涙の行方
「あなたには⋯⋯あなただけには言われたくなかったのに⋯⋯どうして⋯⋯何で言うのよ!」
ハルさんの涙が、シルさんの燃えさかる心の炎にポトリと落ちて行きます。
怒りと憎悪のみが占めていた心の炎に、一滴の雫が炎の勢いを削ぎました。その一滴は、シルさんに逡巡する時間を一瞬だけ作り出します。握り締めていた拳ははらりと解かれ、シルさんは力なく佇み、茫然とハルさんの涙を見つめていました。
なぜ?
シルさんの心に生まれた疑問と後悔がその表情から見て取れます。
「つうっ!!!」
カイナさんの膝がフェインさんの背中を捉え、フェインさんの上半身が激しい痛みから、反射的に起き上がってしまいます。カイナさんの待ち望んでいた隙が生まれてしまいました。
抑え込む力が少しばかり緩んだフェインさんを突き飛ばし、カイナさんがスルリと抜け出ます。そのまま素早く起き上がり、勢いのまま窓ガラスを割って、二階から飛び降りてしまいました。
茫然とする私達を尻目に、フェインさんもすぐに追う姿勢を見せますが、窓ガラスは大きくなく、フェインさんの体では飛び込めません。すぐに廊下を蹴り、フェインさんはカイナさんを追います。
一瞬の出来事。
逃げるカイナさんの姿は、私達が思っている以上にシルさん達に困惑を運んでいました。
「クソッーーー!!」
普段見せないフェインさんの叫びが、外から届きます。その悔しさが私達にも届きました。
私はゆっくりと階段をのぼりきり、割れた窓からフェインさんの姿を覗きます。血が滲むほど唇を噛み、カイナさんの消えた方角をしばらく睨んでいました。
廊下では何が起きたのか整理のつかないシルさん達が、未だ茫然としています。ハルさんは力尽きたかのように膝から崩れ落ち、うな垂れたままでした。
掛ける言葉は見つからず、困惑渦巻くこの状況を見つめる事しか出来ません。
膝の上で握り締める拳を、ハルさんはさらに強く握り締めます。
カイナさんが逃げてしまった事。信頼していたシルさんの言葉。
悔恨と傷心。そのふたつが絡み合ってしまったハルさんの心。
そして、シルさんに叩きつけられた拳の痛み⋯⋯。
痛むハルさんは、うずくまったままです。きっと、叩きつけられた拳より心が痛かったに違いありません。
この状況をどう捉えればいいのか、シルさんの困惑は深まるばかりです。茫然と視線は定まらないまま、一点を見つめていました。
うずくまるハルさんと逃げ出したカイナさん。シルさんは、この状況をうまく飲み込めないでいました。
なぜ逃げなくてはならないのか? ⋯⋯そこには逃げなくてはならない何か理由があるという事です。つまり、ここで悪いのは逃げ出したカイナさんという事でしょうか? でも、逃げるほどの理由って? 考えても私には分かりません。今は傷ついたハルさんとシルさんが心配でした。
顔を蒼くして、シルさんも膝を落としてしまいます。
愕然とした表情でうずくまるハルさんへと視線を移すと、ゆっくりとその小さな背に自身の額を当てました。
「ハル、ごめんなさい。ごめんなさい、本当にごめんなさい⋯⋯」
シルさんは何度も自身の後悔と懺悔を繰り返し、ハルさんに許しを乞います。
その姿にユトさんやマーラさん、ハースさんも、最悪のケースが起きてしまったかも知れないと、険しかった表情は困惑へと変わっていきました。
最悪のケース⋯⋯。
「どうしたのこれ?」
騒ぎを聞きつけたエーシャさんに映るのは、うずくまるハルさんと許しを乞い続けているシルさんの姿。あまりにも予想外の光景に、エーシャさんは首を傾げるだけです。
「エーシャ、ごめんなさい! 取り逃がしてしまいましたです」
「うう?? う~ん?? え? え?! 何を?」
フェインさんの言葉は更なる混乱を招き、エーシャさんはさらに混乱を深めます。
「アルタスが小屋で見たおかっぱのエルフは、カイナでしたです」
「ああ⋯⋯えええっー!? カイナってシルの右腕の? えぇえ!? 嘘でしょう?」
「前々から気に入らなかったのです。でも、反勇者と繋がっているかもとは、さすがに思わなかったです」
「あちゃ~それで」
改めてフェインさんが言葉にされ、【ノクスニンファレギオ(夜の妖精)】の方々の表情は固くなっていきます。
「ふたりともきつかったね」
エーシャさんがハルさんとシルさんの肩に、優しく手を掛けて起こしていきます。ボロボロのハルさんにエーシャさんが、ヒールを掛けようとするとマーラさんが遮り、ハルさんに手をかざしました。
「【癒光】」
マーラさんの懺悔にも映る光玉が、ハルさんに落ちて行きます。傷は癒えても、傷ついた心までは拾い上げる事は出来ません。ハルさんはうな垂れたまま、微動だにしませんでした。
気まずい雰囲気だけがこの場を覆います。だれもが打開する一言を待っていました。
「ああーもう! シャキっとしなさいよ! 過ぎた事でクヨクヨしても仕方ないでしょう。顔を上げて!」
エーシャさんが頭を掻きむしりながら、口火を切ってくれます。
「全く、次の手を考えないとダメでしょう。落ち込むのは一瞬。さぁ! 顔上げて、次の手を打たないと。ほらほら、寝ているヒマはないわよ」
エーシャさんは、気合入れとばかりにみんなの背中を叩いていきます。その背中の痛みに、自身に嘆息しながらみんな顔を上げていきました。
でも、落ち込みの激しいハルさんとシルさんは顔を上げられません。その姿にエーシャさんが、口を尖らし言い放ちます。
「もうー! そこの副団長ふたり! いつまでもしみったれてないで、ふたりが音頭取りなさいよね。ほらほら」
エーシャさんの勢いに気圧され、ふたりは顔を上げていきます。瞳を真っ赤に腫らすハルさんと、シルさんの瞳が、バツ悪そうに絡み合いました。
ハルさんがシルさんの背中に手を回し返すと、シルさんはハルさんの肩に手を回し、身を寄せます。
「ハル、本心じゃないからね」
「うん。もう、わかったわ。とりあえず、何でこうなったかを説明しましょう。アルタスとクレアを呼んで頂戴。廊下じゃなんだし、場所を変えましょう」
おふたりは腰に手を回しあったまま、廊下をあとにしました。
良かった⋯⋯のかな?
問題は解決していませんが、ハルさんとシルさんが仲直りしてくれて安堵を覚えます。
さて、私は仕事に戻りましょうか⋯⋯。
「エレナ先輩、一緒に来てよ。みんなにお茶出しをお願い出来る」
「あ? え? あ、はい。わかりました」
ニッコリと笑みを浮かべるエーシャさんに促され、みなさんのあとに続きます。
私なんかがいてもいいのかな?
なんて、思いつつも廊下を歩いていました。




