Act.015:港町戦争Ⅳ~キッチン・ローラ来襲~
港町アヒタルの雁間亭、その店内。ルナ達、カオスを除くメンバーの前にはランチのような物が並べられていた。そしてカオスの前には白い煉瓦のような物体の載った皿と、箸が置かれた。見たことの無い奇妙な物体に、カオスは首を傾げる。そして、じっくりと観察する。
白い物体の上に載っている緑の物は、食用の葉っぱだと分かる。そして、そこにかけられている黒い液体はソースに間違いない。では、この中心的な物である白い物体は何か?
いくら考えても答えの出なかったカオスは、それを出した張本人であるツキナに問いかける。
「コレは?」
「ああ」
さっきまでのカオスの行動は、彼なりの食事前の儀式かなんかと思い、出来るだけかかわらないようにしようと考えていたツキナだったが、それは自分に出された食品が何なのか分からないゆえの行動だと理解した。
確かに、これは私の母国以外の人には分からないでしょうね。
ツキナは決まり悪そうに笑い、カオスに説明する。
「これは私の母国の食べ物で、冷奴という物です。豆腐の上にシソの葉をのせて、そこにお醤油をかけてあります。身体にいいですよ」
「トウフ?」
カオスは少し考えを巡らせた。何処かの本で見たような、誰かから話を聞いたような、そんな曖昧でハッキリしない気分だった。だが、それはどうでもいい。
今ここにその未知なる物が自分を待ち構えている。ここは挑戦せずにいられないだろう。挑戦せずにいるなんて男じゃねぇ。カオスは無駄に気合を入れ、冷奴に向かって箸を取る。
「成程、コイツがトウフか。噂には聞いたことあるぜ」
ラーメン等で箸の扱いには慣れていると自負していたカオスだったが、豆腐はなかなかカオスにその身を捧げようとしない。豆腐の身は外見のイメージに反して柔らかく、すぐに箸からこぼれてしまうのだ。
「よっ! はっ! とぅ! ずどどえあぁああああっ! 中々食べづらいな」
「黙って食えー」
目の前でカオスが豆腐に対して悪戦苦闘しているのは分かっていたが、食事中に五月蝿いのでルナは一応そう注意する。
でも、まあいいか。
そう思い、ルナは視線をカオスから外す。すると、ツキナがスプーンを持ってカオスに近付いていた。それを見て、ルナはそれを制止する。
「この方が食べやすいかと思いまして」
ツキナはそう言うが、ルナは首を横に振る。
「それ出しても、アイツは使いませんから。ああなったら、アイツは何が何でもあの箸で食べないと気が済みませんからね。まあ、アレはアレで楽しんでいるので大丈夫ですよ」
彼の中で戦いは始まっているのだ。そういう端から見ればどうでもいいようなことに関して、カオスは妙に負けず嫌いなのだ。ルナは、そう分かっていた。だから、そういう親切は無用なのだとツキナに教える。ツキナはそう言うルナに応じて、笑顔でそのスプーンを元あった場所にしまった。
その頃にはカオスは豆腐を箸で捕らえ、食するようになっていた。
「ふむ。味は薄いし、噛みごたえも無いが、中々に美味いな」
カオスは新鮮な味わいと良い味わいを提供してくれたツキナに笑顔を向ける。そして、さらっと訊ねる。
「どうやって作ったの、コレ?」
「ちょっと難しいですよ」
答えはしないだろうと思っていたが、ツキナはあっさりと答える。ライバル業者だったら教えないのかもしれないが、カオスやここに居る面子はそうじゃないし、今後もそうなるつもりもない。だから、カオスは自分の言葉にそう付け加える。
「ま、実際マネしたりしないけどね」
「えーっとですねぇ」
それはわざわざ言わなくても分かったのか、別にコレの製法を知られても良かったのか、ツキナは自身が行った作業を一つ一つ思い起こしながらカオスに口頭で説明する。
「まずは大豆を良く洗い、それを水につけてやわらかくします。その後、水を加えながら粉砕機を使ってそれをドロドロにすり潰します。こうして出来た物を呉と呼びます。そして、その呉をさらに水を加えて加熱します。加熱は釜で直接沸騰させるか、蒸気を吹き込んで煮ます。この加熱によって大豆特有の青臭さが取れるのと同時に、たんぱく質も多く液に溶け出します。加熱が済んだら布袋に入れて濾過し、豆乳とおからに分けます。この時、呉が冷えすぎてしまいますと絞りにくくなってしまうので、濾過は呉が出来るだけ熱い時に行い、より多くの豆乳を搾り取るのが賢明です。豆乳がいくぶん冷めて70℃位になった時、そこに凝固剤としてにがりを用います。凝固剤を入れますと、豆乳中のたんぱく質がそれによって固まってきますので、それをしばらく静置した後に上澄み液を捨てます。下に沈んだ凝固物は、四方に小穴を開けた型箱に木綿布を敷いて流し込みます。そしてそこに蓋をして重石を載せ、水気を切ります。豆腐が十分に固まったら、箱のまま水に入れて豆腐を抜き出し、それをしばらく水に浸したなら出来上がりです」
ツキナはつかえもせずに、長々と豆腐の製法を説明した。
「長っ!」
ツキナの説明が、見事に耳の右から左へと通り抜けていったカオスは、開口一番にその説明に対してそう感想を漏らした。
まあ、そうなるでしょうね。
ツキナはそうなるであろうと予測していたので、ニコニコと笑顔のままだった。彼女の故郷でも、コレを自分の力で作れる者はとても少ないのだ。今まで見た事無かった人ならば、その長過ぎる作業に辟易するに違いないのだ。
カオスはもう一度ツキナの顔を見た。このちっとも頭に残っていない作業を、彼女はたった一人でやったのだ。そう思うと、この目の前の人物はとてつもなく凄い人物のような気がした。
「そんな作業やったの?」
「ええ、今朝早く」
今ではない。あの10数分の間ではない。
カオスは笑う。
「そりゃあ、そうだよなぁ。でも、一瞬超高速の神業的仕事を想像しちまったぜ」
ツキナが目にも留まらぬ早業で調理をするシーンが、カオスの頭の中で一瞬思い描かれていた。当然と言えば当然なのだが、それは現実には無い訳で、それを分かっていながらもカオスはその馬鹿馬鹿しい想像に笑っていた。
ルナもマリアも、そんなカオスを見て穏やかに微笑んでいた。
穏やかで、楽しい昼の時間だった。そんな時、店のドアの鐘が鳴らしながら一人の少し年配の男が店の中に入ってきた。白髪をオールバックにし、口の周りには髭をたくわえていた。一見では、普通の人物のように思われた。
客か?
カオス達はそう思いながら、雁間亭内に居る全員の視線がその入口にいる人物に向いた。その男は、久し振りに明るい雰囲気の雁間亭に驚きの表情を見せていたが、その後すぐにその男の口元は緩んだ。笑顔だ。
「おやおや、今日は賑やかですねぇ」
穏やかなその男に対し、その男を視界に入れたカイの表情はあっと言う間に険しいものに変わる。そして、その男に向かって怒鳴る。
「お、お前はモスル=カルバラ! お前は来るなって言っただろうがっ! とっとと失せ」
「カイ!」
やって来た年配の男、モスル=カルバラに今にも飛び掛りそうな息子を、ツキナはビシッと言ってそれを止める。
「いらっしゃったお客様をお前呼ばわりしてはいけません!」
子供に対して穏やかでありながら、躾として締めるべきところはきっちりと締める。そのツキナの母親としてのメリハリの良さに、カオス達は余所者として好感を持っていた。だがそれと同時に、カイの怒鳴りつけたあの年配の男の名は、警察の詰所でエクリア達と聞かされた悪名高いカルバラ財閥のボスであることも思い出されていた。
その悪名を知らないのか、もしくはそれでも差別をしないのか、ツキナはそのモスルに対して普通のお客様と同じように丁重に対応する。
「カルバラさん、申し訳ありません。躾がきちっとなっていなくて」
「いえいえ、私は全く気にしておりませんよ」
丁重に頭を下げるツキナに、モスルは無礼な態度を取ったカイに対して怒った表情を一切見せず、紳士的に対応する。カオスはそんなモスルをチラッと見た後、カイに他の面子には聞こえないような小声で耳打ちする。
「おい、カイ。『お前呼ばわり』がダメならなぁ」
「おおっ!」
カオスが自分に耳打ちした言葉に、カイは目から鱗が落ちたような顔をした。そして、息を吸ってモスルに対し再び怒鳴りつける。
「モスル=カルバラ! 『貴様』にはこの店の暖簾をくぐる資格は無い。帰れ!」
「カイ!」
ツキナのカイに対する怒鳴り声と、ルナのカオスに対する鉄拳が飛んだ。モスルはそんなカイの言動に思い切りずっこけていた。そして、呆れていいのやら、または反対にそのトンチに感心して良いのか分からず、戸惑っていた。
『お前呼ばわり』が駄目なら、『貴様呼ばわり』。年長者から吹き込まれた悪知恵とはいえ、アイデアとしては悪くない。客観的には、皆そう判断していた。
そんな皆を他所に、カオスはいたいけな少年に次々と悪知恵を吹き込んでいく。
「おのれ、てめぇ、クソ野郎、腐れジジィ、ゲス野郎、まだまだあるぜ」
「お、おおおお」
そんな不良と悪ガキの後ろに黒い影が一つ。
「カオス。まだ、殴られ足りないのかしら?」
ルナだ。カオスは錆び付いたロボットのような動きで、ガガガガと振り返る。
「イエ。十分デス。冗談デス」
「そう、足らなそうに見えたけど?」
「イエイエ、ソンナコトナイデスヨ?」
そんな温い漫才を遠目で見ながら、モスルは場が静かになった頃を見計らうと、手で頭を抱えて大きく溜め息をついた。
「ふぅ。でもね、カイ君。おじさんは悲しいよ」
モスルはカイの方を真っ直ぐ見つめる。
「そんなにおじさんの事が嫌いかい?」
少し哀しげな目で、モスルはカイに視線を向けていた。それ故、モスルはカイが少しは迷って応えるだろう、否定的なことは良心の呵責から言わないだろう、と考えていた。だが、カイは即答する。
「うん。大嫌い」
「カイ!」
ハッキリ大嫌いと言われたモスルは、ショックの余り大きくのけぞり、倒れそうになった。転倒を何とか堪えはしたものの、モスルはショックの暗い空気を背負って俯いたのだった。
カイの母親であるツキナは、モスルの方に目が行く前にカイを怒鳴りつける。カイは実際モスルのことは大嫌いなのだろうが、世の中には建前と本音がある。そのような本音は心にしまっておくものであって、本人の前でそのようなことを言うべきではない。そのことを分からせなくてはいけない。ツキナは、母親としてそう考えていた。
「なんてこと言うの。謝りなさい!」
そのように、ツキナは我が子を叱る。だが、本音と建前を使い分けるような年ではないカイは、自分がどうして叱られるのか分からないような表情をしていた。
「ホントのこと言ったのに?」
何事も正直でありなさい。嘘をついてはいけません。そのように教えられたのに、それは違うのか? カイはそう問いかける。
そのカイの真っ直ぐな瞳を見て、ツキナは溜め息をついた。カイの真っ直ぐさはいいけれど、物事はTPOに合わせて柔軟に対応してゆかねばならないのだ。
ツキナは優しく諭そうとする。
「あのね、カイ」
そうやって説教モードに入ろうとしたツキナを、ショックモードから何とか復元したモスルは柔らかい物腰で止める。
「いや、いいのです。私には私を嫌うカイ君の気持ちは分かります。全てはお母さんを大切に思うが故のことですから。怒らないであげて下さい」
それは分かっているけど……
ツキナは視線をカイからモスルに向ける。モスルは続ける。
「こういうことは、焦るのが一番良くない。時間をかけて、カイ君ともじっくりと分かり合いたいですね。私は気長に待ちますので、返事はその時で結構です。では、また来ます」
そう言って、モスルは雁間亭からあっさりと出て行った。その背中を見ながら、カイが最後にその背中に向けて投げかけた言葉は、当然「もう来んな」だったことは言うまでもない。
◆◇◆◇◆
モスルが紳士的にその場を去った後、雁間亭は台風が去ったかのように静かになった。ルナは先程までのモスルの雁間亭に居る人間に対する紳士的な応対を思い浮かべつつ、それと共にアヒタルの警察で聞かされたモスルに関する良くない噂を照らし合わせてみた。警察の署員達もカイも、モスルに対して余り良いイメージを持っていないようだったが、さっきのモスルの様子からはそれらしきものは何一つとして感じられなかった。
ルナは、気が抜けたように大きく息を吐いた。
「何だ。聞いた程悪そうな人では」
「ウサンクセェ野郎だったな」
ない、と言いかけたルナの後ろで、カオスはブスッとした表情で誰も居なくなった雁間亭のドアの方に向かって言い放つ。
「でしょ?」
驚いた顔をしてカオスの方を振り向くルナの視界に、理解者を得られて少し嬉しそうな顔をしているカイの顔が映った。ルナはカイが喜んでいるのはいいとして、改めてカオスの方を向いて訊ねる。
「胡散臭い?」
「ああ、プンプン臭ってるぜ。肥溜めみてぇだ。ああ、くっさー!」
「うっわ。あのジジィ、えんがちょー♪」
そう言いながら、ルクレルコの不良とアヒタルの悪ガキは笑い合っていた。ルナはこうなることは何処かで予測しつつも、自分の中に疑問を植えつけたカオスに対し少し苛立っていた。そして、凛とした声でカオスに再び問いかける。
「カオス! どういうことなのよ? 胡散臭いって何?」
「ん? 何だ、お前。気付かなかったのか? 鈍い奴だなぁ」
どうせ他の連中も分かっているから、俺だけはふざけていいと思ってたのによ……
カオスは口にしてそうは言わなかったが、顔は完全にそう言っていた。だが、ぶーたれていても仕方がないので、鈍いルナに対して先程のモスルについて説明し始めた。
「あのジジィの言動はな、何もかもが嘘くせーんだよ。こうすれば良いだろうという計算でしかない。だから表情、言葉、仕草、どれをとって見ても全部演技にしか見えねーんだ。奴の言ってたこと、やったこと、何もかも全て嘘だって言われても俺はちっとも驚かないぜ。で、だ」
話し始めたんだから、全てスッキリさせようじゃないか、というような感じでカオスはツキナの方を振り向いて事の説明の為にちょっと訊ねた。
「アンタ未亡人らしいし、再婚とかそういう類の話をあのジジィに持ちかけられてんじゃねぇか?」
「!」
ツキナは驚いた。自分もモスルも、そういう類のことを先程はハッキリと口にしていなかったのにそれを見破られたからだ。
「分かるんですか?」
「当然だよ」
確認の為だけに訊いたというのに、ツキナにそんなに驚いた顔をされたので、カオスは心外と言いたそうな不満顔をした。それを見て、ルナは苦笑いをする。ルナも、モスルがツキナと再婚のようなものをしたがっているであろうことは勘付いていたからだ。
あの話。モスルは、去る間際にそう言っていた。モスルの様子等を照らし合わせれば、そういう話以外には考えられないからだ。
「で」
カオスはまた、ツキナの様子をチラッと見る。
「チラッとしちゃおうかなーとか考えてる?」
カイはまさかとでも言いたげな顔で驚く。カオスに対して文句も言いたかったが、その驚きの為に声も出せなかった。
一方、ツキナも非常に驚いたような顔をしていた。そして、その顔から自分の予測は間違ってはいなかったのだ、とカオスは理解した。カオスは当然とばかりに続ける。
「でも、愛じゃないよね。あのジジィを愛しているようには見えなかったしね」
モスルに対するツキナの対応は、あくまでも客人としての域を出ていないような感じだった。ちょっとしたことがあっても、ツキナは完全にモスルよりカイを優先していた。それは、モスルが雁間亭にやって来た時のツキナの視線の先を窺えばすぐに分かることだった。
死んだ亭主を振り切ってまで再婚しようというのなら、それが愛情故のものだとすると端から見てもハッキリ分かる位の愛情が無いと不可能だ。故に違う。
「だとすると、カイの安全の確保? カイの危険は今日に限ったことじゃなさそうだしな。そして、アイツは財閥のボスということもあり、各方面に顔が広く力を持っている。悪く言えば、カイの安全を思えばアイツは利用出来ると」
「…………」
ツキナは、カオスの予測に対し何も言わない。だが、その顔は全てカオスの予測通りであると告げており、そのことはルナにもハッキリと理解出来た。
カオスはそれから視線をカイに向ける。
「で、俺がカイだとして、もしそうなったら母親に対して言いたくなるのはこうだな」
カオスは視線をツキナに戻し、少しニヤリと笑う。
「ざけんな、くそババァってな。自分の安全の為だとか、どうとか、そんなモンなんかの為に自分の家族が、大切な人が犠牲になる? 絶対に許せねぇ。何より無力な自分自身がな」
そしてカオスは少しの間自分の亡き母を想ったのか、少し間を空けた。そして、文句を言いそびれて、その後の展開で文句の言えなくなって口を開けて呆然としているカイに視線を向けた。
「そんなふざけたマネされても、カイは絶対に幸せになれはしない。そう、絶対にな」
カイの方を真っ直ぐ見据えて、カオスらしからぬ真面目な顔でカイに話しかけ、問いかける。
「どんな理由があるにしろ、母親が好きでもない男と一緒になるってんじゃ息子としちゃ幸せにはなれねーよなぁ?」
「うん」
カイは笑顔を見せる。
「あのクソジジィじゃねぇ。母さんは、お前が守るんだろ。カイ?」
「うん!」
カイは満面の笑みを見せた。
「…………」
ツキナは少しの間虚空を見上げていた。息子に置いて行かれてしまったような寂しい気分だった。亡き夫の形見である息子を守ろうとしていたけれど、きっちりとそれは出来てはいなかった。守ろうとしていた自分は弱く、守ろうとしていた相手であるカイが強かったのだ。
ツキナは少し俯き、ゆっくりと息を吐いた。
「私は、母親失格かもしれませんね。いつまでも小さな子供と思っていても、いつの間にか大きく成長しているものなんですね」
「いや、今でも十分小さいぜ」
「カオス!」
シリアスになっているツキナの発言を即座に茶化すカオスに、それを咎めるルナ。それは、ルクレルコで見られるシーンと同じものだった。
とは言うものの、それも今はあくまでも外野の話。ツキナは息子であるカイと真っ直ぐに向き合う。ツキナの顔は真剣なものだ。それに伴い、カイの顔も真面目なものとなる。
「カイ」
「何?」
「母さん、もっと頑張るね。父さんがいなくて、お前も辛いかもしれないけど大丈夫?」
「うん。勿論さ」
カイは即答し、母親に笑顔を見せる。母と子、その二人がいればそれで大丈夫だと言っているようだった。その笑顔を見て、ツキナも嬉しそうに微笑む。
「ありがとう、カイ。あの話はハッキリと断るわ」
それで、この雁間亭の親子における問題は万事解決したようだった。その様子を見て、カオスは表情が変わらなかったが、他の面子は満足そうに微笑むのだった。
◆◇◆◇◆
一方、モスルは雁間亭から出た後、外のその近くに待機していたボディガードを伴って家路へと着いていた。その途中、モスルの雁間亭での様子を何となく把握していたボディガードが、人目を避けながらモスルに話しかけた。
「残念ながら失敗だったようで」
「ククク」
口の下に生えている自分の黒髭を触りながら、彼はモスルが今回の失敗に落ち込んでいるか、もしくは不機嫌になっているかと思っていたのだが、その予想とは正反対にモスルは機嫌良さそうに笑っていた。その様子を見て、彼は少し首を傾げた。
おかしくなった?
ボディガードの彼は一瞬そう思ったのだが、その理由をご機嫌なモスルは訊いてもいないのに彼に話して聞かせた。
「いいえ、ヤズドさん。ここまでは全て予定通り。アレもまた想定したケースの中の一つなんですよ」
モスルはエマムルド強盗団の髭面スキンヘッド、ヤズドに向かって口元を歪める。モスルの雁間亭の様子を遠目ながら窺っていたヤズドは、そのどう見ても恋敗れたようにしか見えなかったアレの何処が良いのか理解出来なかった。
彼は別にモスルが何企んでいてもどうでもいいと思っていたのだが、疑問を放っておくのも気持ち悪いのでモスルに訊ねる。
「俺にはフラれたようにしか見えなかったが?」
「ええ、それでいいんです。あの母子二人は、恐らく今回のことをきっかけに今まで以上の強い絆によって結ばれた筈です。これ、正に理想の形」
「それの一体何処が理想だと言うんだ? それじゃあ、アンタが入り込む余地は全く無いってことじゃねぇか」
「そのままじゃ、そうなりますね。けれど」
「けれど?」
「形有るものにしろ、無いものにしろ、それが大切なものであればある程に、それを失った時にはその悲しみはその反動のように大きくなっていくのです」
「は? 何が言いたいんだ?」
ヤズドは何のことかと訊いた。すると、モスルは今までで最も愉快そうにその口元を大きく歪めて笑った。
「な~に、簡単なことですよ。彼女の息子、カイ=シュヒテンバークには死んでもらう。たったそれだけのことです」
もうすぐ、もうすぐ叶いますよ。
モスルはまた、愉快そうに笑った。