Act.156:家に帰ろう
「…………」
アビスは黙っていた。カオスの後ろに居る人間の姿、カオスの人間界での関係者の姿を目にしても黙っていたし、カオスの言葉に対しても少し沈黙を保っていた。
そのように言葉を選ぶようにした上で、アビスはカオスにあっさりと答える。
「いいんじゃないか」
と。
「だが、帰る前にアリアとロージアくらいには挨拶していけよ」
「あ、ああ。分かった」
予想以上に人間界への帰宅は上手くいっていた。だが、その順当な流れに、カオスは喜びを見出せないでいた。腑に落ちない気持ちでいっぱいだった。
なぜなら、そもそも人間界への帰宅を許可されるとは思っていなかった。仮にされるとしても、それはたくさんの説得を重ねた上でのものと思っていた。だから、このように最初から賛成されるというのは、完全に想定外だった。
一体何を考えている?
カオスは疑問に思っていた。だが、それを口にはしない。それで心変わりされては面倒だからだ。そして、そのような疑問は自分が人間界に帰宅出来さえすれば、正直言ってどうでもいい。
だから、沈黙。だが、そんなカオスに今度は逆にアビスが訊ねる。
「カオス、どうした? 帰るんじゃなかったのか?」
だが、アビスは分かっていた。そのカオスの沈黙が、自分の発した言葉があまりにも予想外であったことから来たものであると。どう受け答えしたらよいものなのか混乱させるものであったと。
その受け答えもアビスの中では想定内であった。その流れも、展開も、全ては道筋通りだった。つまり、そこには妥協も不満も無い。
「あ、ああ」
そんなアビスの余裕ある受け答えを目の当たりにして、カオスは自分を取り戻す。少し呆けてしまっていた自分を恥ずかしく思いながら。
「当然だ。帰るさ」
人間界の自分の家へ。ルクレルコの自分の家へ。マリアとアリステルの居る自分の家へ。
帰るのだ。
「じゃあな。アリアとロージアに挨拶したら、俺はそのまま帰るからな」
カオスはアビスに背を向けて歩き始める。部屋を出て、帰りの身支度をしようとする。
だが、そんなカオスの動きを見た上で、アビスの表情には何の変化もない。
「ああ。またな」
「…………」
やはり、訳が分からない。
そのように思いながらも、その疑問を飲み込んで、カオスはアビスの部屋を後にした。それに伴ってルナ達もアビスの部屋から姿を消してゆく。
「って、待ちなさいよー」
「アナもー♪」
そんなカオス達を、フローリィとアナスタシアは追った。勿論、カオス達をどうこうしようというのではなくて、単に見送ってやろうというだけである。善意はあっても悪意はない。
そんなカオス達とフローリィとアナスタシアが立ち去って、アビスの部屋には元ある静寂がまた戻っていた。部屋の中には、アビスとノエルの2人しか居ない。
カオス達の気配が十分に遠くに行ったのを確かめた上で、ノエルはアビスに訊ねる。
「あのまま帰しちまっていいのか?」
「ああ」
返事するアビスの声に迷いは無い。
「言ったろ? 今回の目的は“知ってもらうこと”だと」
アビスという男が居るのを知ってもらうこと。
カオスという男は、アビスの息子であると知ってもらうこと。
カオスの中で認められようが、認められまいが、知ってもらうことそのものでは、そのどちらでも関係ない。許諾でも拒絶でも、そのデータが頭の中に入りさえすれば、既に達成されているのだ。
だから、今回はこれだけ進めばそれでいい。焦りは必要ない。そして、急いではならない。
「無理を通せば、そこに必ず歪みは生じてしまう。先に進むのに必要なのは、今のところ時間だ。だからこそ、今回はこれでいい。むしろ、ここまでにしておくべきなのだ」
無理に監禁したり、現在居る仲間達と引き離したりしたら、それはこちら側に対するマイナス感情を生む。そのマイナス感情は、こちらからのアクセスを全て拒絶へと変えてしまうだろう。だから、今回は此処で止めて、これからしばらくはこちらの存在が忘れ去られないようにする程度にしていればいい。そして、それはアビスがどうこう企んだり命令したりするまでもなく、フローリィやアナスタシア達によって確実に履行されていくだろう。
そう分かっていた。だから、今回のこの結末に対してアビスは満足だった。
そして、それだからこそ、別れの挨拶は“じゃあな”ではなく“またな”なのだ。
「あら。そうなの?」
人間界の家に帰る。そのように言った時の、アリアの第一声はそれだった。つまり、カオスがそう言い出すのは予想出来たことであって、そこに驚きは何もない。実際、アリアの表情は眉1つ動かさなかった。
「あ、ああ」
カオスはいささか拍子抜けした。
そんなカオスはどうでもいいとして、アリアと一緒に居たロージアはフローリィに訊ねる。
「お父様は何て?」
フローリィのお父様。アビスはどのように言ったのか?
此処に来る前に、当然アビスには言ってあると判断したロージアは、その場に居たであろうフローリィに訊ねたのだ。そして、それは言うまでもなくビンゴ。
「好きにしろってさ」
面白くなさそうに、フローリィは答える。こうなるであろうことは分かっていたけれど、それはそれで面白くはない。だが、それを口にするのは認めてしまうようで悔しかったのだ。理由は言えないが、何となく。
そして、アリアも反対しない。
「あのヒトがそう言ったのならば、私としても異論は無いわ」
そう。アビスが駄目だと言うならば、アリアとしてはやはり無理にでも引き止めていただろう。だが、それがないのならば、そのようにする理由はアリアにはない。義母として息子に愛情はあるけれど、それは無理矢理引き止めてどうこうする気はない。あくまでも、カオスの意志を尊重していたいと思っていた。
だから、ただ優しく微笑む。
「向こうでも元気でね」
「ああ」
「でも、たまには顔くらい出しなさいよ」
それは母親としてのささやかな願望。だが、それをカオスは拒絶しない。その願望が何処から来るものなのか分かっているから、してはならないと分かっている。だから、快諾するのだ。
「分かった」
「そして、カオス。忘れないで。貴方の実母はエミリアだけれど、例えお腹を痛めていなくても今では私も貴方の母親だというのに変わりないわ。実母のエミリア、そして育ててくれた養母さんやその家族から貰ったその恩を忘れろとは言わないし、絶対に忘れてはダメだけれど、ここにも母親が居るということも忘れないでいてね」
「ああ」
時間はゆっくりと過ぎていた。穏やかに過ぎていた。
アリアとの別れの挨拶が終わると、ロージアはカオス達が人間界に戻る手順の概要をざっと説明する。
「魔界と人間界は世界が異なるから、それを越えた瞬間移動は出来ないわ。例えば、このアビス城から首都アレクサンドリアに瞬間移動魔法で直接行けないの。でも、魔界内での移動ならば、人間界の時のそれと同じように自由に瞬間移動魔法は可能よ」
「つまりだ」
カオスは頭の中でその説明内容を整理しながら言う。
「二重に瞬間移動魔法を使えばオッケーだな?」
このアビス城からルクレルコに戻るのであれば、アビス城から魔界と人間界を繋ぐ場所に瞬間移動魔法を使って移動する。それから徒歩だか何だか知らないが、世界の境界を越えて人間界に戻る。そうして、人間界側の魔界との境界地点からルクレルコに瞬間移動魔法で戻ればいいという事になる。他の場所でも、その最終地点が異なるだけだ。
「そういうこと」
「分かった」
手間はちょっと余計にかかるが、出来なくはない。瞬間移動魔法では行った記憶のある場所にしか行けないし、カオス自身にはそこを通過してここまで来たという記憶はないが、マリアやリニア達がしっかりと記憶を持って通り抜けてきたのだから、彼女達を頼れば良い話であって、帰宅に関する全ては万事オーライだった。
「じゃ、帰るか」
そう言って、皆での帰宅をカオスは促した。
そんなカオスに突然声をかけて止める者が居た。
「待って!」
それはアナスタシアだった。アビスの部屋から出てずっと今まで沈黙を保っていたのだが、勇気を振り絞ってその沈黙を破った。
カオスは振り返り、兄らしく優しい微笑みで訊ねる。
「アナスタシア、どうかしたのか?」
「あ、あの。あの……」
言っていいものか迷っていたが、アナスタシアはさっき出した勇気で、また言葉にする。
「大きくなったら人間界に、お兄ちゃんの所に遊びに行ってもいいですか?」
ハッキリと、自分の願望を言葉にした。
それは訊かれるまでもない。お願いされるまでもない。カオスは言う。
「ああ、いつでも来るがいいさ」
が、そう言った瞬間にカオスは気付く。
「別に大きくなるまで待つ必要なんかねぇけどな」
「でも、魔界と人間界の境を越えるのは大変らしいから」
どれ程大変なのか分からないけれど、それが不安だと言うのなら経験者に同行してもらえばいい。そう。別に単独でなくてもいいのだ。実際、ルナ達は大所帯で人間界からやって来たのだから。
「それならフローリィにでも連れて来てもらえばいいんじゃないか?」
「あ、そうか」
お姉ちゃんお願いね、とアナスタシアが言おうとした時には既にフローリィはその首をぶんぶんと横に振っていた。
「何であたしが。嫌よ面倒臭い」
「じゃ、ロージア」
カオスは速攻で話をロージアにシフトする。ロージアとしては、行きづらくなっていると思われる首都アレクサンドリアを除けば、別に断る理由もないので、すぐに軽く首を縦に振って承諾する。
「忙しくなければだけど」
「それでいいさ」
「って、早いよ!」
あっと言う間に話を結論づけたカオスとロージアに、フローリィは思わずそう言っていた。
フローリィとしては面白くない。自分が一旦断って、「それでも頼むよ。お願いお姉ちゃん」とカオスが懇願してきたところで、「そんなに頼まれちゃ仕方ないわね。お姉ちゃんが一肌脱いであげるわ。感謝しなさい」というのが、理想パターンだった。
もっとも、その妄想ストーリーの詳細を、カオスが分かるわけはない。だが、何となくそのようなストーリーを思い描き、調子に乗ろうという企みは何となく分かっていた。フローリィ相手に頭を下げてもつけ上がるだけだと。だから、速攻で相手をチェンジしたのだ。
「だって、お前は嫌なんだろ?」
ならば、別に付き添いは他でもいい。ロージアだけでなく、ノエルも居る。アリアの詳細はまだ分からんが、アリアもいいかもしれない。嫌がるのならば、別にやらなくても構わないのだよ。
カオスがフローリィに向けた視線はそんな感じだった。
「な。そ、それは……」
分かる。客観的に分かるけれど、それは認めたくない。
だが、自分の心境の詳細は口が裂けたとしても絶対に言いたくはない。だから、最後の言葉でその言い合いを強引に終わらせようとする。
「カオスの馬鹿」
「……」
カオスはそれ以上つっこまない。それ以上つっこむと、フローリィが困った挙句の果て、逆ギレするだけだと分かっているからだ。この言い合いも何もかも、別にフローリィが嫌いでやっていた訳じゃない。普通のコミュニケーションとしてやっていたのだから、彼女をそのように追い詰めるのは心外だ。だから、ここでお終い。
「さて、それでは」
一息ついて、カオスは告げる。その終焉を。
「GO HOME♪」
「…………」
「…………」
それはあまりにもいつも通りだった。いつものカオスだった。
此処での順応しているカオスや、色々な周りの様子を目の当たりにして色々と思うことがあったルナ達ではあったが、そんなカオスのいつも通りの振る舞いを見て、何だかどうでもいいような気分になっていた。そして、カオス自身もそんな細かいことはどうでもいいと思っているのだろうと。
だから、苦笑する。苦笑して、頷く。
「そうね」
「帰りましょ~♪」
それからはいつも通りに振る舞うのだ。ルナ達も。
マリアは軽く魔力を充溢させる。それからカオス、ルナ、アリステル、リニア、リスティアを巻き込んで瞬間移動魔法を発動させる。最初の移動地点は、ルナ達が人間界からやって来て、初めて到達した魔界の場所。そこに、人間界との境界がある。
魔力がカオス達を包み、その数瞬後にカオス達は飛んだ。あっと言う間に空の星となって消えた。瞬間移動魔法によって消えていった。アビス城のテラスには少しだけその魔力の残滓が渦巻いていたけれど、それもすぐに風に流されて消えた。
静寂がまたテラスに戻っていた。
「…………」
フローリィはカオス達が消えていった空を黙って見上げていた。
また。そう。また、会おう。私の弟よ。
だから、さよならは言わない。きっと、いや、絶対にまた会えるのだから。
フローリィは俯かず、何の悲しみも喪失感も見せない表情だった。今日の別れは、学校帰りに友達に「また明日ね~」と言う、そんな感じのものだった。彼等が明日会えるのを信じて疑わないのと同じように、フローリィもまた会えると信じて疑わなかった。もっとも、再会は明日よりも先にはなるだろうけれど。
そして、アビスもまた同時刻に同じ空を見上げていた。彼もまた、息子にはまた会える。そのように信じて疑ってなどいなかった。そんな彼等の想いは叶うことになるのだが、それはまた別の機会に。
ルクレルコの空は青く澄み渡っていた。気持ちの良くなるような晴天、夏の青空だった。そのルクレルコ・タウン北部にある牧草地で、アレックスは乳牛の邪魔にならない場所で今日もまたトレーニングを重ねていた。自分なりに厳しい特訓を積んでいた。
そんな特訓が、アレックスに自信を取り戻す。
「俺は強い! 俺は強い! 俺は強い!」
もう、足手まといは言わせない。思わせない!
アレックスはそのように自分自身に言い聞かせる。一種の自己催眠も強くなっていく為には必要であるし、アレックスもそれを分かった上でやっていたのだが、アレックスのやっているのはただの妄想であった。
カオスは、この俺の手で救ってやる!
自己催眠(っぽい何か)は、すぐに自分に都合の良い妄想ストーリーへと変換されていった。
魔界のアビス城(想像)、アレックスは単身乗り込んでいった。魔界の空を飛び、正々堂々とアビス城の正面から突撃する。おりゃー。
そこに現れる魔の六芒星(想像)。何だ、お前は? アイツは、人間界屈指の戦士、アレックス・バーントではないか! 気を付けろ。奴は強敵だ! みたいなことを彼等は次々と言ったりする。
「カオスは返してもらうぞ。行くぞ!」
「HAHAHAHA、返り討ちにしてくれる!」
アレックスと魔の六芒星との戦いは始まった。
(中略)
魔の六芒星(想像)を倒したアレックスは、満身創痍であった。ここで魔王アビス(想像)と戦えば、敗戦必至であろう。しかし、アレックスは運良く聖なる泉を発見した。それは、HPとMPを全回復してくれるというプレイヤーにとって非常に都合の良い存在だ。客観的に考えれば、そんなのが敵の本陣にある訳ないし、仮にあったとしてもプレイヤー達侵略者が自由に使えるようにしてある訳がない。ゲームとはいえ…(以下略)。
本来ある力を取り戻したアレックスは、魔王アビス(想像)と対峙する。
「ここまでよくやって来たな。その力を認め、我の下僕にしてやろう。魔の六芒星の一員にな」
「断る。俺はあくまでも人間界のアレックス・バーントだ」
そして、始まる戦い。最後の戦い。
(中略)
苦戦の末、アレックスは魔王アビス(想像)を倒した。何故か朝日が輝き始める東の空をバックに、カオスは開放される。悪を打ち滅ぼし、友を救った、勇者アレックスの物語であった。
「行くぜ! 行くぜ! 行くぜ!」
アレックスはその妄想を現実にしようとしていた。魔界への行き方も知らない、手段も持たない、そんな自分には戦闘力以前に不可能だというのも忘れて。
だが、そんなことに気付けないままのアレックスは自分自身に気合を入れるかの如く叫び続ける。
「俺は行くぜ!」
「どっか出掛けんのか?」
「え?」
アレックスが振り返ると、牧草地横の道をカオス達一行が歩いていった。牧草地から北方向、カオス達の家のある方角へと歩いていった。そう。カオスは無事帰ってきたのだった。アレックスが何もしない内に。
ピシッ。
アレックスは凍りつき、動かなくなった。アレックス内の妄想ストーリーの永久凍結であった。
牛がだらだらと昼寝をする牧草地の横、土の香りのする泥道を北方向に向かって歩いていく。耳に聞こえる蝉の声、鳥の声が、人間界に無事帰ってきたのだと優しく教えてくれる。リスティアはもう居ない。彼女はルクレルコにやって来ることなく、自分の出身である首都アレクサンドリアへと戻っていった。だから、ここを歩いているのはカオス、ルナ、マリア、アリステルとリニアの5人だけだ。
途中、大木のあるT字路で家の方向が違うリニアと別れ、カオス達は4人となってそこからさらに北方向にある自分の家へと向かう。牧草地から刈り入れの終わった麦畑を抜ける。そこから小川を越えれば、カオス達の家が待っている。
「もうすぐ麦の刈り入れね~」
「パンが美味しい季節ですね」
そんな他愛ない会話も、普段ならただ聞き逃して、数分後には思い出せなくなっているのだろうが、それを失う可能性を知った今では、そんな欠片でさえも貴重な日常の1つなのだとカオスは分かるようになっていた。
ゆっくりと木の橋を渡っていく。耳に聞こえる板の音さえもが何となく懐かしい。
そして、その先に見える光景。この橋の北側に建っている家は何軒か。その光景はカオス達がここから首都アレクサンドリアに行った時から何も変わっていない。全ては同じままだった。
もっとも、カオス達がここを去っていた時期はほんの僅かでしかない。時間で言えば、ほんの1週間程度でしかない。だが、その時の時間の充実度を考えれば、1年にも2年にも思えるようだった。だから、全てが懐かしい。
カオスは立ち止まってその景色を見て、そのように感じたのだ。
「カオス。どうかした?」
立ち止まったカオスに、ルナは振り返ってそのように訊ねる。
「いや。何でもない」
これは日常なのだから。当たり前の“おかえり”なのだから。
カオスはそう心に思いながらも、それを声にしないままにその足を自分の家の方へと進めたのだった。
ただいま、我が家。
それはよく晴れた夏の昼のことだった。