6 バナナで釘を打つ
6 バナナで釘を打つ
中川崇
昔はこんなことなかったけど、最近は睡眠のリズムが崩れると、頭がうまく働かない。でも、職業柄深夜までお付き合いする必要も時にはあるわけで……。しかし、芸能人というのは怖いな。深夜どころではなく、本当に夜が白むまで行きつけのバーで付き合わされた。他にも馴染みの客がいて、それが遥のやはり付き合いのある人たちで、みんなで延々と飲む。カウンターの端っこでこっそり寝ていると叩き起こされる。
皆、屈託のない人たちでした。きっともう二度と会うこともないだろうけど。
社長はこんな付き合いが好きらしい。自分はあまり向かないな。
タクシーで自宅に辿り着くと、明るい中でスーツ姿のままベッドに転がり込んで寝た。
寝たけど……
ここで冒頭に戻るが、定時どおりの出社を無視して今日は午前を寝倒そうと思っても、このくらいの年齢になると睡眠のリズムを崩すと、眠くてもうまく寝られないのである。スッキリしないままだるい状態で結局シャワーを浴びて、ボケーっとした状態でドライヤーの風をガーと自分に当てて、着替えて、ネクタイを締める。なんだか指がうまく動かないのですが。そして、靴を履いて電車に乗った。
会社についてみると、社長の神谷がいなかった。
かちーんと来ました。
一旦自分のデスクにつくと、PC開いて黙々と各店舗からのメールに一通り目を通した後で、急ぎのものから返信し、すぐに返信できない内容については、フラグを立てて、またスマホのメモに入力しておく。スケジューラーを立ち上げて今日の予定を確認した。本来、午前に行こうと思ってた店舗に行けなかった。行けなかった店舗の店長に電話を入れる。
「はい」
「ごめんなさい」
「あー、いやいや」
行けなかったのがacquario でよかった。ここの店長はそこまで気難しい人じゃないんです。
「驚いたよ。こんなの初めてだったから。電話したんだけど」
「ちょっと昨日、社長の代理で……」
「いや、ほんと気にしないで」
「今日の夕方からなら」
「無理しないで明日とか明後日とかでも」
「いや、行きます」
時間を決めて電話を切った。それから、スケジューラーを見ながら、修正した予定を書き込んだ後で、今日1日の予定を組み立て直す。何をして、何を明日に回すか。大体の目処が立ったところで、社長に電話した。
「はい」
「なんでいないんですか?」
「……」
「子供ですか?ほんっとに」
「言っとくけど」
「はい」
「俺が怒っているポイントは、あれだ。邪魔されたことにではない」
「はぁ」
「お前らが俺のことを全然信用していないことにだ。お前ら軍団みたいに徒党組みやがって」
「……」
中川崇は熱い男ではない。氷のように冷たい男です。怒るとですな。むしろグッと温度が上がるのではなくて、下がっていくんです。地下へ延々とつづくエレベーターがぐんぐん今下がっていっています。そして、温度が冷える。バナナで釘が打てるぐらいまで。*1
「それがとうとうづかちゃんにまで浸透していることがわかって、非常にがっかりした!」
「知らないと思ってるんですか?」
「何を?」
「一旦帰った後にまだ水無月遥に会おうとかなんとか連絡したでしょう?」
「……」
一瞬の沈黙の間に、この人、脳を何回転もさせて何パターンかの解答を検討しているに違いない。頼む。脳みそはこういうくだらないことにではなくて、経営に使ってください。社長。
「お前……」
「はい」
「あんな時間まで一緒にいたの?」
バナナで釘が打てるレベルまでイライラしてしまった崇くん。めんどくさい人についめんどくさいことを言ってしまった。
「空が白むまで一緒にいましたよ」
「な!」
そして、昨日の仕返しでここで電話を切った。それから、もう、奴は今日はほっておこうと思った。コーヒーをもう一杯飲んであと少し仕事を片付けたら、店舗に行ったり、取引先に行ったりしなければならない。コーヒーを入れるために立ち上がったら、自分のデスクの上でスマホが振動している。見ないでも誰かわかったけど悲しいかな人間の習性。覗く。
神谷秀
ほんっとうにくだらない男だな。知ってたけど。
まるで、交際中の彼女が彼氏を無視するようにその電話を無視して、コーヒーを淹れ飲みながら、昨日の各店舗の売上の数字をさらっていると……。何度も、何度も、電話がしつこくなる。なるたびに悲しいかな人間の習性、わかっているのに画面を覗き、そのたび脳内でバナナで釘を打ち(つまりはイラっとするということだ)、思考が中断される。ちなみに相手の社長も電話をかけ続けている間、仕事も何もしてないだろう。
くそ
「ほんっとしつこいですね。着拒しますよ」
「それは、業務違反だよな」
「この電話の内容はでも、業務とは関係ないですよね?」
「でも、気になる間業務に支障が出るから、業務と関係ある」
ああいえば、こういう。ちっ
「ね、やったの?」
「ノーコメント。セクハラです」
そして、また切った。それから、これから打ち合わせに行く店舗から、企画案として出されていたファイルを印刷して、ホチキスどめしてクリアケースに挟んでカバンに入れる。その間も電話はなるし、SMSも入ってくる。ストーカーに追い回されてるみたいだな、おい。しかし、無視。
「づかちゃん、もうそろそろ出られる?」
「あ、はい」
声をかけて立ち上がった。
***
運転してもらって後部座席で打ち出した資料に目を通している間も電話が鳴り続ける。あまりにしつこいのでもう一度、出た。
「ところでどこにいるんですか?」
「お前が俺の質問に答えたら答える」
「どうせまた気分スカッとさせるために車走らせた上でどっか東京近辺の景色のいいところでいい空気吸いながら仕事してんでしょう」
「ふん」
「いい加減、そういう子供っぽいの、やめません?」
「お前さぁ」
こちらの社会人として当然のような問いかけをサラッとまるっと無視して(これが神谷秀という男である)、全然別の話を始める。
「トンビに油揚げを攫われるって言葉、知ってるか?」
「はい?」
「攫われた……。俺の油揚げだったのに」
「じゃあ、今からさらい返したらいいじゃないですか」
「馬鹿野郎。お前はいつまで経っても男女の機微を覚えない」
「……」
そんな、もの、覚えなくてもいいわと心の中で悪態をつく。
「月の満ち欠けのようにデリケートなもんなんだよっ!」
「はぁ」
「さりげなく、引き潮と満ち潮みたく引いたり寄せたりして、ああ、今夜ってなぁ」
できれば、神谷秀が電話している周囲に他の人がいなければいいがと思う崇。こんなアホな会話は自分だけが聞いておればよい。
「それがダメになった後に、のこのこと出てって、ところで日を変えて今夜どうだって、お前……」
その後、電話の向こうでくっと鳴きました。
「ああ、一生に一度のチャンス、逃した。まさかの崇に攫われた」
「……」
本当は何もしてないんですが。それについてはいつ言えばいいのかちょっとわからなくなってきました。お灸を据えてやりたいし、とりあえず今日はそうだと思わせておこうか。
「で、どうだった?」
ブチッ
切りました。穢らわしい。ビジネスアワーにそんなことばっか考えてるなんて。本当に経営者なのか?
頭を切り替えてもう一度打ち出した資料に目を戻す。イタリアンの店舗で、イタリアの伝統をこちらで紹介するようなイベントの企画です。あまりこちらで知られていないような祝日や祭日の催しをお客さんにも受け入れやすいような形でサービスに入れていかないかという内容で……
「あの……」
「ん?」
前向いて運転してたづかちゃんが話しかけてきた。
「あ、すみません。邪魔しちゃって」
「いいよ。なに?」
「社長、今、どこにいるんですか?」
ため息が出た。
「わかんない」
ハンドル握って前向いたままでづかちゃんがはははと笑う。
「昨日みたいに検索してみれば?」
「うーん。あれは非常手段のようなものだから」
「そうですか」
「ま、東京近郊で、こう、大人の隠れ家じゃないけどさ、週末に軽くいけて気分転換できそうなところのうちの一つに行ってると思うよ」
「それは、波の音が聴けたり、星が見えるところですか」
「多分ね」
都心に店舗をある程度持ったら、次は週末に自然に近寄りながらリフレッシュできるものを。それは神谷秀のいくつかあるコンセプトのうちの一つでした。
「それが、次の店舗になるんですか?」
「いやぁ、そうだなぁ」
つい眉間に皺がよる。
「候補地が不便な場所ならオーベルジュにしたいと言ってるから、そうするとハードルが高いんだよね」
オーベルジュというのは宿泊できるレストランです。
「食事の提供だけならいいんだけど、宿泊を入れると新しいことやることになるからな。立地も少し離れるから管理にも苦労するし」
「中川さんは反対ですか?」
「……いや」
「反対じゃないんですか?」
「難しいとは思うし、大変だとは思うけど、今やっていて上手く言ってるからその方法をつかってひたすら増殖するというのは、やっぱり違うのだろうね」
「はぁ」
「大きくなることが目的なのではないのだから。ただ、そうは言っても、ある程度の大きさというのは自分達を守るために有用だけどね」
「はぁ」
「わかる?」
「わかりません」
笑った。
「さっぱり」
「さっぱりまでつけることはないでしょう」
ちょっと気が抜けたらもう一度だるさが戻ってくる。
「ごめん。ついたら起こして」
資料の見直しを諦めてわずかな時間、仮眠した。
***
それから数日後、フォンテーヌの個室
「失礼いたします」
僕が入っていくと、年老いた女性と中年の女性と小学生ぐらいの女の子が2人。女の子たちは窓にくっついて箱庭の景色を眺めながら騒いでいた。大人2人ははしゃいでいる子供たちの様子を席に座って眺めていた。
「こちら当店からのサービスです」
そう言って生ハムとバゲットをテーブルの上に載せると老女がこちらをやっと見た。
「え?あら、やだ」
「ご無沙汰しております」
「中川さん」
その声に中年の女性がこちらを向き、女の子たちもこちらを向いた。老女は少し顔を赤らめて嬉しそうに笑いながらテーブルの上の生ハムを見た。
「これ、あの人が好きだったものね」
その声音と生ハムを眺める表情にピンときた。いつもは必ず2人で来店されていた。でも、ある時を境にぴたりと足が遠のいていた。それが、久しぶりに予約が入ったと聞いたが、人数がおかしかった。
「今日は、ご主人は……」
「主人はね、病気になりまして」
「はい」
「亡くなりました」
「……」
勤めるお店が替わっても足を伸ばしていただいた、とても大切なお客様でした。夫婦で並んで似たような顔で笑っていた顔が脳裏に浮かんだ。
「残念です」
「しょうがないのよね。こればっかりは。でも、最後まで、元気でしたよ」
「やあね、お母さん」
近くで娘さんがおかしそうに笑った。母親の楽しそうな様子に女の子たちが1人2人と寄ってきて椅子に座っている母親の背中にピッタリとくっつく。
「なによ」
「元気なわけないじゃない。死んじゃったのよ」
「でも、お父さん、幸せだったわよ」
「そうね。お父さん、幸せだったわね」
娘たちに後ろから抱きつかれ右に左に揺らされながら女性は笑った。
「娘です」
「初めまして。中川です」
「この方、今はもう、ウェイターされるような方ではないのよ」
「そんなことはないですよ」
「あちこちのレストランの監督みたいなことされてるの」
「へー」
「ね、お母さん、お腹すいちゃった。あれ、食べていい?」
女の子が母親の耳元で囁く。
「どうぞ。お行儀良くしてよ」
はあいと言いながら、女の子たちは次々と席について、バゲットの上に生ハムを載せた。
「すごーい、おいしい」
「おいしーい」
「お母さん、食べて、食べて。これ、おいしいよ」
「もう、だから、お行儀良くしてって言ったでしょ?」
老女はその様子を眺めながら微笑んでいた。
「ご主人が亡くなられて寂しくなりましたね」
「ええ、でも、旦那さんの転勤で地方に行っていた娘が東京に戻ってきたのでね」
老女はにっこり笑いました。
「今日は久しぶりにここに連れてきてもらいました」
「ご来店ありがとうございます」
「ね、おばあちゃんも食べて」
「はいはい」
家族で食事を楽しむ様子を少し眺めると
「ごゆっくりお楽しみください」
一旦部屋を退いた。
それから店内のホールの中心に立って店の様子を眺めていると、瀬川くんが寄ってきた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
しばらくそのまま並んでそこに立っていた。すると瀬川くんが話しかけてきた。
「あの」
「なに?」
「この前ってどうでした?」
「この前?」
何の話だ?さっぱりわからない。
「あの、ほら」
「はっきり言ってくれる?」
「水無月遥」
「……」
何の話かと思ったら
「そんなん聞いてどうすんの?」
「そうっすよね。すんません」
ちょっと慌てた顔になって、僕から目を離して前を向く。しばらくまたそのままお客様の様子を見ていたが、もう一度恐る恐ると瀬川くんは口を開く。
「俺は、全然気にしてないんですけど、飯塚さんが気にしてたんで」
「え、づかちゃんが?」
その時、お客さんがシルバーを落とした。すっと瀬川くんはそちらの方へ行ってしまった。
づかちゃんが水無月遥のこと、気にしてたって?それで、あの日のことを思い出す。そうだ。あの子、一部始終を横で聞いてたからな。別に知られて困るようなことなにもなかったけど。一応それを言っておいた方がいいのか?
……
なんか、いちいち言う方が、胡散臭いような気がするけど。相手、女の子だし。微妙だな。
瀬川くんが落ちたシルバーを拾い、パントリーに一旦下がると新しいものを渡してまた戻ってくる。
「ね、気にしてたってどんなふうに?」
「なに中川さんも気にしてんすか」
「いや、でも」
「そんなん本人に聞いてくださいよ」
そして、瀬川くんは厨房の方へ出来上がった料理を取りに行ってしまった。
*1 バナナで釘を打つ
1980年代Mobil1というエンジンオイルのcmで使われた演出。氷点下40度の世界ではバナナで釘が打てます。