2僕の会社は胃がない
2 僕の会社は胃がない
飯塚春菜
「それではここまでで何か質問ありますか?」
社長がそう言って会場を見回すと、後ろの方でひょいと手をあげた学生がいた。
「はい、どうぞ」
ガタッと椅子を鳴らして立ち上がる。その男の子にマイクを渡そうとわたしが近寄ると、彼はマイクを待たずにこう言った。
「御社はブラック企業ですか?」
みんなが一斉に彼を見た。神谷秀はマイクを持ったままじっと彼を見た。
ああ、なんというか、荒らしというかなんというか……。
会場にいたスタッフが自分も含めアワアワとするのが目の端に映る。
「いやぁ……」
中川さんを求めてあちこち見渡していたら、神谷秀がマイク片手に首を傾げているのが見えた。何言う気だ?社長。
「グレー、かな?」
しんとした。一瞬。
その後、ぶっ、くすくすくすと笑い声がちらほらと広がる。
いや、笑いとってどうする?神谷秀。笑いはとってもいいけど、どう収めるんだよっ。
冷静な学生はあなたの対応を今見ています。中川さんを目で探すのをやめて、なんだかわけわかんないこと言い出した社長から目が離せない。
「ふざけないでください。僕、真面目に聞いてるんですけど」
「いや、僕も真面目に答えています」
また、さざなみのように笑いが広がる。わたしは話を聞いている学生たちの表情を盗み見る。色々な顔の子がいた。好意的に笑っている人たちの合間にじっとこちらを伺っている冷たい目もある。神谷秀に始まり、わたし達を値踏みしているような目。そして、質問をした子は少し怒った尖った目で見ている。一番近くにいたわたしは彼の手を見た。横に下ろされた手はぎゅっと握り締められていた。
わたし達の会社はまだできてから新しい会社で、ただ、そのコンセプトが目立ったのか、それとも経営者が個性的だったのか、規模の割にメディアに取り上げられることが多かった。有名人のお客さんが宣伝してくれたこともあったかもしれません。だから、冷やかしで会社説明会に来る人が増えていた。特に頭のいい大学の学生達。規模も小さい、将来の安定性も未知数。もっと大きな優良企業に軽々就職できるような一流大学の学生達は見向きもしない。だけど、冷やかしにくるんです。なんだか時々雑誌に出たりする経営者を揶揄いに。そして応募はしてこない。
この子もそういう人なのかと思いました。だけど、このぎゅっと握った拳。彼が自分で言う通り、真面目な子なのかもしれません。
「あの……」
わたしが声をかけると睨むように前を向いていた彼がこちらを見た。
「これ、お使いください」
「ああ……」
彼はマイクを受け取った。
「神谷社長は、働く人の労働環境に対してきちんと考慮されていますか?」
「どうしてそういうこと聞くの?」
ガラガラガラとわたしの中で何かが崩れていく。いや、そこ、そうじゃないだろ?神谷秀。
「そりゃ、ここにいるみんな、気になっていることだと思うからですよ」
「ええっと……」
軽く目を閉じてちょっと考える。
「詳しく話すと長くなるんですが、結論から言うとホワイトになろうと頑張っているグレーです」
もう一度さざめきのように笑いが広がる。さっきより少し笑い声が増えたように思う。そして、会場の雰囲気が肌でも感じられるようにふんわりと柔らかくなった。不思議でした。柔らかくなるような内容のやり取りをしているわけでもないだろうに。
「ここに立っている僕とそこに座っている皆さんは全く立場が違うんですね。僕が偉くて君たちが偉くないんだとか、そういうつまらないことを言いたいのではなくて、会社をやる側と会社に雇われる側は考えなければならないことが違う。だから、先にまずみなさんの立場に立って話したいんです。僕だってこういう立場に立つ前はみなさんと同じ雇われる側でした」
マイク片手にのんびりとまるで友達に話しかけるように社長は話し出した。
「就職活動というのは、雇う会社も雇われる皆さんも初めての相手と話すわけです。初対面ですよね?それに、皆さんは会社で働いたことがない。日本は今の所、以前よりは転職する人が増えてきたとはいえ、新卒採用と終身雇用の割合のまだまだ多い社会です。皆さんにとってこの初めて入る会社というのはとても大切な会社、その会社がブラックでないかどうか、それはとても大切な問題だし、失敗したくない、怖いという気持ちはよくわかります。ただね、一つわかってほしいのは、ブラックかどうかというのは世の中の会社を測るたくさんの物差しの中の一つでしかないんですよ」
質問をした子は騙されないぞという顔でまだ前を見ている。そしてたくさんの子がとても真面目な顔で神谷秀の言葉を聞いていました。
「うちに応募するかどうかということとは関係なく、ただ、皆さんよりも年上の者として教えてあげたいんです。ブラック企業という言葉が生まれてその新しい物差しを使ってそれでばかり何でもかんでも測ろうとする。本当にその物差しだけでいいんですか?一度自分の胸に問いかけてほしい。あまりその物差しを乱発するとね、あっちの会社もこっちの会社も真っ黒に見えてくるものだよ。本当に社会はそんな真っ黒な会社や真っ黒な人たちで溢れているのかな?」
そういうとじっと会場を見渡した。
「最近の若い子はよく権利を主張するようになったよね。で、僕よりも上の日本人のおじさん達は、猛烈社員の人たちが多いから、そういう若い子達の権利を主張する姿が嫌いです。僕は間に挟まれている。そして、縁あって起業しました。新しい会社というのはね、子供なんです。骨が音を立てて伸びているような状態です。そこに、細胞分裂しにきました。爪が伸びるとか髪が伸びるとか、或いは傷ができたのを塞ぐとか、そういう覚悟で入ってきても、お互い不幸なだけです。僕の会社はまだね。内臓がちゃんとない」
また、くすくすと笑う声。マイクを持ったままその手をぶらんと下に下げて、さっきの男の子はぽかんとして立っていた。
「君たちを否定したいわけじゃないんです。そうすると、君たちに嫌われている猛烈社員のおじさん達と同じになってしまうよね。僕は君たちの敵になりたいわけじゃない。ただね。日本だって昔は何もなかったんですよ。あのおじさん達が若い頃は、みんな心臓や胃や肺のようなものを作る仕事をしてきたんです。ブラックだったか?そりゃブラックだったと思いますよ。だけど、自分達が生きるために必要不可欠な大事なものを作っているってやりがいがあったんだと思うんですね。今は君たちは選ぶことができる。既に立派な心臓や胃や肺のある大きな会社に入って働く。その中で、社員の福利についてきちんと考えのある会社を見極めるようにすればいい」
「そんな説明ばっかりしていると、ウチを受けようとする人がいなくなりますよ」
横から急に声がして、社長の話を遮った。ステージの脇の方に中川さんがいた。会場のみんながそっちを見て、それから笑った。
「これからいいところなのに邪魔するなよ」
「今日はうちの会社の説明会なのに、他の会社に華をもたせてどうするんですか」
「ああ、わかった。わかった」
ちょっと裏のいつもの神谷秀が漏れました。もう一度マイクを持ち直して姿勢を正す。そうそう。仕事してください。仕事。社員連れて来い。社長。
「髪の先っぽや爪を伸ばすとか、怪我をしたときにそこを塞ぐとか、そういうところから始めて、コツコツと長い時間をかけて心臓のようなものを目指すような働き方もできる。ただ、そういう大きな会社でどこまで上にいけるかというのはわからないんだよね。もしかしたらずっと小さなことを最後までやり続けなければならないかもしれない。でも、うちの会社では入ってからすぐにいろんなことができる。というか、しなければならない。ブラックになりたいわけじゃないけど、骨が伸びるのにみんな追いつけないんです。だから、ホワイトになろうと思いながらグレーでいる状態です。仕事はいっぱいある。一つだけ言っておく。胃のある会社に入ってしまったら、会社に胃がないというのはどういうことなのか、一生知ることはできないよ」
また、説明会会場が笑いに包まれた。
いや、今のは……
笑いをとってもしょうがないぞ。神谷秀。社員をとれ。
社長の仕事は笑いを取ることではない。
チラリと舞台の裾のほうにいた中川さんを見た。案の定、氷の女王の男版みたく冷たく怒っていた。
***
そして、帰りの車。わたしが運転する車の後ろの方で延々と同じような話を繰り返す。
「胃はありますよ。胃は」
「……」
「せめてもっとなくても構わないような部位に」
「それってどこ?」
「盲腸とか」
「それじゃあ、言いたい意図がいまいち伝わらないよなぁ」
「それにしたって胃のない会社ってどんな会社すか」
「気になって受けてみようって人がいるかも」
「そんな人、たいした能力のないいい加減な人ですよ」
「かもね」
「あんな変な説明、まともな人が受けようって気を失いました」
「でも、まともな人が受けて運よく入ってくれて、それでやめてくより、良くね?がっかりしてさ」
「……」
実際、就職してから思ってたのと違うとやめてしまう人は今までもいました。
「カッコつけて、お店のイメージ通り素敵な会社ですなんていう必要ねえだろ。胃のない会社で働いてやろうってくらい気概があるやつの方がいいって」
「物見遊山みたいな人が増えるだけですよ」
「お前、語彙力増えたな」
変なところで感心する社長。
「でも、あそこまでいうくらいひどくないでしょ?ね、づかちゃん」
「え?あ、はい」
「ちゃんとうちが好きで働いてくれる人だっているんだから」
「だけどさ。俺らの感覚と若い子の感覚って違うんだって」
「いや、でもづかちゃんも若いですよ」
「づかちゃんも、もう、普通の若い子じゃねんだよ。残念ながら」
「え?」
そうなの?よくわかんないんだけど。
「こう、無菌の環境で、蝶よ、花よ、と育てられてんだよ。あいつらから見たら、俺らの会社は胃がない状態なんだよ」
「とにかく、ツイッターで挽回してください」
「え?」
「今日の発言について、もっと知的に補足して、うちで働くメリットをもっと宣伝してください」
冬ではないんですが、氷の吹雪みたいなのを感じます。背後から。
「社長室って外から鍵かかんないんですよね。でも、閉じ込めます」
「はい?」
「ちゃんと反省して、さっきの発言を挽回する発言をしてください。あ、でも、上げる前に下書き見せてください。それが終わるまで社長室に閉じ込めます」
「……」
***
神谷秀の反省文
本日、我が社の会社説明会がありました。その席上で僕が自分の会社を骨が伸びて急成長している状態で、まだ胃がないと表現したことで、説明会の後にうちの社員に怒られてしまいました。その後、胃についてよく考えた。胃は胎児としてお腹の中にいるときにもう作られているから、胃は流石にあるのかなと。だから、僕たちの会社には時々慣れないものを食べるとお腹を壊してしまうような未熟な胃はあるんです。
そう僕たちは子供なんです。成長するために色々なものを必要としています。
自分としては、わかりやすい表現だったと思うしその場では自分の会社を胃がない会社だと言ったことに対して反省も後悔もありませんでした。だけど、少し時間が経って反省しました。
本当に申し訳ありませんでした。
今の謝罪は、今、僕と一緒に会社をやってくれている人たちに対してです。
会社はみんなのものです。一生懸命毎日頑張ってくれている人たちの大切な会社です。
勝手に胃がない会社だなんて言ってしまって本当に申し訳ありませんでした。
日本という恵まれた豊かな国に生まれ、守られながら大きくなった若い人たちにとっていきなり社会に入るのは大変なことです。僕は若い人たちが、会社はこうあるべきなのにと偉い人の見ていない場面でああだこうだと発言するのをよく見ます。でも、表では言わない。変えようとしない。言葉を変えれば、ゼロから作ろうとしない姿というのをよく見てきました。
猛烈時代の社員の人から言えば、今の若い子は自分の頭で考えようとしない。
でもね、僕は思うんです。
考えていないわけではない。裏では言っているのだから。
ただ、言わない、いえ、言えない人が多いのだと思う。
なぜかといえば、ゼロからモノをつくる自由を今の若い子達は持たずに大きくなったからです。
ゼロからモノを考え、それについて自由に語ることも、作ることも許されなかった。
大人は、社会は無意識に本当に無意識に、若い子達からその権利を取り上げていた。
そういうふうに育てていたということに気づいていない人がほとんどだと思います。
だから、僕の会社に入ったら驚いてしまうと思う。
僕は、社員にはゼロからモノを考え、それについて発言することも、そして作ることも許します。
許すというよりは、そうしてもらわなければ成り立たないんですね。
だから、あえて少し極端な表現をしました。胃がないと。
会社というのは、最初っからできあがっているモノではないんです。
それについて入社したときに
「なんですか!この会社は胃がない」
と怒らないんで欲しいんです。
そして、知って欲しいんです。日本だって昔、何もない時があった。
胃はね、最初からあったわけじゃないんですよ。作ってくれた人がいるからあるんです。
僕は、僕の会社にないことについて文句を言うお客様を会社に社員として迎えたいわけではないんです。一緒になってやってくれる仲間が欲しい。ないから作りましょうと言ってくれる人が欲しいんです。
どうやったらできるのかをわからなくてもいい。
どうやったらできるのかを一緒に考えようと思ってくれるだけでいいんです。
あるのが当たり前の環境に慣れてしまうと、ないから作らなきゃと思うこと自体が意外と難しい。だけど、そこから長い時間使うことがなかった君の能力を動かしてほしい。
真剣になれば、一人一人が自分でも思う以上に色々なことができると知ってほしいんです。
そういう人にぜひ、僕たちの会社に応募してもらえればと思います。
神谷秀