Act.027:タイトルの無い生活Ⅰ(後編)
教師、その教師が集う場所職員室内で、リニアはしばらく誰もいない校庭を眺めていた。少し経ってそれを止めにすると、落ち着いた足取りで自分の机のところに戻った。その様子を見て、隣の机の男性教師がリニアに話しかける。
「ロバーツ先生、さっきまでずっとグラウンドを眺めてらっしゃいましたけれど、グラウンドに何か変わったものでもあったのですか?」
リニアは無表情なまま淡々と答える。
「カオス・ハーティリーがまた遅刻しましたので、グラウンド20周ランニングの罰を与えました。その為、きちんと罰をこなしているかどうかを監視していました」
カオス・ハーティリーの遅刻。
それを聞いて、その男性教師は呆れたように笑う。
「まぁたカオス・ハーティリーですか。もう、何度目の遅刻か分かりませんねぇ。それにしてもロバーツ先生も熱心ですねぇ。あの問題児を諦めずに指導するだけでなく、その監視も怠らないのですから」
自分じゃ面倒臭くて嫌だなぁ。その男性教師はそう思って言ったのだが、リニアにはその物言いは心外だったようで、少し不機嫌そうな表情を覗かせる。だが、それでも落ち着いた表情と口調は崩さない。
「罰を与えたからには、それが終えるまできちんと見届ける。それは罰を与えた者の義務であるかと。私のやったことは当たり前のことです」
「で、真面目に走っていましたか? 手は抜いてませんでしたか?」
そんなリニアの心境に気付かない男性教師は、質問を続ける。だが、その質問もリニアにとっては心外だった。それは、教え子であるカオスに対する冒涜に似ていた。
「当然。奴自身も監視されているのは気付いていますからね」
そう、カオスは問題児である。それは間違いない。だが、この男性教師は分かっていない。カオスは問題児ではあるが、劣等生ではないのだ。
その男性教師はそのリニアの発言に心底驚く。
「き、気付いているんですか? この職員室から見ているのを」
「ええ。あの馬鹿、時々こっちに向かって手を振ったり投げキッスをしたりしますから」
リニアは走っているカオスの姿を思い浮かべながら、少し頭を抱えたくなった。走り自体は優秀ではあったが、その態度はお世辞にも優秀とは言えないものだった。とは言え、ランニング中に手を振ったり投げキッスをしてはいけないとは言ってないので、叱ることは出来ない。
その男性教師も騎士(Bランクのトラベル・パス所持者)であるリニアにそんな舐めたマネするカオスの大胆さに驚いていた。このリニアにはマリアとは違って冗談というモノは通用しない。それはカオス自身も十分に分かっている筈だからだ。
そう、リニア・ロバーツに冗談は通用しない。それは真実である。だが、リニアはそんなカオスの行動を気にしてもいなかった。走れればそれでいいのだ。速ければ尚のこと。
「フォームなどどうでもいい。それよりも、随分と速くなった。走り始めの頃と比べると、カオス自身に随分と余力があるように見える。前よりも走る量が増え、走るスピードが上がっても尚」
もう、リニアはその男性教師との会話などどうでも良くなっていた。ただ、言葉として結論を出しておきたかっただけであり、他人が聞いていようがいまいが、彼女にとってはどうでもいい事となってきていた。
「奇しくもこの罰が、カオスにとっては体力作りの一環となっているのかもしれんな」
もっとも、それだけであれ程の体力がつくとは思えないが。
そこまでは思っていても、リニアは口にしない。ただ、怠けているだけの一般的な不良生徒とは違い、カオスが何かしらの目的意識を持って、自らの身体を鍛えている事は見て取れた。
生徒の健全な努力。それを感じられるのは、教師であるリニアにとっては喜びであった。その後ろで、マリアも嬉しそうに笑う。
「ふっふっふっふ~♪」
「嬉しそうだな、マリア」
「そりゃあ、カオスちゃんの成長は、お姉ちゃんとしては至上の喜びよ~? そ・れ・に、貴女も何か嬉しそうじゃな~い?」
「まあ、教え子ではあるからな」
隠す必要もない。教え子の成長は、教育者としては嬉しいものである。リニアはそう言う。
「失礼します」
その時、不意に職員室の扉がノックも無しに開かれた。扉は開かれ、外から中年くらいの女性と、腰の曲がった老女の二人が入ってきた。その二人の顔には、揃って同じような恵比須顔の笑顔が溢れていた。
「ここにカオス君はおりますかの?」
恵比須顔の老女は名乗りもせずにそう切り出す。リニアと話をしていた男性教師は、マリアがリニアに話しかけた時からリニアから離れていたので、他の誰よりも先にその闖入者の元へと応対に行って対応が出来た。
「カオス? カオス・ハーティリーですか?」
彼はさっきまで問題児カオス・ハーティリーを話題にしていたので、老女がカオスと言った途端、彼の脳裏にはカオス・ハーティリーしか浮かばなかった。そして、少し冷静に考えてみても、この学院内に他に「カオス」がいた記憶が無いので、そのカオスで間違いないように彼は思った。
その老女は、そんな彼に対してハッキリとした答えを提供してくれなかった。
「おや? あの時の子の苗字は何でしたっけ?」
「確か聞きませんでしたよ、お義母さん」
老女は隣に居る中年女性、息子の嫁と和気藹々と話している。彼女達の話からすると、彼女達が会いたい男はハッキリと名乗らなかったことになる。
そんな輩の名前がカオスで間違いないなら、あのカオス以外考えられないだろう。その男性教師だけでなく、リニアもそう断定する。
「アイツがまた何かしでかしたんですか?」
学院内の使用されてないプールを使って釣堀ごっこをしたり、夜中の学院で肝試し大会を開催したり、未成年でありながら町のお祭で酒をラッパ飲みしたり、カオスが以前やらかした問題が走馬灯のようにリニアの脳裏を駆け巡った。駆け巡って、また憂鬱な気持ちにさせる。
また何か問題でも起こしたのだろうか? そんなリニアの予想をその老女達は笑顔で裏切る。
「しでかしたなんてとんでもない。今朝ウチのお婆ちゃんが散歩していた時、転んで怪我してしまったのよ。そのお婆ちゃんを、家まで送り届けてくれたのよー」
「学校遅刻するだろうから、放っておいて構わないと言ったんですけどねぇ。でも、そうしたら『俺は今までたくさん遅刻してきた。今さら1~2回増えたところで何も変わりゃあしねぇ』って言ってね」
闖入者コンビは、あははおほほと笑いながらそう説明する。
「あら? そう言えば、今日カオスちゃんはお寝坊さんじゃなかったわねぇ~」
その老女達の説明を聞いて、マリアは思い出したようにそう呟く。今日、カオスは自分と同じ位の時間に起きたのだ。だから、二度寝さえしなければ、ホームルームに余裕で間に合う時間帯であったのだ。だが、それでもカオスは遅刻した。そこに何かしらの要因がありそうだと、マリアは今気付いた。
マリアのそんな言葉から、リニア達も今日の登校途中のカオスに何かしらあったのではないかというような気がしてきた。マリアがここでそんな嘘をつくとは思えないし、そう考えると老女達がここに来た理由もある程度は説明がつくからだが。
カオスが人助け?
それはマリアを除く彼等教師陣にとっては、驚きの出来事であった。カオスが人、しかも老婆を助けるとは思えない。美女ならば納得はいくが。
男性教師は首を傾げながらもう一度確認する。
「カオスとは名乗ったんですか?」
その問いに闖入者コンビは首を横に振る。
「いえ、名乗りませんでしたよ。ただ、着ていた制服からここの生徒さんだというのは分かりましたけど」
「でも、名前を訊いた時に『善行なんかしちまった後に、名乗る名前なんざこのカオスにはねぇ!』と言ってましたので。ああ、ルクレルコ魔導学院のカオス君ねぇ~っと思ってね」
「!」
それは、先程以上の衝撃を教師陣に与えた。別の意味で。
「締まらない子ねぇ~♪」
マリアはそう言ってクスクスと笑っていた。マリアは知っていた。弟は自分の優しさを表に出すのを極度に嫌うことも、不真面目を装いながらもやるべきことは一つ一つきちんとこなしているが、何処かしら抜けてしまうことも。そんな自分の好きな弟の一面を感じられて、マリアは嬉しかったのだ。
その反面、リニアはショックを隠せない顔をしていた。カオスは良い事をした。それは認める。しかし、そんなカオスに自分は罰を与えてしまった。そんな自分の教師としての至らなさを、リニアはどうしても許せなかったのだ。
それとは別に、その男性教師はどうでもいいような表情をしていた。「珍しいこともあるもんだ。明日は雨か?」とでも考えながら、あさっての方向を眺めていた。
三者三様の想いと考え。だが、そんなことは一切考慮せず、闖入者コンビは笑い続けていた。
「それで少しでも早くお礼が言いたくてねぇ。おほほほほ」
職員室からはしばらく珍妙な笑い声が木霊し続けていた。
◆◇◆◇◆
「知らねぇ。そんな覚えねぇ。勘違いだろう。俺がそんなことする訳ねぇ」
1時間目の授業が終わった後の休み時間、カオスはリニアによって廊下に呼び出されていた。カオスは今までの経緯を話したリニアに、ブスッとした表情でそう答えた。そして、その言葉の後に一転してカオスは笑う。
「ハハッ、若くて綺麗な姉ちゃんだったらいくらでも助けるけどな。ババァ助けたところで」
カオスのその答えは、リニアにも予想出来ていた。だからリニアはそこでやって来た闖入者コンビをカオスに紹介した。
「まぁ、お前だったらそう言うだろうな。だが、その本人がお礼言いに来ている」
カオスはその見覚えある顔を見て、すぐさまその視線をあさっての方向に逸らした。出会いたくなかったのだ。だが、その一方でカオスに出会いたくてしょうがなかった闖入者コンビは、職員室内と同じペースで、カオスにお礼だか雑談だか分からない感じのお礼を次々と述べる。
「今朝は有難うね~。おかげで怪我も酷くならずに済んだわ~」
「本当に。ウチの子にも見習って欲しいわ~」
「あ、今度遊びにいらっしゃいな。美味しいお茶菓子も用意するわ。おほほほほ」
「何も遠慮は必要ないのよ。それ位は当然なんだから。おほほほほ」
恵比須顔で強引に迫る闖入者コンビの対応に困るカオス。
それを横目に見ながら、リニアは落ち着いた様子で大きく息を吐いた。カオスが善行したことで、今朝カオスが遅刻してしまったのは事実。そして、そんなカオスに自分が罰を与えてしまったのもまた事実。
リニアはそれを素直に受け入れる。
「私もまだまだ未熟か」
呟くリニアに、カオスは振り返る。その一方で、闖入者コンビはカオス達を見てるのか見てないのか常にマイペースだ。
「あらあら、良く見ると顔もいいじゃないの。ウチの孫に紹介したいぐらいだわ。おほほほほ」
「手前味噌だけれど、ウチの子も気立てが良くていい子よ。おほほほほ」
「いくら遅刻常習者相手とはいえ、善行をした生徒に罰を与えてしまうとはな」
「別に気にしてないけど?」
深く反省するリニアに、全く気に留めていないカオス。だが、そのカオスの声はリニアには届いていない。リニアは大きな声で叫ぶ。
「40周、いや100周だ! リニア・ロバーツ、校庭100周!」
「ぬぉあっ!」
カオスはそのリニアの発言に心底驚いた。校庭100周なんて普通に考えれば出来ないし、大体教師が罰で校庭を走るなんて聞いたこともない。
ただ、このリニアの性格を考えると本当にやりそうだ。そう思ったカオスは、リニアを止めようとする。
「別にそんなことを教師がしなくてもいいんじゃねぇのか? 実際、遅刻したのは事実なんだしよー」
カオスはそう言うが、リニアは妥協しない。
「駄目だ! 過程を見ずして結果だけで判断し、それで罰を与えてしまうなど、教師としてはあるまじき姿だったのだ! 生徒が罰で償うのならば、教師も同じことをすべきなのだ!」
言葉は通じそうにない。ならば、行動であろう。
「それじゃあ」
カオスは黙ってリニアの右手を取った。右手を取り、それを自分の頭の上に乗せ、こするような仕草をさせた後、その手を離した。リニアの右手はゆっくりとカオスの頭を離れ、元あった彼女の腰の横に収まった。
「?」
そのカオスの行動が何を示すものか分からず、リニアは不思議そうな顔をする。そんなリニアに、カオスは笑って答える。
「良く出来ましたってことで♪」
「ああ、良い子良い子という訳か」
カオスのその言葉を聞いてリニアは、さっきカオスにやらされた右手の動きが、親が子を褒める時の頭を撫でる形になっていたことに気が付いた。
叱るより褒める。罰よりも賛辞を。
それもまた、教育として推奨すべきだろう。リニアはそう悟らされた。そんなリニアの口元には、優しげな微笑みがあった。
「フッ、馬鹿が」
リニアはそう言いはしたものの、彼女のその言葉には優しさが溢れていた。
「これをきっかけに、ウチの孫と恋人になったりするのかしら。おほほほほ」
「あらあら、お義母さん。そう言えば、ウチには男の子しかいませんでしたよ。おほほほほ」
「あれま。それじゃあ駄目ですね。おほほほほ」
ちゃんとしたトレーニングは次回から!
と、ダイエット前のセリフみたいなことを言ってみたりする。