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木漏れ日②  作者: 汪海妹
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8 今日気づいて、今日終わる












   8 今日気づいて、今日終わる













   飯塚春菜













 生ハムを届けた後、いつもより仕事が早く終わったわたしは、靴を見てました。結構歩くのが多い仕事で、それに時々は店舗にも立ちますから、靴は重要なんです。履き心地が良くて、長持ちしそうなものを常備してる。常に暇さえあれば靴を探していると言っても過言ではない。


 今日も買ったことないブランドの靴を手に取って繁々と眺めていた。するとスマホが鳴った。

 中川さんからでした。


「はい」

「あ、づかちゃん、今日はありがとう」

「いえ、別に。仕事ですから」

「あ、あの」

「はい」

「もう帰っちゃった?」

「え」

「今、どこ?」

「靴、見てます」

「ん?」


 まだ近くにいるとわかると駅で待っててと言われた。なんだか変でした。余裕がないというか慌てているというか。それで駅で待ってると中川さんがきた。何の用かと聞いたらご飯を奢ってくれるという。


 あの日、なんでだろう?


 2人でご飯を食べたことはそれこそたくさんあって、でも、仕事だったんですよ。全部素敵なお店だったけど、わたし達、仕事がそういう高級フレンチとかイタリアンの仕事だから。


 変なものです。


 普通だったら女の子が連れて行かれてうっとりとするようなお店で2人で黙々と仕事をして、そして、何の変哲もないお好み焼き屋さんでなんだか……

 家に帰ったような居心地の良さを感じてしまった。


 あの日、多分中川さんは言い訳をするためにわたしを呼び出した。

 それが、まるで、浮気をしたと疑われている彼氏が彼女の誤解を解こうと必死なように、そんなふうに見えたんです。もちろんそれは錯覚。中川さんのことを男の人として意識したことなんてなかったのに。ひと回りくらい年上だし、それに、会社の先輩というか上司というか、仕事のできる人だし。


 でも、まるで封印していた何かが解けるように、あの日、わたしの中で何かが変わってしまいました。


 言い訳をするためにちょっと困ってる中川さんはいつもより子供っぽく見えた。ネクタイを外す様子がまるで、家に帰ってきてテーブルについて夕ご飯を食べ始める様子と重なったんです。


 水無月遥のことがあって、この人が女の人を抱くところを思い浮かべた。

 そして、今は、家で向かい合ってご飯を食べる様子を思い浮かべる。スーツのようなきちんとした服を脱いで、Tシャツ着て、髪に寝癖をつけたままトーストを齧っている様子を思い浮かべた。それは休日の朝。


 封印していた何かが解けるように気づいてしまったんです。

 わたし、多分、この人のこと、好きなんだって。

 好きだったんだって。


 それは衝撃的な出来事でした。

 そして、それはわたしの初恋でした。


 それまでにも前菜のような恋はしたことがあった。だけど、それは、相手がわたしを好きになって、それで、わたしも相手をどちらかといえば好きだというようなそんな好きでした。簡単な、軽いもの。


 初恋の定義なんて知らない。

 でも、この人のことがもしかしたら好きなのかも知れないと思った時の衝撃、それは、今までわたしの人生で起こったことのないようなものでした。だから、わたしはこれを初恋と呼ぶわけで……。


 そして、これはもう少し後になってから思ったことです。

 もしかしたら、人は、一生この世に激しい恋というものがあるということを知らずに死んでいくことだってあるんじゃないかな。ああいうものは本の中とか映画の中だけのことで、日常というものはもっと淡々としたものの中にある。

 自分だってそんな1人になる可能性は大いにあったわけで、そして、じゃあ、知らなければよかったかというと、わからない。わからないのです。


 あの日、あの夜、ご飯を食べ終わって帰る時、前を歩く背中に問いかけた。


「本当は」

「ん?」

「なんかあったんですか?」

「はぁ?」


 その時の表情も、いつもより近かった。物理的な距離ではなくて心理的な距離が。


「なんだ。本当の本当になにもなかったんだ」

「そういう人間じゃないって。俺は社長とは違うから」

「でも、社長は同じだって言い張ってましたよ」

「違う違う」

「どっちを信じたらいいんだか」

「俺を信じなさい」


今日だけ、まるで恋人同士だなと錯覚したかった。今日、気づいて、そして、今日終わろうと思ってた。だって、めんどくさいじゃないですか。こんな恋。上司が好きだなんて。


「別にわたしも子供ではないですし、何かあったからって中川さんのこと軽蔑したりしませんよ」

「嘘ばっか」

「え?」

「瀬川くんにづかちゃんが気にしてたって聞いたけど」

「それは……」


今日だけ楽しんで、そして、忘れてしまおう。そう思ってた。あの時。


「デマです」

「デマか」

「そう、デマです。気にしてなんかいません」


恋というのは、言葉に出して誰かに言わなければ、自分だけの秘密じゃないですか。だから、気づいたその日に消してしまおうと思った。それは本当です。


***


数日後


「ね、三原ちゃん、たまには外でランチしない」

「あー」


女の子らしい彼女はお弁当を持ってきていた。わたしはそれをかっぱらった。


「あ、これは野田くんが食べるから。さ、野田くん、お弁当代を払いなさい」


そして野田くんにパスした。野田くんは青くなった。


「え……」

「1000円」

「あ、はい……」


咄嗟のことに素直に千円札を出す野田。ポカンとしている三原ちゃんの腕を捕まえる。


「え、いや、ええっ」

「さ、いくよ」


ちょっと、強引?いや、かなり、強引?しかしですね。三原ちゃんはここまでしても怒らない希少な女子です。


「ね、あのお弁当、1000円もしない」

「そこか……」


野田くんにとってはあのお弁当は間違いなく1000円以上の価値があると思うけどね。


「でも、男子は女子に貢ぐべきなんだよ」

「そうなの?」

「さ、何を食べに行こうか」


三原ちゃんはお弁当と引き換えに1000円ゲットしたので、1000円前後のランチにするか。

そして、ベトナム料理を食べに行った。2人ともフォーを頼んで、食いしん坊のわたしは生春巻きも頼んだ。


「ねぇ、三原ちゃんってさ」

「うん」

「彼氏とかいる?」

「……」


フォーを食べる手を止めてじっと見られた。


「いきなりそんな話題?」


あ、振り方が唐突だったか。


「いや、ちょっとわたしも彼氏がいなくて寂しいから、なんか欲求不満というか」

「……」


目がまん丸になりました。


「春菜ちゃんって、そういうこと堂々と言えてすごいね」

「ああ、いや、その」


尊敬のポイントがずれているよ。三原ちゃん。それから、彼女はのんびりフォーを食べながら言葉を綴る。


「いいなぁと思ってる人がいて」

「ええっ」

「でもね。片思いなの」

「そ、それは、うまくいきそうなの?」

「わかんない」

「頑張ってみようとか思ってるわけ?」

「うーん」


ちょっと上を見て考える。


「わたし、自分からはちょっと勇気がなくて……」

「あー、そうなんだぁ」


野田、望みが薄いです。この片思いの決着がつかなくては、なんだか割り込みできないのではないかなぁ。


「三原ちゃんってどんな人が好み?」

「うーん」

「のんびりしてて優しげな人って好き?」

「それは、野田くんみたいな人?」


なんかそのものズバリ当てられてしまったが……。まぁ、いい。


「……ええっと、そうだね。野田くんみたいな人」

「大切にしてくれそうだよね」


これはありはありなのかな。でも、ありあり!ではないな。この反応は。


「じゃ、社長みたいなのは?」

「ああ、浮気しそうな人はちょっと」

「中川さんみたいなのは?」

「お洗濯とかしてくれるかな?私生活、謎」

「篠崎さんは?」

「そういう目で見たことない」


 確かに。失礼。口が滑った。当初の目的に戻る。


「ね、野田くんはきっとお洗濯してくれるよ」

「え?」

「この中で一番お洗濯してくれそうなのは野田くんだよ」

「うーん」


セールスマンのように数々の商品の中から野田を推す。三原ちゃんは小首を傾げてしばし考える。


「なんか野田くんって、靴下とかTシャツとか皺を伸ばさないで干しそう」

「ああ、干しそう」


適当に洗濯物を干して、奥さんに怒られながらデレデレしているのが似合う。


「反対に中川さん、アイロンとかきっちりしてそう」

「……」


なんだろう。こう、ウェイターとして動いているあの姿勢の良さでアイロンをテキパキかけている様子が目に浮かんだ。


「うわっ、むっちゃ似合う。アイロン」

「エプロンも似合わない?」

「似合うな」


もくもくと料理しているのが似合う。


「じゃあ、中川さんみたいなのがタイプってこと?」

「いや、違う違う。どうしてそうなったんだっけ?」


三原ちゃんが困っている。


「ね、三原ちゃんの好きな人ってどんな人?」

「え、へへへ」


かわいい顔で笑った。


「わたしの知ってる人じゃ、ないよね?」

「違う違う」


チーン。完全に終わった。


「ね、そういう春菜ちゃんはいないの?気になっている人とか」

「あー」


一瞬迷った。嘘がつけないたちなんです。特に相手が三原ちゃんみたいな子だと。


「その顔はいるな」

「いや、わかんない」

「どんな人?」

「うーん」


ちょっと考えた。


「不器用な人」

「ふうん」


不器用で、無理をしてしまう人。いつもいつもきちんとしていて、だらしなくするのができなくて、疲れている人。


「年上?」

「なんで?」

「いや、春菜ちゃんはなんか年上の人にいい子、いい子って可愛がられるのが似合う」

「そうなの?」

「うん」

「三原ちゃんの好きな人は?」

「ああ、ちょっと年上」


彼女は優しい顔で笑いながら、親指と人差し指を少し開けてみせた。

これはやっぱり望み薄いな。


……


でもね、結婚しているわけでもないし。彼氏なわけでもない。

これは!経過観察対象である。動向を見ながら適宜対応するというやつだ。ここぞという時に一気に捕獲である。


「春菜ちゃん、何考えているの?」

「あ、いや、他愛もないことです。さ、食べよう。食べよう」


おしゃべりに夢中になった我々は、ランチタイムをややオーバーして会社に戻った。三原ちゃんは青くなって走ろうとしたけれど、わたしが止めた。だって、いつまでが残業かわからない仕事してるしさ。このくらいねぇ。もし咎められたらこう言ってやる。会議です。ランチミーティングしてました。(良い子のみなさんは真似しないでね)

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