただけで眠ることはなくなっているだろう。本当の意味で夫婦となるのは、それからでも遅くはないはずだ」

 果たしてそう上手くいくだろうか。

 ロレッタは疑問を抱えてヒースを見上げ、彼の眼差しがとろりと蕩けそうになっていることに気づいて目を瞬かせた。

 そろそろ手を離した方が良いのでは、と口にしようとした矢先、ヒースの手がロレッタの肩にぱたりと落ちる。そのまま大きく傾いだ身体に押しつぶされて、ロレッタは溜め息を吐くしかなかった。



 後に精神魔法の祖と呼ばれるロレッタだが、彼女が己の力を制御するまでには大変な紆余曲折があった。それでもロレッタは持ち前の負けん気で努力を続け、やがてヒースとの間に、たくさんの優秀な子を儲けることになる。

 その夫であるディサルト領主は強面だが愛妻家で、彼は妻なしでは安心して眠ることができない、と周囲に憚ることなく惚気けていたと言う。

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