偶々。
「それじゃあ、君には家が無いってことかい?」
薄暗く心地の良いカウンター席。まるで通り雨にでも降られたようなグラスをゆらりと回しながら、男は優しい瞳でこちらを見つめていた。
「正確に言えば『そこが自宅なんだと認識した途端、必ず何かが起こる』って感じです」
「それでその家にはもう住めなくなる、と」
「はい」
カラン。
「難儀なことがあるもんだな」
少しばかり傾けたそれに唇を這わせてゆっくりと薫りを楽しむ仕草に、私は一体何を感じたのだろう。ありきたりな憂いの言葉がただ温かかったのかもしれない。或いは、どこかくすぐったかったのかもしれない。
「ははは……」
だから、私はいつもと変わらない乾いた笑いを返していた――――。
私には家が無い。
これは決して貧乏だからだとか生来の根無し草だから、なんてことではなく、文字通りに家が無いのだ。いや、もっと正しく言えば家を持つことが出来ないのだ。
いつから、というのはもう分からなくなるほどに昔のこと。始まりは二つ隣のボヤ騒ぎ。私の城と呼んでさしつかえの無いお気に入りの部屋、その半分が煤にまみれ、泣く泣くの引っ越しを余儀なくされてしまった。
次に借りた部屋は入居から僅か二週間のこと。上階からの水漏れを潔癖症の私が耐えられるはずもなく。
以降はもう明確に思い出せないが、ご近所さんから嫌がらせを受けただの騒音に耐えかねただの、ありがちではあるが永住するには決して居心地の良くない状況に遭遇し続け、私は何度も引っ越しを繰り返してきた。
「ネットカフェで寝泊まりをしたこともあるんです」
「君が? たった一人で?」
苦いものと共に頷いてみせると、男は心底驚いたと言わんばかりに目を丸くしていた。
「君のような可愛い子がそんなところで寝泊まりするだなんて、そいつはちょっと放っておけないな」
「ははは……」
こんな言葉を簡単に放り投げてくる男なんてこれまで幾度となく出会ってきた。だからこそ、私はただいつものように笑うだけ。
「ネットカフェでさえ、財布の盗難に逢いかけてダメになっちゃいましたけどね」
「なるほどなぁ……。まあ、でも――――」
男はゆっくりとグラスを置き、そしてゆっくりと濡れた指先を見つめた。
「たまたま……なのかもしれないね」
意表を突かれた。
「偶々?」
「そう、たまたま」
これまでに幾多の男たちから頂戴した言葉はすべからくただ綺麗に飾られているだけで、下心が見え透いていたから。
「君がこれまでに何度も引っ越しを繰り返してきたのは、たまたまなのかもしれない」
偶々なんて言葉であっさりと片付けられるなんて、思ってもみなかったから。だから、だろうか。
「気にしなければ、きっと違ったものが見えてくるさ」
そう言ってゆっくりと立ち上がり席を後にする男の背を、私はただじっと見つめていた――――。
「そいつは良かった」
「ええ」
あれから数か月。私は再びここへ足を運び、そしてこの再会に確かな喜びを感じていた。
「これで君も、安心して“ 家 ”に帰ることができるってわけだね」
「はい………あの」
「ん?」
「あの時は本当に、ありがとうございました」
「んん? 感謝されることなんてあったかな」
この男が何をしてくれたわけではない。それでも――――。
「あなたの言葉……あなたが『たまたま』だって、そう言ってくれたおかげできっと今の生活があるんです」
「大袈裟だなぁ」
笑いながら逸らした視線の先。傾いた水面には照れくささのようなものがゆらゆらと漂っていた。
「だから、何かお礼ができたらなって………今日、ここへ顔を出して正解でした」
「やれやれ、まさか運命的な再開だなんて言い出すんじゃあないだろうね」
それはもう、確かなものだった。
「…………」
「……まさか? 僕はただのおじさんだよ?」
でも、だけど。
「気持ちは嬉しいけど、いや、しかし……」
わかってた。
「…………私なんかじゃ、ダメ……ですよね」
自分の置かれた状況に心酔していただけの私なんか。自分を悲劇のヒロインか何かだと思い込んでただけの私なんか、きっと。
「ごめんなさい、なんだか勝手に一人で浮かれてしまって……」
釣り合わないって。
「あのっ! 本当にありがとうございました! ……もう、帰ります」
なのに――――
「っ……!?」
席を、立てなかった
「あっ、あの……?」
温かかった
「ごめん、少し戸惑ってしまった」
とても力強くて
「僕は本当に何かをしたつもりなんてないし、ただのおじさんだし……それにまさか君みたいな子が僕のことを想ってくれるなんて」
とても優しくて
「そんなこと、夢にもみなくて」
ただ、嬉しくて
「でも……本当に良いのかい?」
「…………良いんです」
だって――――
「私、男の人が好きなんです」
「ウホッ」
おわり。
タマタマが織りなすあたたかな出会い
激しくも甘く重なり合うタマタマ
ほとばしる二つの、いや正確には四つのパトス
私は深夜に何書いてんだろう