Act.149:小さい姉と小さい妹
大きなウサギのぬいぐるみが走っていた。アビス城の廊下の向こうから、上下に揺れながら一直線に。
いや、本当は小さな少女が大きなウサギのぬいぐるみを抱えながら走っていた。そして、そのぬいぐるみがあまりにも大きいので、抱えている少女の姿が前方からは見えなくなっていた。
ぬいぐるみ、もとい少女は走る。とてとてとどう見ても速くはないが、形式上は走っていた。
「!」
だが、その少女は不意に足を止めた。気配を感じたからだ。まあ、気配を感じたとは言っても、実際のところは何となくそっちに誰かが居ると思った程度なのだが。
その気配の方に少女が振り向くと、そこには1組の男と女が居た。カオスとロージアである。カオスもその少女の視線に気付き、足を止めた。
「?」
「あなたはだぁれ?」
ぬいぐるみの陰からひょいと顔をのぞかせ、少女はカオスに訊ねる。少女は生まれた時からこの城で暮らし続けていた。だから、全員という程ではないが、この城で生活している者の顔は大体判る。つまり、来たばかりのカオスは、すぐにずっと此処には居なかった者としてすぐに分かっていた。
まあ、そうくるだろうな。どうでもいいけど。
カオスはそのように思いつつ。
「お前こそ誰だ?」
ふてぶてしく返した。もっとも、カオスはその目付きの悪さ故に幼児からあまり懐かれない。と言うか、マリアどころかルナやアレックスなど周囲の人間の中で最低レベルである。その為、此処でもあまり関わり合いにならないようにしよう。そう考えた上で、そんな愛想のないものになった。
まあ、知らないのだからしょうがないわね。
ロージアは立ち止まって、カオスに対してその少女を紹介する。
「この子の名前は、アナスタシア。6歳。魔王アビスの娘よ、カオスお兄ちゃん」
「お兄ちゃん?」
アナスタシアをカオスに紹介すると同時に、アナスタシアにカオスを紹介したロージアに、アナスタシアは首を傾げながら訊いた。自分にお兄ちゃんがいるというのは聞いたことあるけれど、実際に写真が残っていたわけでもないから、どのような人物なのかわからなかった。だから、この人がそうなのか? その確認をロージアにしたのだ。
「ええ♪」
ロージアは微笑む。これはカオス。魔王アビスの息子である『C』である。それは間違いない。絶対に。
ロージアの微笑みは、それを分かった上でのものであった。
「♪」
それを聞いたアナスタシアは笑顔を見せる。花開いたような、満面の笑顔を見せる。
そして、駆ける。アナスタシアは、カオスめがけて突撃する。もとい、抱きつきにくる。
「ぬおっ」
自称子供が苦手、得意なのはボン・キュ・ボンのセクシー姉ちゃんのみなカオスは、飛びついてくるアナスタシアに戸惑った。ある意味、その戸惑いのレベルはアビスからのお話よりもずっと上だった。
だが、ここで受け止められない男は男じゃない。そんな主義主張を今思いついたカオスは、そんな幼い妹をしっかと受け止める。抱きとめたり、高い高いしてやったり、そうしながら回ってやったりした。
わー♪ わー♪
「ふふ」
そんな2人の様子を、ロージアは穏やかな微笑みで見守っていた。
へぇ。結構面倒見がいいんじゃないの。
カオスのアナスタシアに対する対応を見て、ロージアはちょっと意外に思っていた。子供に対して酷い真似をするとは露程にも思っていなかったけれど、多少苦手としているんじゃないかと思っていた。
それは、カオス自身も思っていた。だが、カオス自身自分が分かっていなかった。アヒタルでのカイの扱いも特別悪くはなかったし、客観視すればカオスは子供の扱いが苦手ではない。寧ろ、得意な方と捉えても良い位だった。
わー♪ わー♪
その頃、フローリィは歩いていた。アビス城の廊下を適当に歩いていた。そして、フローリィは不意に自分の腹に触れてみる。
「な~んか、小腹がすいたのよねぇ」
何かお菓子でもあるかしら? とりあえず、キッチンに行ってみて、何かあるかどうか見ておこう。そこに誰か居れば、何かしら口に入れるものを持っているか、ある場所を知っているかもしれない。
と思考が行ったところで、フローリィは思い出した。
居ると言えば、今このアビス城に『C』が居るのだと。人間界で生まれた『C』が戻ってきたと言うのも何だか変だが、今ここに里帰りしているらしい。
そんなことを、メイド達が噂話のようなものをしているのを耳にしていた。それを思い出した。
『ねぇ。貴女は王子様をご覧になりました?』
『ええ。私が拝見した時も眠っておられたんですが、かっこいいですよね~』
『早く目を覚まされないかしら?』
『楽しみですよね~』
王位には興味ないから、アビスの跡継ぎがアナスタシアでも、その『C』でも、どちらでもいいとフローリィは考えていた。それに、そういう問題はまだまだ早く、そして魔族には寿命なんてあってないようなものなのだから、どうでもいい話だ。
ただ……
アビスの姉であるアインとグレンの娘として生まれた自分。その数ヵ月後にアビスとエミリアの息子として生まれた『C』。王位はどうでもいいとは言っても、弟は弟なのだから、興味がないと言ったら嘘になる。だから、とりあえず顔くらいは見ておこう。フローリィは、そのように思った。
では、その『C』は何処に居るのか?
今回、その『C』を攫ったのはノエルで、その後の世話をしているのはロージアとその他メイド達。メイドは何処の誰が担当しているのか分からない。ならば、何処に居るのかノエルかロージアに訊けばいい。まずはどちらかを探そう。
そのように決めたフローリィの視界に、人影がちらりと現れるようになった。フローリィの歩いている廊下と直角に交わる通路を歩いている人影、女性的なシルエットに不釣合いなスキンヘッド、それはロージアである。カオスとアナスタシアはロージアの後ろを歩いていたので、その時のフローリィからは死角になっていて、そのロージアの姿だけが見えていた。
だから、フローリィは交差点に近づくと、ロージアに対してだけ話しかけたのだ。
「あ、ロージア。いいとこに来た。『C』が今ここに居るんでしょ? あたしにも……」
見せろ。
そのように言う前に、フローリィの目にカオスとアナスタシアが映った。それが、その驚きが、フローリィの言葉をそこで凍らせた。
「カオス?」
ここに居るとは夢にも思わなかった人が、今目の前に居る。そんなフローリィは、その驚きで固まっていた。
その一方で、ここがアビス城と分かっているから、カオスは当然目の前に居る人物に会う可能性は高いと思っていた。だから、そんなカオスは驚きもしなかった。その為、カオスには余裕があった。
「あ、フローリィ」
お姉ちゃんだ~!
カオスは笑顔を見せる。花開いたような満面の笑g、もとい胡散臭い笑顔を。
そして、駆ける。カオスはフローリィめがけて突撃する。もとい、抱きつきにくる。アナスタシアが自分にしたそれと同じように。
そんな冗談を飛ばす。
「…………」
そんなカオスに、フローリィは……
マッハパンチ。
また、マッハパンチ!
またまた、マッハパンチ!!
またまたまた、マッハパンチ!!!
またまたまたまた……(以下略)。
「って、何でアンタがここに居るのよ?」
「さんざんどついといて、それかい!」
「答えなさい」
「知るか、ヴォケーッ!」
そんなカオスに、フローリィは再びマッハパンチ。
まあ、それはそれとして。
「ロージア」
フローリィは同じ質問をロージアに対してする。だが、ロージアもその問いにはハッキリとは答えない。ただ、含み笑いのような笑みを浮かべるだけだ。
そして、逆に訊く。
「気付かない?」
気付く? 気付かない?
そのように問われて、フローリィが思い当たるのはただ1人である。自分が今、顔を見ておこうかと思ったその者でしかない。
「まさか……」
「そう。彼が『C』よ♪」
「…………」
フローリィは何も言わなかったが、開いた口が塞がらないといったような感じで、唖然とした表情を見せた。心なしか、口元から魂が漏れているようにも見えた。何も言葉にならなくても、その表情がフローリィの心情を如実に語っているかのようだった。
「って、ちょっと待て。その反応は何だ。無礼な奴め」
カオスは不満である。自分がアビスの息子であると認めた訳ではないが、そのような表情をされると不快なのに変わりはない。
だが、フローリィはそんなカオスの言葉にも拘らずマイペース。
「はぁ。こんな下品な男が、あたしの従弟だとは。しょっくで、おへそでやかんが大沸騰ってなものよ」
「下品だ? 何言っているか、この馬鹿フローリィ。見ろ」
カオスは目を光らせる。古い少女漫画のような星の輝きを、その瞳の中に灯す。そして、穏やかに微笑む。口元をゆっくりと丸める穏やかな微笑みで、その口元からは白い歯の輝きが溢れていた。
「って、気色悪ッ」
フローリィはドン引きだった。昔の少女漫画をリアルで見せられても気持ち悪いだけだし、それはそれでいいのだと仮定しても、それはカオスのキャラではないと分かっていた。そう、カオスの笑いは「むぃやしゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ……」である。
それはカオス自身分かっている。しかし。
「さっきから下品なツラしているお前に言われる筋合いはねぇ」
「∑ёΓ≒♀∽⌒!」
「∮∞仝〆♂Åх!」
そこで口論が始まるのはお約束。
その様子をアナスタシアは喧嘩しているんじゃないかと心配し、オロオロしていた。が、ロージアはそれを微笑みながら穏やかに眺めているだけだった。ロージアは知っている。これは、2人のコミュニケーションなのだと。
そして、気に入らない者とは必要最低限以上には決して口を利かないフローリィである。それを少し考慮すると、フローリィはカオスを実はとても歓迎しているのだと。
全て分かっていた。
その頃、アビスのところにはアリアが来ていた。
「子供達の様子はどうだ?」
「良いですよ」
チラッとカオス達の様子を見たアリアは、そのように報告する。
「元々フローリィやロージアとは仲が良かったみたいですし、アナスタシアともすぐに打ち解けたみたいですね」
「そうか。それは良かった」
アビスはそれを嬉しく思った。どうなるのか不安に思う程ではないが、良い方向へと転んだのであれば、それはそれで嬉しいものだ。
「子供同士、横の繋がりが蜜となるのは良いからな」
本当に良いことだ。
アビスは思っていた。対魔戦争以降、今まで屈辱ばかり舐めさせられてきたけれど、今ここで良いように転んでいるのではないかと。
もっとも、幸せというのは限りあるものだというのもとっくに分かってはいたのだけれど。